第13話 座れ、イタリア王妃
旗は3枚に増えていた。
狭間へ顔を寄せた時、4枚目が上がる。布が開ききる前に、坂の中ほどで騎馬が1頭止まった。門をしばらく見上げ、数を確かめるように狭間の弓を目でなぞって、また尾根へ引き返す。
「4枚だ」肩の後ろで、城を預かるアットーが言った。「火は見えん。坂を塞ぐ兵もいない」
「では、何のために立っているのです」
「見せるためだ」
火がなければ野営ではない。坂を塞がないなら、今夜攻める気もない。そこまで並べたところで膝が落ちた。胃に残っていた葦の芯を吐く。
「敵の名を当てるのは、眠ってからにしろ」
アットーは私を侍女アッタとマルティンに渡した。荷の受け渡しと同じ手つきだった。文句を言う体力は、もう持っていない。
与えられたのは門楼脇の一室だった。アッタが足を洗うと水が赤くなり、マルティンは衣を脱ぐたび肩をしかめる。私の指は、借り衣の胸元を探っていた。青い硝子は牢に置いてきた。頭はそれを知っていて、指はまだ知らない。
「扉は、外から閉めますか」マルティンが案内役に訊いた。
「内側の閂を使え」
内側。アッタが木の棒を取り落とした。重い音に、三人とも息を止める。
夜半、気づくと私は床を引っ掻いていた。爪の間に土はない。石の床だ。掘る穴などもうないのに、肩まで寝台の下に入れようとしていた。
「こちらです」暗闇で、アッタが私の手を取り、木の棒に導いた。「穴ではありません。ここから開きます」
持ち上げれば、扉は動いた。指一本ぶん開けて、閉める。開く。閉める。その隙間に頬を当てたまま、私は朝まで眠った。アッタは寝台を使わず、閂の下に背をつけ、裂けた足を投げ出し、靴を履いたまま目を閉じていた。
眠る前、マルティンのいびきを聞きながら、エンマが熱を出した夜を思い出した。眠らせまいと抱いていたのに、娘は先に母の腕で寝息を立てた。あの子はいま、誰の眠りを妨げているのだろう。生きていてほしい。生きてさえいればよい、とは、どうしても思えなかった。
*
夜明け、旗は7枚になっていた。
そして、来るはずの穀物が坂の下で止まった。
荷駄はまだ坂に入っていない。御者は道の端で馬を止め、城ではなく尾根を見上げている。胸で十字を切り、馬首を返した。一袋も下ろさずに。
「追わないのですか」階段の途中で膝が固まり、私は壁に手をついた。
「二騎出せば、二頭ぶんの飼葉と、二人ぶんの留守が増える」
「代金なら、後で」
「三人の粥代を惜しんでいると思ったか」アットーは尾根を顎で示した。「あの布の下に兵はいらん。坂を上る者が、勝手に引き返す」
朝の広間では、丸いパンがいつもより薄く切られていた。夜番の兵が、食べる前から眠っている。厨房の少年は端の一枚を自分の口に入れず、妹らしい幼い子の椀に伏せた。昨夜、門で私に弓を向けていた男もいる。男は私を見ずに、「下の村に母がいる」と隣の者へ話していた。旗が坂へ下りてくれば、迎えに行けない母だ。
私は自分のパンを持ち上げた。「これをあの子に」
「やめろ」アットーが言った。
「食べられません」
「なら残せ。王妃が断食したという歌を、私の城の者に背負わせるな」
刺さった。喉が泥と恐怖で閉じていることは、この城の誰にも見えない。見えるのは、差し出されたパンだけだ。
アッタが私のパンを二つに割り、半分を粥に浸して戻した。
「噛めないなら、飲んでください」
腹を立てながら飲んだ。塊が喉を通ると、身体が勝手に空腹を思い出す。残り半分まで食べ、それから弓の男の方へ向き直った。
「昨夜、私に弓を向けた方ですね」
男は椀を持ったまま立ち上がり、また座り、それから立った。「あの、はい。向けました。命じられまして。いえ、命じられなくても向けたと思います。誰だか分かりませんでしたので」
「お母上は、坂のどのあたりに」
「3軒目です。いえ、4軒目かもしれません。数え方が、上からと下からで違いますので」男は隣の兵を見た。助けは来なかった。「近いです。近いのですが、旗が立つと、誰も出すなと」
「私のせいですか」
男は答えなかった。答えたくないのではなく、答えを持っていない顔だった。
「旗は、あなたさまが来る前にも立ちました」隣の兵が椀を置いて言った。「1枚か2枚です。7枚は見たことがありません」
「たまに、です」弓の男が急いで付け足した。「たまに」
アットーは私が食べ終えるのを見届けてから、口を開いた。
「おまえを置けば、門兵が増える。商人は逃げる。敵でない者まで、敵になるのを恐れる」
「旗が坂を上れば、この城は持ちますか」
「小勢ならな。だが、おまえの敵が『奪われた花嫁を救う』と言えば、こちらを攻める者は正義の顔をしていられる。剣より、その顔の方が面倒だ」アットーは薄いパンを噛み切った。「私が匿ったのが王妃か、盗んだのが若い女か。決めるのは、いまのところ噂だ」
「出ていけと?」
「出せば、私は一晩王妃を匿い、朝には売った男になる」
親切も憐れみもない。自分の名を守るための条件なら、明日の気分で裏返りはしない。私は椀を置いた。
「では、私を隠さないでください」
広間のざわめきが止まった。
「城の外に知らせろとは言いません。ここにいる者の前で、私を王妃として席に着かせてください」
「それが、おまえの何になる」
「隠された客は、いつでもいなかったことにできます。大勢に見られた客は、消すのに説明が要ります」
「私にとっては」
「同じです。この城が誰を守ったか、後からあなたにも私にも消せなくなる」
「おまえが死ねば、証言は残らん」
「あなたが死んでも同じです」
アットーは長く私を見た。それから、自分の右隣に置いていた鞍袋を床に下ろした。
「座れ、イタリア王妃。私の客としてだ。城主のつもりで門に命じれば、その日に追い出す」
「私が自分の足でこの門を求めたことも、覚えておいてください」
「注文が多い客だ。だが、それは覚える」アットーは広間を見回した。「この女を引き渡す話は、私を通さずにするな。王妃本人の返事だと勝手に言う者がいたら、まずここへ連れてこい」
示された椅子は、高くも金でもなく、脚の一本が短かった。腰を下ろすと揺れる。構わない。広間じゅうの目が、粗い借り衣の女がそこに座るのを見ている。
昼過ぎ、朝の荷駄を追っていた買付け人が坂を上ってきた。旗を避けて回り込んだという。積み荷は、持って出た3袋のままだった。
「道を塞がれたのですか」
「売ってもらえませんでした。ここへ持ち込めば、新しい王家の婚礼を邪魔することになると」
「誰の婚礼です」
男は、アットーの隣に座る私と、粗い借り衣を見比べた。
「あなたさまのです。王妃は婚姻を受けたのに、この城が帰さないのだと」
「誰がそう言いました」
「最初は市の井戸で聞きました。誰が始めたかは知りません。けれど帰り道では、私が教えたことになりました」男は帽子を握り潰した。「否定のお言葉をいただければ、今度は間違えずに運びます」
親切な申し出だ。自分の声で否定できる。生きているとも伝わる。だが男の帰り道を逆に辿れば、この城に行き着く。噂の出所は知れないのに、否定の出所だけは一目で知れる。アットーは黙って私を見た。何を言い、次にどんな面倒を門へ連れ戻すかまで、私に任せるらしい。
「明日の朝まで、待ってください」私は答えた。「今すぐ返せば、私は欲しい嘘まで一緒に渡します」
「では、夜明けに」男は帽子を被り直した。「私は塩売りと下ります。あの者たちは山を越えますので」
山を越える。私が花嫁になった話だけが、旗の向こうへ先に行く。
「増えたら教えろ」アットーが狭間の兵へ言った。「減ったら、もっと早く教えろ」
夜半、兵が数を告げに来た。5枚。明け方にもう一度来た。
「1枚も残っていません」
坂は空いている。塩売りの馬は、明るくなれば下りていく。私は寝台に腰を下ろしたまま、外套の紐に手をかけた。
史実メモ:近い史料が伝えるのは、司教アデラルドの城壁都市、または名のない堅固な砦での保護です。カノッサとアットー、王妃在城中の包囲は後代伝承。本作の食糧・評判・報復負担をめぐる協議は創作です。




