第12話 三人だけ来い
三度の灯が消えた丘へ近づくと、木々の間で弓弦が鳴った。
「そこで止まれ」
矢が三人の胸に向いた。両手を上げる。アッタの膝が折れ、マルティンが肩を入れて支える。逃げ戻る脚は、もう誰にも残っていない。
「迎えに来た者なら、先に弓を下ろして」
「あなたが誰か分かれば」木立の奥から声が返る。弓は下がらない。
「分かっていて、灯を三度上げたのでしょう」
「追う側も、その名は知っている。ほかを訊け」
口を閉じた。相手の欲しがる名を、こちらから渡しかけた。やがて聖職者の衣を着た男が、武装者の前へ出る。旅の泥が裾までつき、頬は眠っていない者の色をしていた。
「レッジョの司教アデラルドです。あなたを迎えに来ました、アーデルハイト王妃」
その名を、牢の仕切り越しに願い続けてきた。足が勝手に半歩出る。アッタが衣をつかんだ。
「司教は、どの町へ来いと伝えました」
「町の名は伝えていません。城壁の内へ来られるなら保護する。それが私から送った言葉です」
「私が返したのは」マルティンの声が掠れた。
「三人」
「いつから」
「三人と返ってから、毎夜です」
弓が下がった。腕を下ろそうとして、膝が先に落ちる。地面につく前に、アッタとマルティンが左右から支えた。
「本物らしいですよ」アッタが耳元で言った。「答えは二つとも」
「もう少し嬉しそうにしてください」
「立っているので精一杯なの」
アデラルドは近づかず、水の器を地面に置いた。自分で一口飲み、3歩下がる。名を聞かなかった漁師と同じやり方だ。這うように寄り、一口で止めるつもりが、喉は三口まで奪った。
「残っています」アッタは器を受け取り、ひび割れた唇を濡らした。「今は、それで足ります」
器がマルティンへ回るのを待って、アデラルドが近づいた。自分の町へ続く道にも追手が回っているという。司教は土に枝で二本の線を引く。一方は自分の城壁へ、もう一方は山側へ伸びた。
「では、約束はここまでですか」尋ねた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「行き先を変えます。約束は変えない。岩の上にカノッサがあります。アットーという男が預かる城です」枝先が山の線を叩いた。
「あなたが開けられる門?」
「私が頼める門です」司教は枝を置いた。「断られることもある」
土の上で、山側の線は細く、すぐ石のところで途切れていた。指でその先を延ばす。
「頼んでください。三人分を」
*
書記が膝板を出した。王妃本人が保護を求めたこと、司教の一行が三人を見つけたことを短く記す。
「同行する侍女一人と、司祭一人――」
「私は一人ではありません」
書記の声を、アッタが止めた。視線が集まる。怯んだが、私の後ろへは下がらない。
「名があります。アッタです」
書記が筆を動かし、綴りを声にした。アッタは文字を読めない。膝板を覗き込み、私に目を向ける。
「本当に、そう書きましたか」
「ええ。アッタ、と」アッタは口の中で、もう一度、自分の名を言った。
マルティンの名も、呼ばれているとおりに記された。司教は最後に、自分が三人を確かめた一文を足させる。騎手が革包みを抱え、先に山道へ消えた。
*
傷を洗い、空が一度明るくなるまで休んだ。馬と徒歩を入れ替えて進む間、鞍の上で何度も眠りに落ちる。目を覚ますたび、手がアッタの衣をつかんでいた。
「破れます」アッタが眠そうに言った。
「ごめんなさい」
「まだ謝れるなら、寝てください」
「眠ると、あなたをエンマだと思うの」
「では、起きた時にがっかりしますね」
「ええ。少し」
アッタが肘で押した。弱い力だった。その腕をつかんだまま、また眠った。
次に目を開けた時、木々の切れ間から岩の上の囲いが見えた。粗い石と木を継いだ壁は、美しさより近づきにくさを選んでいる。坂上の狭い門では、先の騎手が革包みを抱えて待っていた。書状は着いた。門は閉じていた。
壁から縄籠が下り、革包みを載せて上がっていく。待つあいだ、狭間の弓が一本、二本と増えた。やがて壁の上に肩幅の広い男が立った。
「カノッサを預かるアットーだ。司教の書状は読んだ。王妃だけなら通す。侍女と司祭は司教の護衛に戻せ」
顔を上げた。首の擦り傷が引きつる。門の隙間から火の色が見え、煮た穀物の匂いがした。乾いた床、閉じた壁、眠れる場所。身体が先に選び、足が門へ一歩出る。背後で、アッタの裸足が石を擦った。
振り返る。アッタは何も言わず、マルティンの腕を肩に回し、坂を下りる支度を始めていた。
「待って」
「王妃さまは中へお入りください」アッタは顔を上げない。「約束は果たされます」
一人なら、今すぐ入れる。乾いた石に横になり、朝まで眠れる。胸の中に、ほっとした自分がいた。いた、と認める。
その安堵が消える前に、遠い尾根で布が上がった。色は判別できない。旗が風に開き、司教の武装者がざわめく。
「あれが坂に入る前に決めろ」アットーが言った。「司教の兵も門前から下げてもらう」
アデラルドは険しい顔で腕を上げた。武装者たちが坂を下り、司教自身も弓の届かない位置まで退く。門前に、泥の落ちきらない三人だけが残った。
「カノッサの門を、三人に開いてください」壁を見上げた。
「城が必要としているのは王妃だ」
「二人は私と一緒に牢を出ました」
「だから危険が二人分増える」
「二人は、私が放されたのではないと知っています。婚姻に頷いた後で連れ去られたのでもない」
「おまえ一人が、そう言えばよい」
「私一人なら、明日には何とでも言わせられます」
口にした瞬間、牢の格子が戻った。未亡人と呼べ、王妃と呼べ。どちらも、扉の内側で決められた。
「二人が門外で奪われれば、王妃は司教にさらわれた、婚姻を望んでいた、と別の話が作られます。二人を守ることは、私の言葉を守ることです」
尾根に二つ目の旗が上がった。一つ目より低い場所で揺れている。アットーはすぐに答えなかった。
「二人は何と言う」
アッタが半歩前へ出た。「アッタです。命じられて運ばれたのではありません。途中で何度も、この方を置いて逃げようと思いました」
隣を見た。
「言わなかったでしょう」アッタは小声で続け、門上に顔を戻した。「それでも、自分の足でここまで来ました。私は入ります」
マルティンも胸に手を置いた。「マルティンと呼ばれています。牢から返した言葉は『三人』でした。ここで一人に減らすなら、あの火傷も穴も、ずいぶん割に合いません」
「信仰か、勘定か」
「今は、腹が減っていますので」
アットーは笑わなかった。「三人を入れれば、ベレンガーは私が婚姻を拒む側に立ったと受け取る」
「私一人でも同じでしょう」
「程度が違う」
「その違いごと、選んでください」
差し出せる兵も金もない。持っていない物を約束すれば、あの動詞ばかりの紙と同じになる。門へ出した一歩が、まだ乾いた石を欲しがっている。足を戻さず、壁を見上げた。
「私一人を入れれば、扱いやすい女が一人増えます。三人を入れれば、あなたは答えを奪えなかった王妃を抱えることになる」
アットーの目が細くなった。「それを、門を開ける理由として言うのか」
「他に売れる物がありません」
アットーが狭間から消えた。返事はない。木を引く音、鉄を外す音が壁の内側から続く。アッタが袖に触れた。今度は止めるためではない。
大門の中にある狭い戸が、人一人ぶん開いた。「司教の兵は坂の下だな」内側からアットーが確かめる。
「ええ」
「何人いる」
左右を見た。「三人です」
「三人だけ来い」
アッタが最初に敷居を越えた。次にマルティンが入り、内側から手を伸ばす。その手を取り、片足を敷居に置いた。
門の奥で鍵が鳴った。
牢の扉と同じ音だった。身体が止まる。握ったマルティンの手に、爪が食い込む。
「こちらです」マルティンが引いた。「扉のこちら側です」
最後の足を持ち上げた。裸足に、乾いた石。背後で戸が閉まり、鍵が回る。今度は、アッタもマルティンも同じ側にいた。
「王妃さま」アッタの声だ。
「今、そう呼んだの」
「今は、そうお呼びしたかったのです」
笑おうとすると、先に涙が出た。袖で泥ごと顔を拭い、名前を返す。
「ありがとう、アッタ」
マルティンがその場に座り込んだ。「私も名前を呼ばれれば、立てるかもしれません」
「あなたは休んで」
三人は笑った。今度は誰も口を塞がなかった。
その時、狭間に寄ったアッタの笑いが止まった。
「旗が、増えています」
史実メモ:近い二史料の到達地は、アデラルドの城壁都市、または名のない難攻不落の砦です。アットーとカノッサを名指すのは後代伝承。本作の護衛経路、門前交渉、敵旗は創作です。




