カーナビが案内する廃ホテル
そのホテルは、地図に載っていない。
海沿いの旧道を外れ、山へ向かう細い道を三十分ほど走ると、突然カーナビが沈黙する。
そして、再検索中の表示が消えたあと、目的地が勝手に変わる。
ホテル・ブルーレイン。
聞いたこともない廃ホテル。
ナビは、そこへ案内し始める。
地元では昔から、こう言われていた。
そのホテルへ案内されるのは、誰かを置き去りにした人間だけ。
逃げた人間。
見捨てた人間。
助けを求める声を聞きながら、聞こえなかったふりをした人間。
そしてホテルに着くと、フロントに鍵が置かれている。
鍵には部屋番号ではなく、名前が書いてある。
それは、あなたが置き去りにした人の名前だ。
*
橘沙耶は、成功した女だった。
少なくとも、周囲はそう見ていた。
三十二歳。
都内の広告代理店で企画職。
年収は同世代の平均よりずっと高い。
インスタには、ホテルラウンジのアフタヌーンティー、海外コスメ、休日の美術館、夜景の見えるレストラン。
結婚はしていない。
けれど、独身を拗らせているようには見られないよう、丁寧に整えていた。
誰かに羨ましがられる生活。
それが、沙耶の努力の成果だった。
ただ一つ、消せないものがある。
高校時代の友人、森川千尋のことだ。
千尋は、沙耶の親友だった。
いや、正確には、親友だったことにしている。
沙耶がそう言えば、周囲は信じた。
千尋はもう反論できない。
十六年前、千尋は行方不明になった。
修学旅行の自由行動中、海沿いの町で姿を消した。
最後に千尋と一緒にいたのは、沙耶だった。
当時、沙耶は泣きながら警察に話した。
「少しだけ別行動しようって言って、待ち合わせ場所に戻ったら、千尋が来なくて」
嘘ではなかった。
完全な嘘では。
けれど、本当でもなかった。
*
その日、沙耶は海沿いの町へ向かっていた。
仕事だった。
地方観光キャンペーンの打ち合わせ。
最近は、寂れた温泉街や廃れた商店街を「レトロ」「ノスタルジック」として売り出す企画が増えている。
沙耶はそういう見せ方が得意だった。
朽ちかけたものを、少し綺麗な言葉で包む。
人の痛みを、物語に変える。
それで数字を取る。
便利な仕事だと思う。
レンタカーのカーナビに目的地の旅館を入れ、沙耶は高速を降りた。
雨が降っていた。
細い雨ではなく、窓を叩くような強い雨。
ワイパーの向こうに、灰色の海が見えた。
打ち合わせの時間には少し余裕がある。
スマホには、クライアントからのメッセージが届いていた。
『雨が強いので、お気をつけてお越しください』
沙耶は短く返信した。
『ありがとうございます。予定通り伺います』
大人の返信。
正しい返信。
そういうものを積み上げて、沙耶はここまで来た。
その時、カーナビが突然、音を立てた。
『ルートを再検索します』
「え?」
一本道だったはずだ。
スマホの地図を見ようとしたが、電波が弱い。
ナビの画面が一瞬暗くなり、次に表示された目的地名を見て、沙耶はハンドルを握る手に力を込めた。
ホテル・ブルーレイン。
知らない名前。
だが、沙耶はその響きを知っていた。
十六年前、千尋が口にした名前だった。
『ねえ、沙耶。ブルーレインってホテル、知ってる?』
修学旅行の自由行動。
千尋は古い観光パンフレットを見ながら、そう言った。
『昔、すごく綺麗なホテルだったんだって。今は廃墟らしいけど』
『廃墟なんて行かないよ』
『写真だけ撮りたいなって』
『先生に怒られるよ』
『少しだけ。沙耶も一緒に来てよ』
沙耶は断った。
千尋がそういう場所を好きなのを、昔から知っていた。
古い建物。
誰かが残した落書き。
使われなくなった駅。
忘れられた場所。
千尋はそういうものを見ると、目を輝かせた。
一方、沙耶は新しいものが好きだった。
綺麗で、評価されて、みんなが羨むもの。
二人は親友だったが、見ている方向は違った。
そのズレは、修学旅行の時にはもう決定的になっていた。
沙耶は、クラスの中心に近づきたかった。
千尋といると、地味な子の側に引き戻される気がして嫌だった。
だから、あの日。
沙耶は千尋を置いていった。
*
ナビは旧道から外れ、山側の細い道へ入るよう指示していた。
『三百メートル先、右方向です』
「違う」
沙耶は声に出した。
「目的地、旅館にしたはず」
画面を操作する。
反応しない。
キャンセルボタンを押しても、目的地は変わらない。
ホテル・ブルーレイン。
到着予想時刻、午後四時四十四分。
沙耶は車を停めようとした。
だが、後ろからトラックが来ている。
道幅が狭く、停車できる場所もない。
仕方なく、ナビの指示通り右折した。
山道に入った途端、周囲が暗くなった。
杉の木が両側から覆いかぶさり、昼間なのに夕方のようだった。
雨はさらに強くなる。
ワイパーが追いつかない。
沙耶は深く息を吸った。
大丈夫。
ただのナビの誤作動。
山道を抜ければ、どこかで引き返せる。
そう思った時、スピーカーから別の音が聞こえた。
ナビの音声ではない。
小さな女の声。
『沙耶』
ブレーキを踏みそうになった。
千尋の声だった。
忘れたはずの声。
少し鼻にかかった、頼りなさそうで、でも笑うと妙に明るくなる声。
『沙耶、待って』
「やめて」
沙耶は呟いた。
『置いていかないで』
「やめて!」
ナビは淡々と告げた。
『目的地周辺です』
目の前に、建物が現れた。
ホテル・ブルーレイン。
看板は錆び、青い文字はほとんど剥がれていた。
かつては白かった外壁が黒く汚れ、窓ガラスの多くが割れている。
玄関の上に、古い雨よけの屋根が張り出していた。
そこから、雨水がぼたぼたと落ちている。
沙耶は車内で動けなかった。
こんな場所に来るつもりはなかった。
だが、ナビは告げた。
『到着しました』
*
十六年前、沙耶は千尋と喧嘩した。
理由は小さなことだった。
自由行動の班。
千尋は沙耶と二人で町を歩きたがった。
沙耶は、クラスで目立つ女子たちのグループに合流したかった。
『千尋も来ればいいじゃん』
『私、あの子たち苦手』
『じゃあ少しだけ別行動しようよ』
『沙耶、最近ずっとそうだね』
千尋のその一言が、沙耶の胸を刺した。
責められた気がした。
見透かされた気がした。
だから、強く言い返した。
『千尋ってさ、重いよ』
千尋は黙った。
『何でも一緒じゃなきゃ駄目なの? 私にだって他の友達いるんだけど』
『……ごめん』
その謝り方が、また嫌だった。
自分が悪者になった気がしたから。
千尋はしばらく黙ってから、古いパンフレットを握りしめて言った。
『じゃあ私、ブルーレイン見に行ってくる』
『勝手にすれば』
沙耶はそう言った。
そのあと、クラスの女子たちとカフェへ行った。
写真を撮った。
アイスを食べた。
笑った。
そして待ち合わせ時間になっても、千尋は戻らなかった。
沙耶のスマホには、千尋から着信が何度も入っていた。
気づいていた。
だが、出なかった。
まだ怒っていると思われたくなかった。
それに、周りの女子たちに「千尋から?」と聞かれるのが嫌だった。
だから電源を切った。
その数時間後、千尋は行方不明者になった。
*
沙耶は車から降りた。
雨でパンプスが濡れる。
廃ホテルの玄関は、半分開いていた。
中から湿った空気が流れてくる。
古い絨毯。
カビ。
雨漏り。
それに、微かに甘い香り。
高校時代、千尋が使っていたリップクリームの匂いに似ていた。
沙耶はスマホを取り出した。
圏外。
ナビも消えている。
車に戻るべきだった。
だが、玄関の奥にあるフロントカウンターの上に、何かが見えた。
鍵。
古いホテルのルームキー。
青いプレートがついている。
そこには部屋番号ではなく、名前が書かれていた。
森川千尋。
沙耶の足が勝手に前へ出た。
フロントに近づく。
鍵を手に取る。
冷たかった。
プレートの裏には、別の文字があった。
沙耶へ。
沙耶は鍵を落としそうになった。
その時、フロントの奥で電話が鳴った。
古い内線電話。
黒い受話器。
ジリリリリ、と乾いた音が響く。
沙耶は動けない。
電話は鳴り続ける。
ジリリリリ。
ジリリリリ。
やがて、スピーカーのようなものから声が流れた。
『フロントです』
千尋の声。
『お連れ様がお待ちです』
沙耶は唇を震わせた。
「……どこに」
『四〇七号室です』
エレベーターは止まっていた。
沙耶は階段を上った。
一段ごとに、靴音が濡れたコンクリートに響く。
二階。
三階。
四階。
廊下は暗く、窓の外では雨が斜めに降っていた。
四〇七号室の扉は、開いていた。
中には、古いベッドが二つ。
割れた鏡台。
破れたカーテン。
そして、ベッドの上に修学旅行のしおりが置かれていた。
十六年前のもの。
沙耶の手書きの名前がある。
ページをめくると、自由行動の予定欄に、丸い字で書き込みがあった。
沙耶と海を見る。
千尋の字だった。
沙耶は息を詰めた。
自分は知らなかった。
千尋がそんなことを書いていたなんて。
いや、違う。
知ろうとしなかった。
ベッド脇のテレビが、突然ついた。
砂嵐。
ノイズ。
そして、映像。
十六年前の町。
防犯カメラの映像のようだった。
千尋が一人で歩いている。
手にはパンフレット。
何度もスマホを見ている。
沙耶に電話をかけている。
出ない。
千尋は不安そうに周囲を見る。
その後ろから、白いワゴン車がゆっくり近づく。
沙耶は画面に釘づけになった。
見たくない。
でも目が離せない。
車の窓が開く。
中の男が、千尋に何かを言う。
千尋は首を横に振る。
男は笑う。
映像が乱れる。
次に映ったのは、山道だった。
雨。
ホテル・ブルーレイン。
千尋が車から降ろされる。
泣いている。
スマホを握っている。
画面には、沙耶の名前。
発信中。
繋がらない。
沙耶は口元を押さえた。
知らなかった。
知らなかったのだ。
千尋がこんな場所まで連れてこられていたなんて。
沙耶は直接何かをしたわけではない。
ただ電話に出なかっただけ。
ただ一緒に行かなかっただけ。
ただ置いていっただけ。
テレビの中の千尋が、こちらを見た。
画面越しに、まっすぐ沙耶を見た。
『沙耶』
声が部屋に響いた。
『どうして出てくれなかったの?』
沙耶は首を振った。
「知らなかった……私、そんなことになるなんて知らなくて……」
『うん』
千尋は泣いていた。
『沙耶は、いつも知らなかったって言うよね』
「だって、本当に」
『私がひとりでいるのが怖かったことも?』
「……」
『沙耶に嫌われたくなくて、ずっと合わせてたことも?』
「千尋……」
『沙耶が私を恥ずかしがってたことも?』
沙耶は膝から崩れ落ちた。
知らなかった。
そう言いたかった。
でも違う。
薄々分かっていた。
千尋が傷ついていることも。
自分が千尋を遠ざけていることも。
それでも見ないふりをした。
自分が上へ行くために。
“地味な親友”を、過去に置いていくために。
『ねえ、沙耶』
テレビの中の千尋が、微笑んだ。
十六年前と同じ、少し困ったような笑み。
『私、待ってたよ』
映像が切り替わった。
ホテルの一室。
千尋は窓際に座っている。
手首には傷がある。
口元には血が滲んでいる。
けれど、まだ生きていた。
スマホを握っていた。
何度も、何度も、沙耶に電話している。
不在着信。
一件。
二件。
三件。
十件。
二十件。
画面が暗転する直前、千尋は小さく言った。
『沙耶なら、迎えに来てくれる』
沙耶は叫んだ。
*
気づくと、沙耶はフロントに戻っていた。
雨の音がしている。
手には、千尋の名前が書かれた鍵。
目の前には、宿泊者名簿が開かれていた。
古い紙。
そこには、無数の名前が並んでいる。
誰かを置き去りにした人間たち。
誰かに置き去りにされた人間たち。
沙耶の名前もあった。
橘沙耶。
その横に、空欄がある。
チェックイン。
チェックアウト。
フロントのベルが鳴った。
ちん。
沙耶は顔を上げた。
カウンターの奥に、千尋が立っていた。
高校時代の制服姿。
濡れた髪。
青白い顔。
でも、表情は穏やかだった。
『沙耶、泊まっていく?』
「嫌……」
『あの日、私もそう思った』
「ごめん」
沙耶は泣いた。
「ごめん、千尋。私、怖かったの。千尋といる自分が地味に見られるのが嫌で、置いていった。電話も気づいてた。でも出なかった。ごめん……」
千尋は黙って聞いていた。
「でも、私はあなたを殺してない」
言った瞬間、自分の声がひどく冷たく聞こえた。
千尋の顔が少しだけ傾いた。
『うん』
それだけだった。
責めない。
否定もしない。
その静けさが、沙耶を追い詰めた。
「私は……殺してない」
『じゃあ、書けるよね』
「何を」
『本当のこと』
フロントの上に、沙耶のスマホが置かれていた。
画面には投稿サイト「夜見帳」の編集画面。
タイトル欄には、すでに文字が入っている。
カーナビが案内する廃ホテル。
本文欄には、カーソルが点滅していた。
沙耶は首を振った。
「無理。仕事がある。会社に知られたら、全部終わる」
『私も終わったよ』
千尋の声は、静かだった。
『十六年前に』
沙耶はスマホを掴んだ。
指が勝手に動く。
私は、親友を置き去りにした。
文字が入力されていく。
修学旅行の自由行動中、私は千尋と一緒にいることが恥ずかしくなった。
クラスの目立つ子たちと一緒にいたかった。
だから千尋をひとりにした。
彼女からの電話に気づいていた。
でも出なかった。
彼女がどれほど不安だったか、知ろうとしなかった。
私は千尋を殺していない。
けれど、千尋が生きて帰るために必要だった一度の電話を、私は切った。
沙耶は泣きながら画面を見ていた。
投稿ボタンが押される。
その瞬間、ホテルの照明が一斉についた。
ロビー。
階段。
廊下。
無数の部屋。
そこに、人影が立っていた。
誰かを待っている人たち。
置き去りにされた人たち。
彼らは皆、沙耶を見ていた。
千尋が言った。
『帰っていいよ』
沙耶は顔を上げた。
「……いいの?」
『うん。沙耶は帰れるよ』
千尋は少し笑った。
『私は、帰れなかったけど』
*
沙耶は翌朝、車の中で発見された。
ホテルの前ではなかった。
打ち合わせ先の旅館から数百メートルの駐車場。
エンジンは止まり、ナビは正常に戻っていた。
クライアントからの着信が何件も入っている。
投稿は、すでに拡散されていた。
会社にも知られた。
高校時代の同級生たちにも。
千尋の家族にも。
コメント欄は荒れた。
『これ実話?』
『最低』
『でもこういう置き去り、誰でもやってる気がする』
『親友って何なんだろう』
『カーナビの話より人間が怖い』
その中に、一件だけ、青いホテルキーのアイコンからコメントがあった。
『チェックアウトしました』
それ以降、沙耶のカーナビには時々、登録していない目的地が表示されるようになった。
ホテル・ブルーレイン。
到着予想時刻、午後四時四十四分。
沙耶はそのたびに、車を停める。
もう二度と、誰かを置き去りにしたくないから。
けれど、最近になって一つだけ変わったことがある。
ナビの音声が、行き先を告げる前に、必ずこう言うようになったのだ。
『次は、あなたが迎えに行く番です』
ホテル・ブルーレインは、今も地図に載っていない。
それでも、雨の日の旧道でナビが勝手に再検索を始めたら、気をつけたほうがいい。
その目的地は、あなたが行きたい場所ではない。
あなたが、いつか見捨てた誰かが、まだ待っている場所なのだから。




