深夜だけ回る洗濯機
そのコインランドリーでは、午前二時二十二分になると、誰も使っていない洗濯機が勝手に回り始める。
場所は、住宅街の外れ。
コンビニの跡地を改装した、二十四時間営業の古いコインランドリー。
白い蛍光灯。
くたびれた長椅子。
壁に貼られた色褪せた注意書き。
洗剤の甘い匂いと、乾燥機の熱。
そこには何も特別なものはない。
ただ、店の一番奥。
八番の洗濯機だけは、昔から使ってはいけないと言われていた。
硬貨を入れていないのに回る。
中から、水ではないものが流れる音がする。
終わったあと、取り出し口に誰かの服が残っている。
それを持ち帰ると、三日以内に秘密が洗い流される。
隠していたこと。
なかったことにしたこと。
汚れたまま畳んで、普通の顔でしまっておいたこと。
全部、白日の下に干される。
*
宮原紗月は、洗濯が嫌いだった。
正確には、夫の服を洗うのが嫌いだった。
シャツの襟元に残る汗の匂い。
靴下の湿った重さ。
スーツ用のインナーに染みた、外の空気。
それらを洗濯機へ放り込むたび、紗月は自分が誰かの人生の後始末をしているような気分になった。
夫の啓介は、優しい人だった。
少なくとも、周囲からはそう見られていた。
大手住宅メーカー勤務。
穏やかで、怒鳴らず、家事にも理解がある。
子どもはいない。
結婚五年目。
共働き。
近所の人たちからは、感じのいい夫婦だと思われている。
紗月自身も、そう思われるように振る舞ってきた。
けれど、夫婦の中身はとっくに乾いていた。
啓介は帰りが遅い。
休日も仕事だと言う。
食卓で会話をしても、話題は天気と予定と買い物リストだけ。
紗月が何かを話しても、啓介はスマホを見ながら「うん」と言う。
その「うん」が、紗月は何より嫌いだった。
聞いていない。
でも否定もしない。
だから責めにくい。
優しい夫という外側だけが残って、中身はもう空っぽだった。
そんな時、紗月は近所のコインランドリーで一人の男と出会った。
秋山亮。
近くの美容室で働く、三十代前半の男。
最初はただの世間話だった。
雨の日に乾燥機が混んでいて、待ち時間が重なった。
亮はよく笑う男だった。
人の話を途中で遮らない。
紗月が何でもない愚痴をこぼすと、ちゃんと目を見て聞いてくれる。
「それ、しんどいですね」
たったそれだけの言葉に、紗月は救われた気がした。
救われた気になった。
それが始まりだった。
*
不倫という言葉は、自分には似合わないと思っていた。
ドラマの中の話。
あるいは、もっと派手な女がすること。
けれど実際には、不倫はもっと地味に始まる。
洗濯物を畳む間の会話。
乾燥機が止まるまでの十五分。
雨宿りの延長。
コンビニのコーヒー。
誰にも見られていないと思える、深夜の明るい店内。
紗月は、亮と会うためにわざと洗濯をためるようになった。
家の洗濯機は壊れていない。
それでも「毛布を洗うから」「乾燥だけ使いたいから」と理由をつけて、夜に家を出た。
啓介は何も疑わなかった。
いや、疑わないふりをしていたのかもしれない。
それさえ、紗月には分からなかった。
亮との関係は、ある夜を境に変わった。
コインランドリーの閉店はない。
客が誰もいない時間もある。
乾燥機の熱。
蛍光灯の白い光。
外の雨音。
亮が、紗月の手に触れた。
「宮原さんって、いつも我慢してる顔してますよね」
その言葉が、鍵だった。
紗月は泣きそうになった。
我慢している。
そう、私は我慢している。
誰も分かってくれない。
夫も。
友人も。
親も。
私はずっと、きちんとした妻の顔をしている。
その苦しさを分かってくれたのは、この人だけだ。
そう思った。
思いたかった。
その夜、紗月は亮とキスをした。
洗剤の甘い匂いの中で。
誰かの服が乾燥機の中で回る音を聞きながら。
*
八番の洗濯機の噂を聞いたのは、常連の老女からだった。
その日は、雨が降っていた。
店内には紗月と老女だけ。
亮はまだ来ていなかった。
老女は白髪を一つにまとめ、古い買い物カートに洗濯物を詰めていた。
「あんた、奥のは使っちゃ駄目だよ」
突然そう言われ、紗月は顔を上げた。
「奥?」
「八番」
老女は顎で示した。
店の一番奥にある、少し古い型の洗濯機。
他の機械と同じように見える。
ただ、扉の縁だけ妙に黒ずんでいた。
「壊れてるんですか?」
「壊れてるなら、まだいいけどね」
老女は乾いた声で笑った。
「あれはね、夜中に勝手に回るんだよ」
紗月は曖昧に笑った。
「怖い話ですか?」
「怖いかどうかは、その人次第だね」
老女は洗濯物をカートに詰めながら続けた。
「昔、ここで女の人が死んだんだよ」
紗月の笑みが薄くなる。
「事故ですか?」
「さあねえ。事故ってことになってるけど」
老女は、店の奥を見た。
「その人、旦那に浮気されてたらしいよ。旦那のシャツを洗ってたら、口紅がついてたんだと」
紗月は無意識に自分の唇に触れた。
老女は気づいたのか、気づかないのか、そのまま話す。
「問い詰めても旦那は知らん顔。相手の女も知らん顔。近所も噂だけして助けない。最後はここで、夜中に一人で洗濯してた」
「それで……?」
「八番の中に入ってたんだって」
紗月は眉をひそめた。
「入ってた?」
「人が入れる大きさじゃないのにねえ」
老女は笑った。
笑い話ではない声だった。
「それから八番は、汚れを落とすんじゃなくて、隠し事を落とすようになった」
「隠し事?」
「持って帰っちゃ駄目だよ」
老女は言った。
「あれが吐き出した服は、持って帰っちゃ駄目。誰の服に見えてもね」
その時、店の自動ドアが開いた。
亮が入ってきた。
「こんばんは」
紗月の心臓が跳ねる。
老女は亮を一瞥し、それから紗月を見た。
「洗っても落ちない汚れって、あるからね」
そう言って、老女は出ていった。
*
亮との関係は、三か月続いた。
長いのか短いのか、紗月には分からない。
ただ、その三か月の間だけ、紗月は自分が女として見られている気がした。
妻でも、同僚でも、近所の奥さんでもない。
ただの女。
その甘さは、紗月を少しずつ悪くした。
啓介が帰宅しても、顔を見なくなった。
夫の洗濯物に触れるのが、ますます嫌になった。
自分の罪悪感を、夫への不満にすり替えた。
寂しくさせたのは啓介だ。
悪いのは啓介だ。
私は傷ついていた。
だから仕方なかった。
そう言い訳すればするほど、亮に会う時間だけが正しく思えた。
ある夜、啓介が言った。
「最近、よくコインランドリー行くね」
紗月は洗い終えたタオルを畳みながら答えた。
「乾燥機、便利だから」
「家の乾燥機能、使えばいいのに」
「時間かかるの」
「そう」
啓介はそれ以上聞かなかった。
その「そう」が、紗月を苛立たせた。
「何? 疑ってるの?」
啓介は少し驚いた顔をした。
「いや、別に」
「だったら言わないで」
「ごめん」
すぐ謝る。
それも嫌だった。
争うことすら避ける夫。
何も見ていない夫。
紗月はタオルを強く畳んだ。
その夜、亮に会うと、紗月は泣いた。
「もう限界かもしれない」
亮は優しく背中を撫でた。
「無理しなくていいんですよ」
「でも、どうしたらいいか分からない」
「紗月さんが幸せになれるほうを選べばいい」
その言葉に、紗月は胸を締めつけられた。
名前で呼ばれた。
それだけで、すべてを捨ててもいいような気がした。
だが、亮は一度も「夫と別れてほしい」とは言わなかった。
紗月も、それに気づかないふりをした。
*
その夜。
午前二時過ぎ。
紗月は一人でコインランドリーにいた。
亮から連絡が来なかった。
既読もつかない。
何度もスマホを見ながら、乾燥機の前の長椅子に座っていた。
店内には誰もいない。
蛍光灯がじりじりと鳴っている。
洗濯機の表示ランプはすべて消えている。
午前二時二十二分。
店の奥で、音がした。
ごとん。
八番の洗濯機だった。
表示ランプが勝手につく。
硬貨は入れていない。
誰も触っていない。
それなのに、洗濯機は低い音を立てて回り始めた。
水が流れる音。
だが、普通の水音ではない。
もっと重い。
粘ついたものが内側を叩いているような音。
紗月は立ち上がった。
帰ればよかった。
だが、足は奥へ向かっていた。
八番の丸い窓の中で、何かが回っている。
白い布。
シャツ。
男物のワイシャツだった。
啓介のものに似ていた。
胸元に、赤い染みがある。
口紅のような。
血のような。
紗月は息を呑んだ。
洗濯機はしばらく回り続け、やがて止まった。
電子音は鳴らない。
ただ、扉のロックが外れる音だけがした。
かちり。
中から、白いシャツが一枚出てきた。
濡れていない。
綺麗に畳まれている。
胸元には、薄いピンクの口紅の跡。
そして、襟の内側に名前が書かれていた。
宮原啓介。
紗月の頭の中が白くなる。
啓介のシャツ。
なぜここに。
まさか。
啓介も浮気している?
そう思った瞬間、胸の中に妙な熱が生まれた。
怒り。
安心。
そして、喜び。
ほら、やっぱり。
啓介だって裏切っていた。
なら、私だけが悪いわけじゃない。
紗月はシャツを掴んだ。
持って帰ってはいけない。
老女の言葉が脳裏をよぎる。
だが、紗月はシャツをバッグに押し込んだ。
これで啓介を責められる。
これで自分も許される。
そう思った。
*
家に帰ると、啓介はリビングで起きていた。
午前三時。
テレビもつけず、ソファに座っている。
「どこ行ってたの」
啓介が聞いた。
責める声ではなかった。
それがまた、紗月を苛立たせた。
「コインランドリー」
「こんな時間まで?」
「あなたこそ、何してるの」
「待ってた」
「私を?」
「うん」
紗月は笑った。
「珍しいね。私のことなんか見てなかったのに」
啓介は黙った。
紗月はバッグからシャツを取り出し、テーブルに叩きつけた。
「これ、何?」
啓介の表情が変わった。
「……どこで」
「コインランドリー。八番の洗濯機から出てきた」
啓介はシャツを見つめたまま、動かなかった。
「誰の口紅?」
「紗月」
「答えて」
「それは」
「浮気してたんでしょ?」
紗月は笑っていた。
頬が引きつっているのが自分でも分かった。
「ねえ、そうなんでしょ? あなたも私を裏切ってたんでしょ?」
啓介は顔を上げた。
「君も、って何?」
しまった。
そう思った時には遅かった。
啓介の目が、初めてまっすぐ紗月を見た。
優しい夫の目ではなかった。
疲れ切った、一人の男の目だった。
「紗月。俺、知ってるよ」
「何を」
「秋山さんのこと」
部屋が静かになった。
乾燥機の熱も、洗剤の匂いもない。
ただ、自宅の冷たい空気だけがあった。
「……何言ってるの」
「見たんだ。何度か」
「違う」
「コインランドリーの前で、二人で車に乗ってるところも」
「違う!」
啓介はテーブルのシャツに視線を落とした。
「そのシャツは、俺のじゃない」
「名前が」
「俺の字じゃない」
紗月はシャツを掴んだ。
確かに、名前の字が違う。
子どもが真似して書いたような、不自然な字。
宮原啓介。
その文字が、じわりと滲んだ。
ピンクの口紅跡が広がっていく。
違う。
これは証拠だ。
啓介を責めるための。
私が被害者になるための。
なのに、シャツの布地が少しずつ変色していく。
白から、淡いベージュへ。
男物のワイシャツではなく、女物のブラウス。
胸元に赤い口紅。
襟の内側に、別の名前。
宮原紗月。
紗月は悲鳴を上げた。
そのブラウスは、自分のものだった。
亮と初めてキスした日に着ていた服。
洗って、捨てたはずの服。
「何で……」
啓介は目を閉じた。
「君、俺に言いたいことがあるんじゃないの」
紗月は首を振った。
「違う。私だけじゃない。あなたが悪いの。あなたが私を見なかったから」
「そうかもしれない」
「そうよ!」
「でも、裏切ったのは君だ」
その一言は、大声ではなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
*
翌日、紗月は亮に会いに行った。
美容室の裏口。
亮は煙草を吸っていた。
紗月を見ると、露骨に気まずそうな顔をした。
「連絡、返せなくてすみません」
「昨日、どこにいたの?」
「ちょっと忙しくて」
「嘘」
亮はため息をついた。
「紗月さん、落ち着いてください」
「夫にバレた」
亮の顔が変わった。
心配ではない。
面倒なことになった、という顔だった。
「それは……大変ですね」
「大変ですね?」
「いや、俺にどうしろって」
紗月の胸が冷えた。
「亮くん、私に言ったよね。幸せになれるほうを選べばいいって」
「言いましたけど」
「私、選ぶよ。啓介と別れる。だから」
「待ってください」
亮は煙草を消した。
「俺、そういうつもりじゃないです」
音が消えた気がした。
「そういうつもりって?」
「いや、紗月さんのこと嫌いとかじゃなくて。でも、旦那さんと別れて俺とどうこうっていうのは」
「私を好きって言った」
「好きですよ。でも」
「でも?」
亮は視線を逸らした。
「重いです」
紗月は笑った。
乾いた笑いだった。
「重い?」
「俺、結婚とか無理なんで。そもそも紗月さん、旦那さんいるから安心だったっていうか」
「安心?」
「割り切れると思ってたんです」
割り切れる。
その言葉で、紗月の中の何かが切れた。
亮にとって、自分は救われる相手ではなかった。
ただ、夫がいるから本気にならなくて済む女。
深夜の暇つぶし。
寂しさを埋めるための、都合のいい相手。
紗月は後ずさった。
「最低」
亮は苛立ったように眉を寄せた。
「いや、紗月さんも同じでしょ。旦那さんに言えないから、俺のところ来てたんでしょ」
何も言い返せなかった。
その時、亮の店の中から若い女性スタッフが顔を出した。
「秋山さん、お客様来てます」
「あ、今行く」
亮はすぐに仕事の顔に戻った。
紗月は、その変わり身を見ていた。
自分だけが、深夜のコインランドリーに取り残されているようだった。
*
その夜、啓介は家にいなかった。
テーブルの上に、封筒が置かれていた。
離婚届ではない。
探偵の報告書だった。
写真。
日時。
場所。
コインランドリー。
亮の車。
ホテル。
紗月はそれを一枚ずつ見た。
知らない自分が写っていた。
亮に笑いかける自分。
夫には見せなくなった顔。
その写真の最後に、一枚だけ変なものが混じっていた。
コインランドリーの店内。
八番の洗濯機の前。
紗月と亮が並んでいる。
その背後に、女が立っていた。
濡れた髪。
白い顔。
胸元に赤い口紅のついたブラウス。
紗月は写真を投げた。
スマホが震えた。
啓介からではない。
亮からでもない。
通知は、投稿サイト「夜見帳」からだった。
『下書きが保存されました』
開いた覚えはない。
なのに画面には編集ページが表示されていた。
タイトル。
深夜だけ回る洗濯機。
本文欄には、すでに文章が入力され始めていた。
私は、夫が私を見てくれないと言いながら、夫の孤独を見なかった。
私は、寂しかった。
でも、その寂しさを理由にして、裏切った。
私は、相手の男に救われたと思っていた。
けれど本当は、私に都合のいい言葉だけを拾っていただけだった。
紗月はスマホを閉じようとした。
閉じられない。
文字は続く。
夫のシャツに口紅を見つけたかった。
夫も汚れていてほしかった。
そうすれば、自分だけが悪いわけではないと思えるから。
でも八番の洗濯機が洗い流したのは、夫の汚れではなかった。
私が被害者のふりをするために畳んでしまっていた、自分の汚れだった。
紗月は泣かなかった。
もう泣いても、誰かが抱きしめてくれる場面ではなかった。
投稿ボタンが押された。
*
その記事は、翌朝には拡散されていた。
夫婦関係。
不倫。
コインランドリーの怪談。
人は、そういう話が好きだ。
コメント欄はすぐに荒れた。
『旦那さんかわいそう』
『でも寂しさも分かる』
『不倫相手が一番クズ』
『いや主人公が悪い』
『八番洗濯機こわ』
『洗濯機が回る音、もう聞けない』
その中に、一件だけ、洗濯機のアイコンからコメントがついた。
『まだ汚れが残っています』
紗月はそれを見て、すぐに画面を閉じた。
啓介は帰ってこなかった。
数日後、弁護士から連絡が来た。
亮からは、何も来なかった。
コインランドリーの八番は、その後すぐに撤去された。
老朽化のため、と店には貼り紙が出た。
だが、常連たちは知っている。
撤去の日、八番の中から大量の服が出てきたという。
男物のシャツ。
女物のブラウス。
子どもの体操服。
会社の制服。
どれも綺麗に洗われていた。
ただし、襟元や胸元には、どうしても落ちない染みが残っていた。
今でもそのコインランドリーでは、午前二時二十二分になると、どこかの機械が勝手に回ることがある。
その時、店内に一人でいてはいけない。
もし洗濯が終わった音がして、取り出し口に見覚えのある服が入っていたら。
絶対に持ち帰ってはいけない。
それは、あなたの服かもしれない。
あなたが捨てたつもりでいた、いちばん汚れた日の服かもしれないのだから。




