子どもが消える砂場
その団地の砂場では、子どもが一人増える。
夕方五時を過ぎてから遊ばせてはいけない。
砂場の真ん中に、知らない子が座っていることがあるからだ。
その子は、赤いシャベルを持っている。
顔を上げず、ただ砂を掘っている。
もし話しかけられたら、返事をしてはいけない。
もし名前を呼ばれたら、振り向いてはいけない。
振り向いた子どもは、その日の夜から熱を出す。
そして三日以内に、家の中からいなくなる。
地元では、その噂をひとり増える砂場と呼んでいた。
*
椎名香織は、自分が“普通の母親”だと思われることを何より嫌っていた。
普通の服。
普通の弁当。
普通の習い事。
普通の幼稚園。
そういうもの全部が嫌だった。
だから娘の美優には、何でも一番いいものを与えた。
私立幼稚園。
英語教室。
ピアノ。
バレエ。
知育玩具。
オーガニックのおやつ。
写真映えする子ども服。
美優が何を好きかより、それを見た他人がどう思うかのほうが大事だった。
もちろん、香織はそんなことを口にはしない。
SNSでは、いつもこう書いた。
『娘の可能性を広げてあげたいだけ』
『子どもの笑顔が一番』
『無理はさせず、楽しく成長を見守っています』
写真の中の美優は、いつも笑っていた。
笑うまで、何枚でも撮ったからだ。
香織が住んでいる青葉台団地は、築三十年を超える古い団地だった。
夫の収入では、駅近の新築マンションには届かなかった。
だから香織は、団地に住んでいることを隠していた。
背景に古い外壁が映らないよう、写真は必ず室内か、習い事先か、少し遠くのカフェで撮った。
団地のママたちとは、適度な距離を置いていた。
あの人たちとは違う。
香織はいつもそう思っていた。
特に、三号棟の小野寺理沙が嫌いだった。
理沙はいつもすっぴんに近い顔で、髪をひとつに結び、古いスニーカーで砂場に来る。
息子の晴斗は、毎日のように泥だらけになって遊んでいた。
英語も、ピアノも、バレエもしていない。
おやつはスーパーの袋菓子。
服も安物。
それなのに晴斗は、なぜか子どもたちの中心にいた。
美優も、晴斗が好きだった。
「晴斗くんと遊びたい」
美優はよく言った。
そのたびに、香織の胸の奥がざらついた。
「美優は今日ピアノでしょ」
「明日は?」
「明日は英語」
「じゃあ、その次は?」
「バレエ」
美優は小さく唇を尖らせる。
「砂場で遊びたい」
「砂場なんて汚いだけよ」
そう言うと、美優は黙った。
けれど窓の外で晴斗たちが遊ぶ声が聞こえると、いつもそちらを見ていた。
香織はそれが嫌だった。
まるで、自分が与えているものより、砂場の泥のほうが魅力的だと言われているようだったから。
*
青葉台団地の中央には、小さな公園があった。
錆びたブランコ。
低い滑り台。
藤棚。
そして、四角い砂場。
砂場の端には、赤いシャベルがいつも一本だけ刺さっていた。
誰のものか分からない。
捨てられているわけでもない。
誰かが片づけても、翌日には砂場に戻っている。
子どもたちは、そのシャベルを使わなかった。
理由を聞くと、晴斗が言った。
「それ、サキちゃんのだから」
香織は眉をひそめた。
「サキちゃん?」
「砂場にいる子」
「誰、それ」
「知らない」
晴斗は当然のように言った。
「でも、夕方になるといるよ」
理沙は慌てて晴斗の口を押さえた。
「晴斗、変なこと言わないの」
「変じゃないよ。サキちゃん、いるもん」
香織は笑った。
「子どもの想像力ってすごいですね」
柔らかく言ったつもりだった。
だが、理沙の表情が少し硬くなった。
「椎名さん、五時過ぎたら美優ちゃんを砂場に近づけないほうがいいですよ」
「どうしてですか?」
「昔、ちょっとあったみたいで」
「事故ですか?」
理沙は言いにくそうに視線を落とした。
「詳しくは知りません。でも、この団地の人は、五時過ぎたら子どもを砂場で遊ばせないんです」
香織は内心で笑った。
古い団地には、こういう迷信じみた話が残る。
だから嫌なのだ。
「気をつけます」
そう言って、香織は微笑んだ。
もちろん、本気にはしていなかった。
*
その頃、香織のSNSは伸び悩んでいた。
美優の習い事投稿も、手作り弁当も、親子カフェも、反応が落ちている。
似たような母親アカウントは山ほどある。
少しおしゃれなだけでは埋もれる。
何か、他とは違うものが必要だった。
そんな時、香織は団地の砂場の噂を思い出した。
子どもが消える砂場。
ひとり増える砂場。
赤いシャベルのサキちゃん。
これだ。
香織はすぐに思った。
もちろん、美優を危険な目に遭わせるつもりはない。
ただ、少し写真を撮るだけ。
夕暮れの団地。
砂場。
赤いシャベル。
美優の後ろ姿。
そこに、少し怖い文章を添える。
『うちの団地には、夕方になると子どもが一人増える砂場があります』
絶対に伸びる。
香織は夕方、美優に白いワンピースを着せた。
「今日は少しだけ砂場で遊んでいいわよ」
美優の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「ほんと。でも汚さないでね」
「うん!」
香織はスマホを持ち、公園へ向かった。
時刻は午後四時五十二分。
砂場には、晴斗たちがいた。
理沙も藤棚の下で他の母親たちと話している。
美優は晴斗を見つけると、すぐに駆け寄った。
「晴斗くん!」
「美優ちゃん、今日遊べるの?」
「うん!」
二人は砂場にしゃがみ、山を作り始めた。
香織は少し離れて写真を撮った。
夕暮れの光。
子どもたちの背中。
古い団地。
悪くない。
むしろ、少し寂しげで味がある。
五時のチャイムが鳴った。
団地のスピーカーから、古い童謡が流れる。
その瞬間、理沙が立ち上がった。
「晴斗、帰るよ」
「えー、まだ」
「帰るよ」
声が強かった。
他の母親たちも、子どもを呼び始める。
公園から、一気に人が減っていった。
美優は砂場に座ったまま、晴斗を見上げた。
「もう帰っちゃうの?」
「うん。五時だから」
「また明日?」
「うん」
晴斗は立ち上がり、母親のもとへ走っていった。
理沙は香織の横を通る時、小声で言った。
「椎名さんも、帰ったほうがいいです」
香織は笑った。
「写真をあと少しだけ」
「本当に、やめたほうがいいです」
その言い方に、香織は少しむっとした。
何をそんなに偉そうに。
砂場で遊ばせているだけなのに。
理沙たちがいなくなると、公園は急に静かになった。
チャイムも終わり、風の音だけが残る。
美優は砂場の真ん中で、小さな山を作っていた。
その少し向こうに、赤いシャベルが刺さっている。
香織はスマホを構えた。
美優の後ろ姿。
赤いシャベル。
薄暗い団地。
完璧だった。
その時、美優が言った。
「ママ」
「なあに?」
「この子も一緒に撮っていい?」
香織は画面から目を離した。
「この子?」
美優は砂場の隅を見ていた。
そこには、誰もいなかった。
「誰もいないわよ」
「いるよ」
美優は不思議そうに言った。
「サキちゃん」
香織の指先が止まった。
風が、公園の砂を少しだけ動かした。
赤いシャベルが、かすかに揺れている。
「美優、帰るわよ」
「えー」
「帰るの」
香織は美優の腕を引いた。
美優は振り返りながら言った。
「またね、サキちゃん」
その時、香織のスマホが勝手にシャッター音を鳴らした。
*
家に戻って写真を確認した時、香織は息を止めた。
砂場に、美優以外の子どもが写っていた。
赤いシャベルの横にしゃがむ、小さな女の子。
顔は髪で隠れている。
服は古い。
昭和の子ども服のような、くすんだ黄色のワンピース。
その子は、美優のほうを見ていない。
ただ、砂を掘っている。
香織は写真を拡大した。
指が震える。
怖い。
けれど、それ以上に思った。
これは伸びる。
投稿文はすぐに浮かんだ。
『夕方五時を過ぎると、子どもが一人増える砂場。今日、娘と撮った写真に、知らない女の子が写っていました』
香織は写真に少しだけ加工を入れた。
明るさを落とし、赤いシャベルだけが目立つようにした。
美優の顔は写っていない。
問題ない。
投稿した瞬間、反応が来た。
『怖すぎる』
『これ本物?』
『加工じゃないの?』
『女の子いる……』
『団地の雰囲気がガチ』
『続き知りたいです』
通知が止まらない。
香織の胸が高鳴った。
これだ。
これが欲しかった。
美優がその夜、熱を出した。
最初は微熱だった。
だが深夜には三十九度を超えた。
夫は救急外来に連れて行こうと言ったが、香織はためらった。
明日は、砂場の続報を投稿する予定だった。
もちろん、美優が心配ではないわけではない。
ただ、子どもはよく熱を出す。
医師にもそう言われた。
風邪でしょう。
そう言われた。
だから大丈夫。
香織は自分にそう言い聞かせた。
翌朝、美優は熱でぼんやりしながら言った。
「サキちゃんがね」
香織はスマホを向けそうになって、さすがにやめた。
「サキちゃんが、どうしたの?」
「名前、呼んでた」
「誰の?」
「ママの」
香織は背筋が冷えた。
「何て?」
美優は熱い息を吐いた。
「かおりちゃん、あそぼって」
*
理沙が訪ねてきたのは、その日の午後だった。
香織は玄関を開けた瞬間、嫌な予感がした。
理沙の顔は強張っていた。
「椎名さん、昨日の写真、消してください」
「写真?」
「SNSに上げたやつです」
香織は眉を寄せた。
「どうして小野寺さんがそんなことを?」
「団地の人たちが見ています」
「別に、場所は書いてません」
「分かる人には分かります」
「でも、ただの怪談投稿ですよ」
香織がそう言うと、理沙の顔色が変わった。
「ただの怪談じゃないんです」
「小野寺さん、そういうの本気で信じてるんですか?」
「信じるとかじゃなくて」
理沙は一度言葉を切った。
「昔、本当に子どもがいなくなったんです」
香織は黙った。
「その子の名前が、早紀ちゃんでした」
サキ。
赤いシャベル。
砂場の女の子。
香織の喉が乾いた。
「……事故ですか?」
「分かりません。夕方、砂場で遊んでいて、少し目を離した間にいなくなったそうです。団地中で探したけど見つからなかった。数日後、砂場からその子の赤いシャベルだけが出てきた」
「そんな話、聞いたことありません」
「昔の話です。団地の評判が悪くなるから、詳しく話す人もいなくなったんです」
理沙は香織をまっすぐ見た。
「でも、その後も時々あるんです。五時過ぎに砂場で遊ばせた子が、熱を出したり、夜中に知らない子と話したって言ったり」
香織は唇を噛んだ。
「美優は風邪です」
「ならいいです。でも写真は消してください」
「嫌です」
思ったより強い声が出た。
理沙が目を見開く。
香織は引けなくなった。
「私の投稿です。娘の顔も写っていないし、誰かに迷惑をかけているわけじゃありません」
「迷惑とか、そういう話じゃなくて」
「小野寺さんって、前からそうですよね」
香織は笑った。
「自分だけ団地のこと分かってます、みたいな顔して。子どもを自由に遊ばせて、いい母親みたいな顔して」
「椎名さん?」
「でも、本当は嫌なんじゃないですか? 私の投稿が伸びたこと」
理沙は言葉を失った。
香織は続けた。
「晴斗くんが美優に懐かれてるのも、正直迷惑だったんですよね。だから美優を砂場から遠ざけたかったんじゃないですか?」
「何を言ってるんですか」
「違います?」
違うと分かっていた。
でも、止まらなかった。
理沙の存在そのものが、香織には腹立たしかった。
飾らなくても子どもに好かれる母親。
何も背伸びしていないのに、ちゃんと居場所を持っている女。
それが嫌だった。
「帰ってください」
香織はドアを閉めた。
その直前、理沙が言った。
「椎名さん。砂場に名前を呼ばれたら、返事をしないでください」
ドアが閉まる。
香織はしばらく玄関に立っていた。
リビングから、美優の声が聞こえた。
「ママ」
香織は振り向いた。
美優は布団に横になったまま、部屋の隅を見ていた。
「サキちゃんが、ママ怒ってるって」
*
二日目の夜。
美優の熱は下がらなかった。
医師には再受診を勧められた。
夫は心配して会社を早退した。
だが、香織は別のことに気を取られていた。
投稿が、さらに伸びていた。
まとめサイトに取り上げられた。
怪談系インフルエンサーにも引用された。
フォロワーは一気に増えた。
コメント欄には、続報を求める声が並んでいる。
『娘さん大丈夫ですか?』
『サキちゃんの話もっと知りたい』
『今夜も砂場行ってほしい』
『釣りじゃないなら証拠動画お願いします』
証拠動画。
その言葉が、香織の頭に残った。
さすがに美優を連れて行くわけにはいかない。
でも、自分一人なら。
砂場を撮るだけなら。
五時ではなく、夜なら。
何か映れば、さらに伸びる。
何も映らなくても、怖い雰囲気の動画は撮れる。
夫が美優の横で眠っている隙に、香織は家を出た。
午後十一時四十七分。
団地の公園は、昼間とは別の場所のようだった。
外灯は薄暗く、滑り台の影が長く伸びている。
砂場の中央に、赤いシャベルが刺さっていた。
香織はスマホで録画を始めた。
「昨日、娘と撮った写真に写っていた砂場へ来ています」
声が震えた。
けれど、その震えも演出になると思った。
「地元では、夕方五時を過ぎると子どもが一人増えると言われている場所です」
砂場に近づく。
赤いシャベルが、外灯の光を受けて鈍く光った。
その時、背後で砂を踏む音がした。
ざり。
香織は振り返らなかった。
理沙の言葉を思い出したからだ。
名前を呼ばれたら、返事をしない。
ざり。
ざり。
足音は近づいてくる。
小さな子どもの足音だった。
香織の耳元で、声がした。
「かおりちゃん」
香織は唇を噛んだ。
「かおりちゃん、あそぼ」
返事をしてはいけない。
振り向いてはいけない。
分かっている。
だが、スマホの画面に、砂場が映っていた。
そこには、香織一人しかいない。
いや。
画面の端に、小さな手が映っている。
泥で汚れた指。
赤いシャベルを握る手。
香織は息を止めた。
「ねえ」
声が笑った。
「ママって、なあに?」
香織の背中に汗が浮いた。
「ママは、見てる人?」
声は続ける。
「ママは、写真撮る人?」
香織の手が震える。
「ママは、いなくなったら探してくれる人?」
スマホの画面が、勝手に切り替わった。
録画中の砂場ではない。
古い映像。
白黒に近い、ざらついた画面。
夕方の砂場。
小さな女の子が、赤いシャベルで遊んでいる。
その近くで、数人の母親たちが話している。
一人の母親が、スマホではなく古い携帯電話を手にしている。
目を離している。
その隙に、女の子が立ち上がる。
砂場の外へ歩き出す。
誰かに手を引かれているように。
香織は画面に見入った。
女の子が向かった先にいたのは、若い母親だった。
きれいな服を着た女。
周囲の母親たちより、少しだけ派手な女。
その女は、女の子の耳元で何かを言った。
女の子は泣きそうな顔をした。
そして、団地の裏手へ歩いていく。
映像が乱れる。
次に映ったのは、砂場で泣き叫ぶ母親たち。
その中に、若い頃の理沙によく似た女がいた。
いや、違う。
理沙ではない。
理沙の母親だ。
香織は気づいた。
これは昔の映像だ。
早紀が消えた日の映像。
そして、早紀を連れていった女。
その顔が、ゆっくりと画面に近づいた。
香織に似ていた。
ぞっとするほど。
見栄を張り、周りを見下し、自分の子が一番でなければ気が済まない顔。
声が耳元で囁いた。
「サキね、言われたの」
小さな声。
「あなたがいると、うちの子がかわいそうって」
香織の喉が鳴った。
「砂場に来ないでって」
赤いシャベルが、足元に落ちた。
ちり、と乾いた音。
「だから、サキ、隠れたの」
砂場の砂が、ゆっくりと盛り上がった。
香織は後ずさる。
砂の中から、何かが出てきた。
赤いリボン。
小さな靴。
古びた名札。
名札には、薄く名前が残っている。
さき。
香織は悲鳴を上げた。
その瞬間、遠くの団地から美優の声が聞こえた気がした。
「ママ」
香織は走った。
*
部屋に戻ると、美優の布団は空だった。
夫はリビングで倒れるように眠っていた。
何度呼んでも起きない。
香織は家中を探した。
トイレ。
浴室。
押し入れ。
ベランダ。
どこにもいない。
玄関の鍵は開いていた。
靴が一足ない。
美優の小さな靴。
香織は外へ飛び出した。
公園へ走る。
砂場には、誰もいなかった。
ただ、赤いシャベルが二本になっていた。
一本は古いもの。
もう一本は、美優が昨日使っていたピンク色のシャベル。
香織は砂場に膝をついた。
「美優!」
返事はない。
「美優! どこ!」
砂場の端に、文字が書かれていた。
子どもの指で書いたような、拙い文字。
ママ、みてる?
香織は泣きながら砂を掘った。
爪が割れても掘った。
砂の中から出てきたのは、美優の髪留めだった。
昨日、写真を撮るためにつけさせた、白いリボン。
その横に、スマホが落ちていた。
香織のスマホだった。
画面には、投稿画面が開いている。
文章が勝手に入力されていた。
私は、娘を見ていなかった。
娘の笑顔ではなく、娘が笑って見える写真だけを見ていた。
私は、他の母親を見下していた。
自由に遊ぶ子どもが羨ましかった。
泥だらけになって笑う子どもが、私の娘より幸せそうに見えるのが許せなかった。
だから私は、砂場の怪談を利用した。
娘を連れて行った。
写真を撮った。
熱を出しても、投稿の反応を見ていた。
香織は震える手でスマホを止めようとした。
止まらない。
文字は続く。
昔、早紀ちゃんを砂場から追い出した母親がいた。
自分の子より早紀ちゃんが人気者だったから。
その母親は、早紀ちゃんに「あなたがいると邪魔」と言った。
早紀ちゃんは隠れた。
誰にも見つからない場所に。
今もそこで、誰かが自分を探してくれるのを待っている。
でも私は、探すより先に投稿しようとした。
だから、次は私の番になった。
最後の一文が表示される。
子どもが消える砂場にいるのは、子どもを攫う幽霊ではない。
子どもより自分を見てほしかった母親たちの、腐った願いだ。
投稿ボタンが押された。
*
美優は翌朝、公園の藤棚の下で見つかった。
命に別状はなかった。
ただ、発見された時、美優は赤いシャベルを抱えて眠っていた。
目を覚ました美優は、こう言った。
「サキちゃんが、ママはまだ来ちゃだめって」
香織は美優を抱きしめようとした。
けれど美優は、少しだけ身体を硬くした。
ほんの少し。
それだけで、香織には十分だった。
娘は、自分を怖がっている。
警察には、子どもの夜間徘徊として処理された。
香織の投稿は拡散された。
批判も、同情も、考察も集まった。
フォロワーは増えた。
皮肉なほどに。
だが香織は、それ以来一度もSNSを更新していない。
*
数日後、投稿サイト「夜見帳」に新しい怪談が掲載された。
題名は、子どもが消える砂場。
投稿者は、椎名香織。
記事の最後には、こう書かれていた。
砂場には、今も赤いシャベルがある。
誰かが片づけても、翌朝には戻っている。
そして最近、もう一本、小さなピンクのシャベルが増えた。
娘は言う。
あれは、サキちゃんが返してくれたものだと。
でも私は知っている。
返されたのは、シャベルだけではない。
私が見ないふりをしていたものも、全部返された。
母親という名前の下に隠していた見栄。
愛情のふりをした支配。
子どものためと言いながら、本当は自分が認められたかっただけの醜さ。
ひとり増える砂場で増えるのは、子どもではない。
見たくなかった自分自身だ。
コメント欄には、一件だけ、赤いシャベルのアイコンから書き込みがあった。
『次は、ちゃんと見てね』
今でも青葉台団地では、夕方五時になると子どもたちは砂場から帰る。
けれど、時々ひとりだけ残っている子がいる。
赤いシャベルを持った、顔の見えない女の子。
その子は砂を掘りながら、通りかかった母親にこう尋ねるという。
「あなたは、だれを見てるの?」
その問いに答えてはいけない。
もし答えてしまったら。
砂場には、また一つ、新しいシャベルが増える。




