表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『行ってはいけない場所に行った人だけが書き込める怪談集』幽霊より怖いのは、そこに置き去りにされた人間の悪意だった。  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

祠を壊した配信者

 山奥の祠を壊すと、願いが叶う。


 ただし、叶うのは一度だけ。


 二度目はない。


 三度目を願った者は、代わりに自分の一番大事なものを山に取られる。


 その祠は、地元では返し守の祠と呼ばれていた。


 古い林道を抜け、獣道のような細い坂を上り、杉の木に囲まれた斜面の奥。


 そこに、小さな石の祠がある。


 屋根は苔むし、扉は朽ち、赤い前掛けをした小さな地蔵が一体だけ祀られている。


 昔、山で迷った子どもを返してくれた。


 死にかけた猟師を家まで歩かせてくれた。


 嫁いだ娘を一度だけ実家へ帰してくれた。


 そんな言い伝えがある。


 だから誰も、粗末にはしなかった。


 少なくとも、地元の人間は。


     *


「はいどうもー! ミナトチャンネルのミナトでーす!」


 深夜の山に、場違いなほど明るい声が響いた。


 照明に照らされた杉の幹が、白く浮かび上がる。


 ミナト――本名、湊川蓮は二十四歳。登録者数十八万人の動画配信者だった。


 ジャンルは、心霊スポット突撃、都市伝説検証、迷惑ギリギリのドッキリ。


 本人はそれを「攻めたエンタメ」と呼んでいた。


「本日はですね、地元で絶対に触ってはいけないと言われている祠に来ております!」


 蓮はカメラに向かって笑った。


 笑顔には自信があった。


 少し悪そうで、でも完全には嫌われない程度の顔。


 自分がどう映れば再生されるか、蓮はよく分かっていた。


 隣では、撮影担当の陸斗がカメラを構えている。


 後ろでは、編集担当兼彼女の真帆がスマホでコメント読み用のメモを作っていた。


 この三人で、ミナトチャンネルは伸びた。


 最初は大学のサークル仲間だった。


 廃墟に行き、肝試しをし、やらせ半分の悲鳴を上げるだけの動画。


 それが少しずつ数字を取り始めた。


 蓮は前に出る。


 陸斗は黙って撮る。


 真帆は編集し、タイトルを考え、サムネを作る。


 分担は完璧だった。


 少なくとも、蓮はそう思っていた。


「地元のおじいちゃんによると、この祠を壊すと願いが叶うらしいです。ただし三回願うと大事なものを取られるとか何とか。いやー、令和にまだそんな話あるんですね」


 蓮は笑った。


「というわけで、今日は実際に壊してみたいと思いまーす!」


「蓮、さすがにそれは」


 真帆が小さく言った。


 カメラには入らない声量だった。


 蓮は一瞬だけ彼女を見た。


「何?」


「壊すのはやめようよ。触るくらいでいいじゃん」


「ここまで来てそれは弱いって」


「でも、地元の人が大事にしてるんでしょ」


「だから数字取れるんだろ」


 蓮は笑顔のまま、声だけを低くした。


「真帆、最近ぬるいよ。編集も守りに入ってるし」


 真帆は黙った。


 陸斗はカメラを下ろさない。


 いつものことだった。


 蓮が強く言えば、二人は黙る。


 このチャンネルは蓮のものだ。


 顔を出しているのも、喋っているのも、叩かれるのも蓮。


 だから決める権利も蓮にある。


 そう思っていた。


 蓮は足元に置いていた金属バットを拾った。


 もちろん、本気で壊すつもりはなかった。


 いや、正確には、壊してもいいと思っていた。


 どうせ古い祠だ。


 誰のものかも分からない。


 少し傷をつけて、派手なサムネを撮って、炎上したら謝罪動画を出せばいい。


 謝罪動画も伸びる。


 蓮はそういう計算ができる男だった。


「それでは、願いを込めて一発!」


 蓮はバットを振り上げた。


「ミナトチャンネルが、年内登録者百万人いきますように!」


 バットが石の祠に当たった。


 鈍い音が山に響いた。


 祠の屋根の端が欠けた。


 その瞬間、風が止まった。


 虫の声も消えた。


 蓮は一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに笑った。


「うわ、欠けた! これヤバい! ガチでヤバい!」


 陸斗が黙ってカメラを寄せる。


 真帆は青ざめていた。


 蓮はもう一度バットを振り上げた。


「じゃあ二発目! おすすめ載りますように!」


「蓮!」


 真帆が止めるより早く、二発目が入った。


 祠の扉が外れた。


 中から、小さな鈴が転がり落ちた。


 錆びた鈴だった。


 それなのに、地面に落ちた瞬間、ちりん、と澄んだ音がした。


 蓮は固まった。


 その音は、妙に近かった。


 耳元で鳴ったようだった。


 陸斗が初めてカメラを下ろした。


「……今の、撮れた?」


「撮れてるよな?」


 蓮は自分に言い聞かせるように言った。


「撮れてたら勝ちだわ。これ、絶対伸びる」


 その時、真帆が低い声で言った。


「もう帰ろう」


 蓮は苛立った。


「何その空気。せっかくいい画が撮れたのに」


「帰ろうって言ってるの」


「はいはい。じゃあ最後に締め撮るから」


 蓮はカメラに向き直った。


「ということで、返し守の祠、検証してみました! 願いが叶うのか、今後のチャンネル登録者数で確認していきたいと思います! 高評価、チャンネル登録よろしく!」


 いつもの台詞。


 いつもの笑顔。


 けれど、その夜の山は、蓮の声を少しも返さなかった。


     *


 動画は伸びた。


 公開から三時間で十万再生。


 一晩で五十万。


 二日目には百二十万を超えた。


 コメント欄は荒れた。


『普通に器物損壊では?』


『地元の信仰を馬鹿にするな』


『これは笑えない』


『でも正直こういうの待ってた』


『祠壊した瞬間の音ヤバくない?』


『鈴の音、本物?』


『炎上込みで伸びてるの草』


 蓮はスマホの画面を見ながら笑った。


「ほら見ろ。伸びたじゃん」


 事務所のように使っているマンションの一室で、蓮はソファに寝転がっていた。


 陸斗は無言でパソコンに向かっている。


 真帆はキッチンでコーヒーを淹れていたが、顔色は悪い。


「謝罪動画、出したほうがいいと思う」


 真帆が言った。


 蓮は鼻で笑った。


「早いって。もう少し燃やしてから」


「燃やすとかじゃないでしょ。あれ、本当に駄目だったと思う」


「真帆さ」


 蓮は起き上がった。


「数字見て言ってる? 今月の広告収益、過去最高いくぞ」


「だから何?」


「だからって……仕事だろ、これ」


「仕事なら何してもいいの?」


 その言い方に、蓮はむっとした。


「お前だってサムネ作ったじゃん」


 真帆は黙った。


「祠破壊って赤文字入れたの、真帆だろ。止めたかったなら編集しなきゃよかったじゃん」


「それは……」


「結局、伸びると思ったからやったんだろ。今さら善人ぶるなよ」


 真帆は何も言い返さなかった。


 蓮は勝ったと思った。


 こういう時、真帆は弱い。


 罪悪感がある。


 だから最後は黙る。


 陸斗はずっと無言だった。


 蓮はそれも気に入らなかった。


「陸斗も何か言えよ」


「……別に」


「別にって何だよ」


「伸びてよかったんじゃない」


 その声は、いつもより乾いていた。


 蓮は少しだけ眉をひそめたが、深く考えなかった。


 その夜、チャンネル登録者数は二十万人を超えた。


 願いは叶った。


 一つ目の願い。


     *


 二つ目の願いも叶った。


 例の動画は急上昇に載った。


 蓮はライブ配信を開いた。


 タイトルは、


【炎上覚悟】祠破壊動画について話します。


 謝罪ではない。


 釈明でもない。


 ただ、火に油を注ぐための配信だった。


「まずね、壊したって言われてますけど、完全に壊してはないです。ちょっと欠けただけ。あと、あそこ管理者不明なんですよ。僕らも事前に調べたんですけど」


 嘘だった。


 調べていない。


 しかし視聴者は、真実そのものより“それっぽい言い訳”を好む。


 コメントが流れる。


『開き直ってて草』


『これはアウト』


『でも見ちゃう』


『真帆ちゃん顔死んでない?』


『陸斗喋れ』


 蓮は笑顔で続けた。


「もちろん、不快に思った方がいるなら申し訳ないです。ただ、エンタメとして楽しんでもらえた人もいると思うので」


 その時だった。


 背後で、ちりん、と音がした。


 鈴の音。


 蓮の口が止まった。


 コメント欄が一気に流れる。


『今の何?』


『鈴?』


『祠のやつ?』


『演出うま』


『ガチ?』


 真帆が振り返る。


 陸斗も顔を上げる。


 部屋の隅に、何かが落ちていた。


 錆びた鈴。


 祠の中から転がり落ちた、あの鈴だった。


「……誰が持って帰った?」


 蓮は小声で言った。


 真帆は首を横に振った。


 陸斗も同じだった。


 ライブ配信中だった。


 蓮は一瞬迷い、それから笑った。


「いやー、スタッフの演出ですね。こういうの仕込んでくるんですよ」


 誰も笑わなかった。


 コメント欄だけが沸いていた。


 蓮は鈴を拾い、カメラの前にかざした。


「せっかくなんで三つ目の願い、いきますか」


「やめて」


 真帆が言った。


 配信に音が乗った。


 コメント欄がさらに加速する。


『彼女ガチで止めてる』


『やめとけ』


『やれ』


『三回目は大事なもの取られるんだろ?』


 蓮は笑った。


 怖かった。


 だが、それ以上に、数字が見えていた。


 同接は三万人を超えている。


 ここで引けるわけがない。


「三つ目の願い」


 蓮は鈴を指でつまみ、軽く振った。


 ちりん。


「ミナトチャンネルが、この炎上でさらに有名になりますように」


 真帆が泣きそうな顔をした。


 陸斗はただ、蓮を見ていた。


 その瞬間、部屋の照明が一度だけ明滅した。


 配信画面が乱れる。


 ノイズ。


 黒い画面。


 そして、知らない映像が映った。


 夜の山。


 壊れた祠。


 その前で、蓮が笑っている。


 そこまでは動画と同じだった。


 だが、次の音声は違った。


『どうせ田舎のジジババしか気にしねえよ』


 蓮の声だった。


 配信では使っていない、撮影前の会話。


『燃えたら謝罪すりゃいい。泣き顔サムネでさ』


 コメント欄が止まったように見えた。


 実際には、速すぎて読めなくなっていただけだ。


 映像は続く。


 真帆の声。


『壊すのは本当にやめよう』


 蓮の声。


『うるせえな。誰のおかげで飯食えてると思ってんの』


 陸斗の声。


『……それ、カメラ回ってる』


 蓮の声。


『じゃあ消しとけよ。お前、それしか役に立たないんだから』


 ライブ配信は落ちなかった。


 誰も止められなかった。


 黒い画面に、未公開の裏側が次々流れた。


 蓮が真帆に怒鳴る声。


 陸斗を馬鹿にする声。


 案件先を見下す声。


 視聴者を「数字」と呼ぶ声。


 信者もアンチも同じ、金になるだけだと笑う声。


 蓮はパソコンに飛びついた。


「止めろ! 陸斗、止めろ!」


 陸斗は動かなかった。


「おい!」


 陸斗は静かに言った。


「俺じゃない」


「ふざけんな!」


「俺はもう、管理権限ない」


 蓮は固まった。


「は?」


 陸斗は蓮を見た。


「昨日、チャンネルのサブ管理から外されてた。蓮がやったんだろ」


 蓮は思い出した。


 そうだ。


 炎上後、万一のために権限を整理した。


 チャンネルは自分のものだと示すために。


 陸斗の権限を外した。


 真帆の権限も。


 全部、自分一人のものにした。


 だから今、誰も止められない。


 自分以外には。


 なのに、自分の操作も受けつけない。


 画面の中では、さらに別の映像が流れ始めた。


 ホテルの一室。


 蓮と、知らない女。


 真帆が息を呑んだ。


 蓮の顔から血の気が引いた。


「違う」


 真帆は何も言わなかった。


「違う、これは」


 画面の中の蓮は、知らない女に笑いながら言っていた。


『真帆? ああ、便利なだけ。編集できる女って貴重じゃん』


 真帆はゆっくりと蓮を見た。


 その目に、怒りはなかった。


 ただ、何かが完全に終わった目だった。


 蓮は言い訳を探した。


 けれど言葉が出なかった。


 ライブ配信の同接は、十万人を超えていた。


 三つ目の願いも叶った。


 蓮は、さらに有名になった。


     *


 炎上は、蓮が望んだ以上に広がった。


 切り抜き動画。


 暴露まとめ。


 過去発言の掘り返し。


 案件企業への問い合わせ。


 地元自治体への苦情。


 テレビ局からの取材依頼。


 蓮は一日で、知らない人間すべてから嫌われる有名人になった。


 真帆は出ていった。


 荷物は少なかった。


 編集用のパソコンと、服を数枚。


 蓮は引き止めようとした。


「真帆、待てって。あれは違うんだよ」


「何が違うの?」


「切り取られてるだけで」


「全部聞いた」


 真帆は玄関で振り返った。


「私、ずっと蓮のために編集してたと思ってた。でも違った。蓮の嘘を、見やすくしてただけだった」


「お前だって一緒にやってきただろ!」


「うん」


 真帆は頷いた。


「だから私も、罰を受けるよ。でも蓮の横では受けない」


 扉が閉まった。


 陸斗も連絡が取れなくなった。


 チャンネルの素材データは消えていた。


 バックアップもない。


 いや、正確には、蓮が保管場所を知らなかった。


 撮影も編集も管理も、実際には二人がやっていた。


 蓮は喋っていただけだ。


 その事実に、初めて気づいた。


 数日後、蓮の部屋に封筒が届いた。


 差出人は不明。


 中には写真が一枚入っていた。


 壊れた祠。


 その前に立つ蓮。


 写真の裏には、墨のような黒い字で書かれていた。


 返してもらう。


 蓮は写真を破った。


 破った紙片の中から、ちりん、と音がした。


 あの鈴が落ちてきた。


 蓮は叫んだ。


     *


 蓮は山へ戻ることにした。


 謝罪動画を撮るためではない。


 祠を直すためでもない。


 鈴を返せば終わると思ったからだ。


 深夜、車で旧林道へ向かった。


 カメラは持っていない。


 スマホも電源を切った。


 誰にも知らせていない。


 今回は、数字にしない。


 だから許される。


 蓮はそう思っていた。


 林道の入口に着くと、道は以前より暗く見えた。


 ヘッドライトが杉の幹を照らす。


 雨は降っていない。


 だが、地面は濡れていた。


 蓮は鈴を握りしめ、山道を上った。


 祠はすぐに見つかるはずだった。


 動画を撮った場所だ。


 編集で何度も見た。


 だが、歩いても歩いても、同じ杉の木ばかり続く。


 息が切れる。


 スマホのライトをつけようとして、電源を切っていたことを思い出す。


 入れ直そうとしたが、画面は真っ暗なままだった。


「ふざけんなよ……」


 その時、前方で鈴が鳴った。


 ちりん。


 蓮は顔を上げた。


 暗闇の奥に、祠があった。


 壊れた屋根。


 外れた扉。


 赤い前掛けの地蔵。


 蓮は駆け寄った。


「返す。返すから」


 手に持っていた鈴を祠の中に置く。


 その瞬間、背後で声がした。


「何を?」


 蓮は振り返った。


 誰もいない。


 声は女だった。


 真帆の声に似ていた。


「何を返すの?」


「鈴だよ!」


 蓮は叫んだ。


「持ってきたから! これでいいだろ!」


 杉の木の間から、別の声がした。


 陸斗の声に似ていた。


「それだけ?」


 蓮は後ずさった。


「何だよ……何が欲しいんだよ」


 祠の前掛けが、風もないのに揺れた。


 地蔵の顔は、闇の中で見えない。


 それなのに、笑った気がした。


 蓮の耳元で、無数の声が囁いた。


 返せ。


 返せ。


 返せ。


 蓮は耳を塞いだ。


「金か? 祠なら直す! 謝罪もする! 動画も消す! だから!」


 声は止まらない。


 返せ。


 壊したものを返せ。


 奪ったものを返せ。


「何をだよ!」


 蓮は叫んだ。


 その瞬間、祠の中から光が漏れた。


 スマホの画面のような白い光。


 そこに映ったのは、蓮のチャンネルページだった。


 登録者数。


 再生数。


 動画一覧。


 サムネイル。


 コメント。


 それらが一つずつ、黒く塗り潰されていく。


 蓮は飛びついた。


「やめろ!」


 チャンネルが消えていく。


 何年もかけて積み上げた数字。


 自分を自分だと証明してくれた数字。


 それが、闇に飲まれる。


「やめろ! それは俺のだ!」


 声が答えた。


 じゃあ、あの祠は誰のものだった?


 蓮は動けなくなった。


 祠は。


 地元の人間のもの。


 山のもの。


 昔、誰かが祈ったもの。


 誰かが守ってきたもの。


 蓮の数字のために、壊していいものではなかった。


 そんな当たり前のことを、今さら思い出した。


 画面の中で、最後の数字が消えた。


 ミナトチャンネル。


 このチャンネルは存在しません。


 蓮は膝から崩れ落ちた。


 大事なものを取られた。


 三つ目の願いの代償として。


 だが、声はまだ止まらない。


 返せ。


 返せ。


 返せ。


「もうないだろ……」


 蓮は泣きながら言った。


「チャンネルは消えた。仕事も消えた。真帆も陸斗もいなくなった。もう何もないだろ!」


 すると、すぐ近くで鈴が鳴った。


 ちりん。


 祠の中に置いたはずの鈴が、蓮の手の中に戻っていた。


 そして、声が言った。


 まだある。


 蓮は自分の喉に触れた。


 声。


 顔。


 名前。


 配信者ミナトとして、人を煽り、笑い、馬鹿にし、数字を集めてきた自分。


 それが、まだ残っている。


「嫌だ……」


 蓮は立ち上がり、山道を走った。


 枝が頬を切る。


 足が滑る。


 何度も転ぶ。


 それでも走った。


 背後から、ちりん、ちりん、と鈴の音が追ってくる。


 林道に出た。


 車が見えた。


 助かった。


 そう思った瞬間、車のフロントガラスに自分の顔が映った。


 知らない顔だった。


 いや、顔がなかった。


 目も、鼻も、口も、ぼやけた泥のように潰れている。


 蓮は悲鳴を上げようとした。


 声が出なかった。


     *


 翌朝、蓮は林道脇で発見された。


 命に別状はなかった。


 ただし、彼は声を失っていた。


 医師によれば、器質的な異常はない。


 精神的なショックによる一時的な失声症だろう、とのことだった。


 だが、それだけではなかった。


 蓮の顔は普通に見えた。


 写真にも映る。


 動画にも映る。


 しかし、本人だけが鏡を見るたび、そこに顔のない自分を見るようになった。


 ミナトチャンネルは消滅した。


 誰が削除したのかは分からない。


 運営からの通知もない。


 復旧申請も通らなかった。


 まるで、最初から存在しなかったかのように。


 けれど、世間は忘れなかった。


 切り抜き動画だけが残った。


 暴露まとめだけが残った。


 嘲笑だけが残った。


 蓮が望んだ知名度は、蓮自身から声と顔を奪った後も、ネットの中で生き続けた。


     *


 数週間後、投稿サイト「夜見帳」に新しい怪談が投稿された。


 題名は、祠を壊した配信者。


 投稿者名は、ミナト。


 本文は短かった。


 俺は祠を壊した。


 願いは三つとも叶った。


 一つ目、登録者が増えた。


 二つ目、動画がおすすめに載った。


 三つ目、有名になった。


 ただし、祠はちゃんと代償を取りに来る。


 俺はチャンネルを取られた。


 仲間を取られた。


 声を取られた。


 それでもまだ、鈴が鳴る。


 返せ、と言われる。


 でも、何を返せばいいのか、もう分からない。


 コメント欄は、すぐに荒れた。


『本人?』


『創作だろ』


『ミナトってあの炎上した奴?』


『怖いというより自業自得』


『祠を壊す系はマジでやめとけ』


『これ、最後の一文が嫌すぎる』


 その中に、一件だけ、赤い前掛けをした地蔵のアイコンからコメントがあった。


『まだ三つ目は終わっていません』


 そのコメントは、すぐに消えた。


 だが、スクリーンショットだけは残っている。


 今でも、その山の返し守の祠には、誰かが新しい鈴を供え続けているという。


 ただし、近づいてはいけない。


 夜に鈴の音が聞こえた時は、特に。


 もしその音が、あなたの背後ではなく、あなたの手の中から聞こえたなら。


 その時はもう、何かを返す順番が、あなたに回ってきている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ