首吊り坂のミラー
その坂には、絶対に夜ひとりで行くなと言われていた。
町の北側、古い住宅街を抜けた先にある細い坂道。
名前はない。
地図にも特別な表示はない。
ただ、地元の人間だけがそこを首吊り坂と呼んでいた。
坂の途中に、大きなカーブミラーがある。
丸い鏡面はいつも曇っていて、昼間でも向こう側がぼやけて見える。赤い支柱は錆び、根元には枯れた花束が何度も置かれていた。
昔、その坂のそばの雑木林で、若い女が首を吊った。
恋人に裏切られたせいだとか、親友に嘘を広められたせいだとか、噂はいくつもあった。
けれど、どれが本当なのかは誰も知らない。
ただ一つだけ、妙な話が残っている。
深夜一時十三分。
首吊り坂のカーブミラーを覗くと、死んだ女が映る。
そしてその女は、鏡の中から指を差す。
指された人間は、三日以内に自分が隠していた裏切りを暴かれる。
だから、あのミラーを覗いてはいけない。
特に、誰かを裏切ったことがある人間は。
*
真田由梨は、親友の墓参りに行くのが嫌いだった。
嫌いというより、面倒だった。
毎年命日が近づくたびに、共通の知人たちから連絡が来る。
『今年も莉央のお墓行く?』
『由梨は来るよね?』
『莉央、由梨のこと大好きだったもんね』
そのたびに、由梨は丁寧な言葉を返した。
『もちろん行くよ』
『莉央のこと、忘れたことないから』
『今年もお花持っていくね』
そう書きながら、由梨はいつも心の中で舌打ちしていた。
忘れたことがない?
嘘だ。
忘れたいのだ。
高宮莉央。
大学時代の友人。
誰からも好かれた、明るくて、少し危なっかしいほど人を信じる女。
由梨の親友。
そして、五年前に首吊り坂の近くで死んだ女。
由梨は彼女の葬儀で泣いた。
泣き崩れるほど泣いた。
周囲は言った。
「由梨ちゃん、本当に莉央ちゃんと仲良かったものね」
「一番つらいのは由梨ちゃんよ」
「莉央ちゃんも、由梨ちゃんに見送ってもらえて幸せだったと思う」
その言葉を聞くたび、由梨はさらに泣いた。
悲しかったからではない。
許された気がしたからだ。
*
今年の墓参りは雨だった。
夕方、由梨は黒いワンピースに薄いカーディガンを羽織り、莉央の墓前に白い花を供えた。
一緒に来たのは、大学時代の友人が三人。
誰もが五年前より少し大人になり、結婚、転職、出産、昇進、そういう現実的な話題を持つようになっていた。
「莉央が生きてたら、今頃どうしてたかな」
友人の一人が言った。
由梨は目を伏せた。
「きっと、相変わらず笑ってたと思う」
完璧な答えだった。
すると別の友人が、少し声を落とした。
「……あのさ。最近、変な噂聞いたんだけど」
「噂?」
「首吊り坂のミラー。莉央が映るって」
由梨の胸が、ほんの少しだけ冷えた。
けれど顔には出さない。
「やめなよ、そういうの」
「いや、地元の子が言ってたの。夜中にミラーを見ると、莉央みたいな女の人が立ってるって」
「莉央を怪談にするの、嫌だな」
由梨は静かに言った。
すると皆、少し気まずそうに黙った。
そう。
こう言えばいい。
由梨は知っていた。
死者を大切にしている顔をすれば、それ以上誰も踏み込めない。
帰り道、由梨は一人だけ別れ、車に乗った。
雨は弱くなっていた。
フロントガラスの向こうで、街灯が滲んでいる。
エンジンをかけた時、スマホが震えた。
非通知ではない。
知らないアカウントからのメッセージだった。
『今年も来てくれてありがとう』
由梨は眉をひそめた。
アイコンは、丸いカーブミラーの写真。
ユーザー名は、莉央。
喉の奥が詰まった。
誰かの悪戯だ。
墓参りに来ていた友人の誰かかもしれない。
由梨はすぐに返信した。
『誰?』
既読。
すぐに返事が来る。
『由梨、まだ言ってないんだね』
指先が固まった。
何を。
何を言っていないというのか。
由梨は画面を閉じ、スマホを助手席に投げた。
「くだらない」
そう呟いた声が、思ったより震えていた。
*
莉央には恋人がいた。
名前は、相沢圭吾。
背が高く、穏やかで、誰にでも優しい男だった。
莉央は圭吾に本気だった。
大学を卒業したら結婚したいと、よく由梨に話していた。
『圭吾ってさ、私のことちゃんと見てくれるんだ』
『私が馬鹿なこと言っても笑わないの』
『由梨にも、ああいう人見つかるよ』
悪気はなかった。
莉央にはいつも悪気がなかった。
それが、由梨にはたまらなく嫌だった。
由梨も圭吾が好きだった。
最初に好きになったのは、自分だった。
ゼミの飲み会で隣になり、映画の話で盛り上がった。連絡先を交換した。二人で一度だけ食事にも行った。
なのに、圭吾は莉央を選んだ。
由梨ではなく。
莉央を。
理由は分かっていた。
莉央は明るい。
素直。
かわいい。
人を疑わない。
その無防備さが、男には魅力的に見える。
由梨は、莉央の親友であり続けた。
相談に乗り、愚痴を聞き、デート服を選んでやり、記念日のプレゼントまで一緒に考えた。
そして少しずつ、嘘を混ぜた。
『圭吾くん、この前知らない女の子と歩いてたよ』
『たぶん妹さんとかじゃない? でも腕組んでたからびっくりしちゃった』
『莉央、重いって思われないように気をつけたほうがいいよ』
莉央は不安になった。
圭吾に確認する。
圭吾は否定する。
莉央は泣きながら由梨に電話する。
由梨は優しく慰める。
『男の人って、都合悪いことは隠すから』
嘘は簡単だった。
莉央は信じた。
親友だから。
由梨が自分を傷つけるはずがないと思っていたから。
そのうち莉央は、圭吾を疑うようになった。
圭吾は疲れていった。
二人は喧嘩を繰り返した。
由梨はそのすべてを知っていた。
知っていて、止めなかった。
むしろ、もっと壊れればいいと思っていた。
*
雨の国道を走っているうち、由梨はなぜか首吊り坂の近くまで来ていた。
本当は通る必要のない道だった。
ナビも設定していない。
なのに、気づけば車は旧住宅街へ入り、細い坂の下に差しかかっていた。
「……何やってるの、私」
引き返せばいい。
そう思った。
だが、道幅が狭い。対向車が来たら面倒だ。少し上まで行けば切り返せる場所がある。
由梨はアクセルを踏んだ。
坂道は濡れて黒く光っていた。
街灯は少ない。
ワイパーが左右に動くたび、視界が一瞬だけ開ける。
そして、見えた。
赤い支柱。
丸い鏡。
首吊り坂のカーブミラー。
由梨は反射的に目をそらした。
見てはいけない。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
助手席の画面が光っている。
『見て』
莉央からだった。
由梨はブレーキを踏んだ。
車が坂の途中で止まる。
雨音。
エンジンの低い振動。
目の前に、カーブミラー。
由梨はハンドルを握りしめた。
見ない。
絶対に見ない。
スマホがまた震える。
『由梨、見て』
「うるさい……」
『あの日も、見なかったよね』
由梨の呼吸が浅くなった。
あの日。
五年前。
莉央が死んだ夜。
由梨は莉央から電話を受けていた。
『由梨、もう無理かもしれない』
泣きながらそう言った莉央に、由梨は言った。
『また圭吾くんのこと?』
『違う、私……私、変なの。自分でも止められない』
『落ち着いて』
『由梨、お願い。来て。首吊り坂のところにいる』
由梨は行かなかった。
面倒だったからではない。
怖かったからでもない。
その前日、由梨は莉央に最後の嘘をついていた。
『圭吾くん、私に告白してきた』
もちろん嘘だった。
圭吾はそんなことをしていない。
だが莉央は信じた。
由梨は泣きながら言った。
『私、断ったよ。でも莉央には言わなきゃと思って』
莉央は何も言わなかった。
その夜、首吊り坂で死んだ。
由梨は知っていた。
自分の嘘が、最後の一押しになったかもしれないと。
だから行かなかった。
行って、莉央が生きていたら。
そこで本当のことを言わなければならなくなるかもしれなかったから。
*
スマホが鳴った。
通話着信。
莉央。
由梨は震える手で拒否しようとした。
だが、指が画面に触れる前に勝手に通話が繋がった。
『由梨』
懐かしい声だった。
明るくて、少し甘えるような、莉央の声。
由梨は唇を噛んだ。
「誰なの」
『ひどいなあ。親友の声、忘れた?』
「やめて。莉央のふりしないで」
『由梨が一番うまかったよね。親友のふり』
胸を刺されたようだった。
「……私は、莉央を大事に思ってた」
『うん。みんなの前ではね』
「本当に!」
『じゃあ、どうして嘘ついたの?』
由梨は黙った。
『圭吾が浮気してるって』
「莉央のためだった」
『由梨に告白したって』
「それは……」
『私が壊れていくの、見てたよね』
「違う」
『楽しかった?』
「違う!」
『私が圭吾を疑って、泣いて、謝って、嫌われていくの。親友の顔で横にいて、楽しかった?』
由梨はスマホを助手席に叩きつけた。
通話は切れない。
『見て』
莉央の声が、車内スピーカーから響いた。
『ミラーを見て』
「嫌!」
『見てよ。あの日、由梨が見なかったものを』
由梨の視線が、勝手に上がる。
フロントガラスの向こう。
カーブミラー。
そこに、車が映っていた。
由梨の車。
運転席の由梨。
そして、助手席。
誰かが座っている。
濡れた髪。
白いブラウス。
首に、黒い痕。
莉央だった。
由梨は叫んだ。
だが隣を見ると、助手席には誰もいない。
ミラーにだけ、莉央が映っている。
莉央は由梨を見ていた。
笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、悲しそうに。
そして、ゆっくりと指を差した。
由梨を。
*
翌朝、由梨は自宅のベッドで目を覚ました。
どう帰ったのか覚えていない。
車はマンションの駐車場にあった。
スマホには、動画が一つ保存されていた。
撮った覚えはない。
再生すると、昨夜の車内が映っていた。
運転席に座る由梨。
カーブミラーの前。
由梨は泣きながら、何かを話している。
『私が嘘をつきました』
画面の中の由梨は、そう言っていた。
『圭吾くんは浮気なんてしていません』
『私に告白もしていません』
『莉央が不安になるように、私が何度も嘘をつきました』
『莉央が圭吾くんを疑って、壊れていくのを知っていました』
『止めませんでした』
『莉央に死んでほしかったわけじゃありません』
そこで、画面の中の由梨は笑った。
ぐちゃぐちゃの顔で。
『でも、莉央が圭吾くんと幸せになるくらいなら、壊れてくれたほうがいいと思っていました』
由梨はスマホを投げた。
動画は止まらなかった。
声だけが部屋に響く。
『私は、親友ではありませんでした』
『私は、莉央を裏切りました』
動画はそのまま、勝手に投稿されていた。
投稿先は、由梨のSNS。
大学時代の友人。
会社の同僚。
親戚。
圭吾。
全員が見られるアカウント。
削除しようとしても、できなかった。
パスワードが変わっていた。
メールアドレスも。
ログイン通知には、見知らぬ端末名が表示されていた。
首吊り坂のミラー。
*
その日の昼過ぎ、圭吾からメッセージが来た。
『本当なのか』
由梨は返信できなかった。
夕方には、友人たちからの連絡が鳴り止まなくなった。
『どういうこと?』
『最低』
『莉央に謝って』
『私たち、ずっと由梨のこと信じてたのに』
由梨はスマホの電源を切った。
だが、画面は消えなかった。
真っ黒な画面に、丸い鏡のような光が浮かぶ。
そこに、莉央が映っていた。
首を傾げ、静かにこちらを見ている。
由梨は部屋のカーテンを閉めた。
鏡を布で覆った。
洗面所の鏡にも、姿見にも、ステンレスの鍋にも、テレビの暗い画面にも、莉央が映る気がした。
そして三日目。
由梨は首吊り坂へ向かった。
謝るためではない。
許してもらうためでもない。
ただ、聞きたかった。
莉央は最後に何を思っていたのか。
なぜ、自分を指差したのか。
深夜一時十三分。
由梨は坂の途中に立った。
カーブミラーの前。
雨は降っていない。
なのに鏡面は濡れていた。
由梨が近づくと、ミラーの中に莉央が映った。
今日は助手席ではない。
由梨の背後に立っている。
「莉央……」
声が震えた。
「私、謝りたかった」
嘘だった。
少なくとも、半分は嘘だった。
本当に謝りたい気持ちはあった。
けれどそれ以上に、許されたい気持ちがあった。
莉央は何も言わない。
「ごめん。私、圭吾くんが好きだった。莉央が羨ましかった。ずっと、ずっと嫌だった」
鏡の中の莉央は、ゆっくり口を開いた。
『知ってたよ』
由梨は息を呑んだ。
『由梨が圭吾を好きなこと、知ってた』
「……え」
『だから、何度も聞こうと思った。由梨、本当はつらいんじゃないかって』
由梨の胸が締めつけられた。
『でも由梨、いつも笑ってたから』
やめて。
そう思った。
『親友だって、思ってたから』
「やめて……」
『だから、最後まで信じた』
莉央の声は、怒っていなかった。
それが、何よりつらかった。
『あの日、由梨に電話したのはね』
鏡の中で、莉央が少しだけ笑った。
『嘘だって言ってほしかったから』
由梨は声を失った。
『圭吾が由梨を好きなんて嘘だよって、言ってほしかった』
「莉央……」
『そしたら、私、帰れたかもしれない』
坂の下から、風が吹いた。
カーブミラーが、ぎし、と鳴る。
『でも由梨は来なかった』
「ごめん……ごめん、莉央……」
『うん』
莉央は頷いた。
『でもね、由梨』
鏡の中の莉央が、由梨の背後から一歩近づいた。
『謝る相手、私だけじゃないよ』
その瞬間、由梨のスマホが鳴った。
画面を見る。
圭吾からだった。
由梨は恐る恐る通話に出た。
『由梨』
圭吾の声は、かすれていた。
『莉央の遺書が見つかった』
由梨はミラーを見た。
莉央が、静かにこちらを見ている。
『君の名前は、書いてなかった』
圭吾は言った。
『最後まで、君を庇ってた』
由梨の膝が崩れた。
アスファルトに手をつく。
冷たい。
汚い。
でも、それよりも胸の中が気持ち悪かった。
許されたかった。
罰されたかった。
でも莉央は、最後まで由梨を名指ししなかった。
だから由梨は、自分で自分を晒すしかなくなった。
*
翌朝、投稿サイト「夜見帳」に新しい記事が上がった。
題名は、首吊り坂のミラー。
投稿者は、真田由梨。
内容は、大学時代の親友を嫉妬で追い詰めた女の告白だった。
記事の最後には、こう書かれていた。
首吊り坂のミラーに映るのは、死んだ人ではない。
自分が見ないふりをした、その人の最後の顔だ。
私は親友を殺していない。
でも、親友が生きるために必要だった一言を、私は言わなかった。
コメント欄は荒れた。
『これ実話なら最低』
『創作でも胸糞悪い』
『莉央さんがかわいそう』
『でも一番怖いのは、こういう人間どこにでもいること』
その中に、一件だけ、カーブミラーのアイコンを使ったコメントがあった。
『見たね』
その後、首吊り坂のカーブミラーは撤去された。
老朽化が理由だった。
けれど、撤去作業をした業者の一人が、妙なことを言っている。
鏡面を外す直前、そこに若い女が映ったという。
女は首に黒い痕を残し、こちらを見ていた。
そして、作業員ではなく、その背後の何もない空間を指差していた。
まるで、まだ誰かがそこに立っているみたいに。
今でも首吊り坂を夜に通ると、カーブミラーがあった場所の前で、車のバックミラーだけが曇ることがある。
その時、決して振り返ってはいけない。
鏡の中で誰かがあなたを指差していたとしても。
その指の先にあるものを、あなた自身が一番よく知っているはずだから。




