赤い公衆電話
雨の日だけ、鳴る電話がある。
町外れの旧国道沿い、もう使われなくなった無人駅の前に置かれた、赤い公衆電話。
駅は十年以上前に廃線になり、ホームへ続く階段には雑草が伸び放題。駅舎の屋根は一部が抜け、時刻表の枠には色褪せた広告の切れ端だけが残っている。
そんな場所に、なぜか電話ボックスだけが残っていた。
ガラスは曇り、扉は歪み、受話器はところどころ塗装が剥げている。けれど、赤い本体だけは雨に濡れると妙に生々しく見えた。
地元では、昔からこう言われている。
午前二時。
雨の夜。
その赤い公衆電話が鳴る。
電話を取ると、死んだ人間の声が聞こえる。
ただし、聞けるのは懐かしい言葉ではない。
その人が死ぬ直前、本当に言いたかったことだけだ。
だから、この電話を取ってはいけない。
聞いてしまえば、戻れなくなるから。
*
西園寺奈緒は、母の葬儀で一滴も泣かなかった。
泣けなかったのではない。
泣くつもりがなかった。
黒い喪服に身を包み、焼香に来る親戚たちへ頭を下げる。悲しげに目を伏せる。時折、ハンカチで目元を押さえる。
完璧だった。
「奈緒ちゃん、しっかりしてるわねえ」
「一人娘だものね。これから大変よ」
「お母さんも安心してるわよ」
親戚たちは勝手なことを言った。
安心?
母が?
冗談ではない。
棺の中の母は、最後まで奈緒を安心させてはくれなかった。
母――西園寺恵子は、昔から弱い女だった。
夫に逃げられ、実家とも折り合いが悪く、狭いアパートでパートを掛け持ちしながら奈緒を育てた。
世間的には、苦労人の母親。
娘のために身を粉にして働いた、立派な女性。
けれど奈緒にとって、母は重荷だった。
貧乏くさい弁当。
古びた服。
授業参観に来るたびに目立つ疲れた顔。
進路相談で「奨学金を借りれば何とか」と教師に頭を下げる姿。
奈緒は、それが嫌だった。
恥ずかしかった。
母を嫌いだと思うたび、自分がひどい人間のように感じた。だから奈緒は、母を嫌いなのではなく、母の生き方が嫌いなのだと自分に言い聞かせた。
私は違う。
私は、あんなふうにはならない。
そう思って、努力した。
奨学金で大学へ行き、都内の不動産会社に就職した。営業成績を上げ、ブランド物のバッグを買い、駅近のマンションに住み、母のいる古い町にはほとんど帰らなくなった。
母から電話が来ても、忙しいと言って切った。
正月も帰らなかった。
母の日には、ネットで適当な花を送った。
それで十分だと思っていた。
母は、そういう女だ。
少し優しくすれば、いくらでも感謝する。
それがまた、奈緒には腹立たしかった。
そんな母が死んだ。
心不全だった。
近所の人が、新聞が溜まっていることに気づいて通報したらしい。
奈緒が駆けつけた時、母の部屋は驚くほど片づいていた。
古い家具。
安物のカーテン。
小さな仏壇。
そして、押し入れの奥にあった茶封筒。
中には通帳と、古い生命保険の証書が入っていた。
受取人は、奈緒。
金額を見た時、奈緒は最初に安堵した。
母は最後に役に立った。
そう思った。
そのことを、誰にも言っていない。
言えるはずがない。
*
葬儀が終わった夜、奈緒は母の部屋に一人でいた。
片づけを早く済ませたかった。
この部屋に長くいると、貧しさが染みつきそうで嫌だった。
押し入れを開け、衣類をゴミ袋に詰める。
古いセーター。
毛玉だらけのカーディガン。
何年も使った形跡のあるエプロン。
すべて捨てる。
思い出として残すものなど、何もない。
その時、スマホが震えた。
画面には、非通知。
奈緒は眉をひそめた。
葬儀関係かもしれないと思い、通話ボタンを押す。
「はい」
ザザ、というノイズ。
雨音のような音。
それから、かすれた女の声がした。
『奈緒』
奈緒の指が固まった。
母の声だった。
喉の奥が乾く。
「……誰?」
『奈緒』
「誰なの」
『二時に、電話が鳴るから』
通話は切れた。
奈緒はしばらくスマホを見つめていた。
気味が悪い。
だが、すぐに思い直した。
親戚の誰かの悪戯かもしれない。
あるいは、母の知り合いが昔の録音でも使ったのか。
くだらない。
奈緒はスマホをバッグに放り込み、片づけを再開した。
だが、手は思うように動かなかった。
二時。
電話。
その言葉に、妙な引っかかりがあった。
母の部屋の壁には、古い町内会の掲示物が貼られている。その隅に、小さな手書きのメモがあった。
赤電話には出ないこと。
奈緒は、それを見た瞬間、子どもの頃の記憶を思い出した。
雨の日、母と買い物帰りに通った旧国道。
赤い電話ボックス。
母が妙に早足になったこと。
『あの電話、鳴っても出ちゃ駄目よ』
『どうして?』
『聞かなくていいことを、聞いちゃうから』
母はそう言っていた。
子どもの頃の奈緒は笑った。
そんなの迷信だと思った。
今もそう思う。
けれど、非通知の声は母だった。
奈緒は窓の外を見た。
雨が降っている。
細い雨ではない。
アスファルトを黒く濡らす、重たい雨だった。
*
午前一時五十二分。
奈緒は旧国道沿いに車を停めた。
来るつもりなどなかった。
馬鹿げている。
そう思いながら、結局来てしまった。
ワイパーが雨を払うたび、暗闇の中に赤い電話ボックスが浮かび上がる。
駅前のロータリーは、もうロータリーとは呼べないほど荒れていた。白線は消え、植え込みは伸び、駅舎の看板は半分落ちている。
その中で、電話ボックスだけが妙にはっきりと存在していた。
午前一時五十九分。
奈緒は車内で腕時計を見た。
鳴るわけがない。
鳴ったとしても、誰かが仕掛けているだけだ。
そう思った瞬間。
リーン。
電話が鳴った。
古い、硬い音だった。
リーン。
リーン。
奈緒の背筋が冷えた。
スマホの録画を起動する。
証拠を残せばいい。
何かあったとしても、これで説明できる。
そう自分に言い聞かせ、車を降りた。
雨が喪服の袖を濡らす。
葬儀の後、着替えないまま来てしまったことに、今さら気づいた。
電話ボックスの前に立つ。
中の電話が鳴り続けている。
リーン。
リーン。
ガラスの向こうで、赤い本体が雨に濡れた肉のように見えた。
奈緒は扉を開けた。
ぎい、と錆びた音がする。
中は狭く、湿っていた。
古い紙と鉄の匂い。
受話器が震えている。
奈緒は深く息を吸い、受話器を取った。
「……もしもし」
ザーッという雨音。
遠くで踏切の警報音が聞こえた気がした。
この路線に踏切など、もうないのに。
『奈緒』
母の声だった。
今度は、はっきりと。
「……お母さん?」
『寒いねえ』
奈緒は唇を噛んだ。
そんなことを言われると思っていなかった。
恨み言でも、遺言でもない。
ただ、いつもの母の声。
雨の日に洗濯物を取り込みながら言っていたような、何でもない声。
「何なの。誰がこんなことしてるの」
『奈緒、ちゃんと食べてる?』
「やめて」
『仕事、無理してない?』
「やめてって言ってるでしょ!」
電話ボックスの中で、奈緒の声が跳ね返る。
母は黙った。
雨音だけが続く。
やがて、母が言った。
『保険金、見つけた?』
奈緒の心臓が嫌な音を立てた。
「……何の話」
『見つけたんだね』
「だから何」
『よかった』
その一言に、奈緒はなぜか腹が立った。
「何がよかったのよ」
『奈緒が困らないなら、よかった』
「そういうところが嫌いだった」
言葉が勝手に出た。
一度出ると、止まらなかった。
「いつもそう。私のため、私のためって顔して、結局私を縛ってた。貧乏で、みじめで、周りから同情されて、私はずっと恥ずかしかった。お母さんみたいになりたくなくて必死だったのに、最後までいい母親ぶって」
受話器の向こうで、母は何も言わない。
「保険金だってそう。どうせ私に感謝してほしかったんでしょ。死んだ後まで、私に罪悪感を持たせたかったんでしょ」
『奈緒』
「何よ」
『お母さんね、死ぬ前に、電話したの』
奈緒は息を止めた。
『苦しくて、救急車を呼ぼうと思った。でも、指がうまく動かなくて。奈緒に電話した』
奈緒の手から、血の気が引いていく。
母からの着信。
あの日。
確かにあった。
深夜、スマホが鳴った。
奈緒は接客の後で疲れていて、ベッドの上で画面を見た。
母。
そう表示されていた。
奈緒は舌打ちした。
また愚痴か。
また寂しいとか、身体が痛いとか、そういう話か。
明日でいい。
そう思って、着信を切った。
そのあと、スマホを伏せて眠った。
『奈緒、忙しいと思ったから』
母の声は、やさしかった。
そのやさしさが、ひどく残酷だった。
『もう一回かけようと思ったけど、できなかった』
「……やめて」
『でもね』
母の声が少しだけ遠くなる。
『奈緒を責めたかったんじゃないの』
「じゃあ何なのよ!」
『最後に、声が聞きたかっただけ』
奈緒の視界が歪んだ。
泣いているのか、雨なのか分からなかった。
『ただ、奈緒の声が聞きたかった』
「やめて……」
『ごめんね』
「謝らないでよ!」
奈緒は受話器を握りしめた。
「謝られたら、私が悪いみたいじゃない!」
沈黙。
雨。
それから、母の声が変わった。
少し低くなった。
知らない女のような声だった。
『悪いと思ってないの?』
奈緒は動けなくなった。
『ねえ、奈緒』
電話ボックスのガラスに、自分の顔が映っている。
喪服姿の女。
化粧の崩れた顔。
その背後に、誰かが立っている気がした。
『あの時、切ったよね』
「違う……疲れてて……」
『そのあと、保険金を見て、安心したよね』
「違う」
『お母さん、役に立ったって思ったよね』
「違う!」
『ねえ、奈緒』
受話器の向こうで、母が笑った。
聞いたことのない笑い方だった。
『お母さんのこと、死んでよかったって思った?』
奈緒は叫んで受話器を叩きつけた。
電話は切れた。
鳴り止んだ。
電話ボックスの中には、荒い呼吸だけが残った。
奈緒は扉を開け、雨の中へ飛び出した。
その瞬間、スマホが震えた。
画面には、録画中のままの映像が映っていた。
電話ボックスの中。
受話器を持つ奈緒。
そして、その背後。
母が立っていた。
葬儀で棺に入っていた時と同じ服ではない。
いつもの、色褪せたカーディガン。
パート帰りによく着ていた服。
母は奈緒の肩越しに、カメラを見ていた。
そして、口だけを動かしていた。
音声は、入っていない。
けれど奈緒には、何と言っているか分かった。
見つけた。
*
翌日、奈緒は会社を休んだ。
母の部屋に戻り、押し入れの奥をもう一度探した。
理由は分からない。
ただ、何かを見落としている気がした。
古い衣装ケースの底に、菓子箱があった。
中には、奈緒が子どもの頃に描いた絵や、通知表や、写真が入っていた。
その下に、封筒が一つ。
奈緒へ。
母の字だった。
封筒の中には、手紙が入っていた。
『奈緒へ。
これを読んでいるということは、お母さんはもういないのかもしれません。
保険金のこと、驚かせたらごめんね。
あなたに迷惑をかけたくなくて、少しずつ払っていました。
奈緒はきっと、自分の力で生きていける子です。
でも、もし疲れた時に、少しでも助けになればと思いました。
お母さんは、あなたに何も返せなかったから。
あなたが小さい頃、赤い公衆電話の前で泣いたことを覚えています。
お父さんが出ていって、どうして自分には普通のお父さんがいないのかと泣きました。
お母さんは何も言えませんでした。
本当は、あの時からずっと謝りたかった。
普通の家にしてあげられなくて、ごめんね。
でも、奈緒。
あなたが恥ずかしいと思っていたお弁当も、服も、家も、お母さんには精一杯でした。
精一杯しかあげられなくて、ごめんね。
どうか、幸せになってください。
誰かを恨んで生きるより、自分を少しだけ許して生きてください。
お母さんは、奈緒が生まれてきてくれただけで、ずっと幸せでした』
奈緒は手紙を握り潰した。
違う。
こんなのはずるい。
これでは、母が最後まで善人だったみたいではないか。
自分だけが醜いみたいではないか。
違う。
母だって悪い。
弱くて、貧しくて、奈緒に惨めな思いをさせた。
なのに。
なのに、どうして最後まで奈緒を責めない。
責めてくれたほうが、ずっと楽だった。
奈緒は手紙を破ろうとした。
その時、スマホが震えた。
非通知。
奈緒は画面を見つめた。
出ない。
絶対に出ない。
着信は切れた。
すぐに、留守番電話が残った。
奈緒は震える指で再生した。
ザーッという雨音。
そして、母の声。
『奈緒』
その後ろで、別の声がした。
男の声。
奈緒の父だった。
顔もろくに覚えていない男。
『恵子、お前まだ奈緒に言ってないのか』
母の声が小さく答える。
『言えないよ』
『あの子は俺の子じゃないって、いつまで隠すつもりだ』
奈緒の呼吸が止まった。
音声は続く。
『でも、私の子だから』
『血も繋がってないのに?』
『私の子だよ』
母の声は、泣いていた。
『あの子は、私の子』
そこで録音は切れた。
奈緒は手紙を落とした。
膝から力が抜ける。
私は、母の実の娘ではなかった。
母は、それを一度も言わなかった。
苦労を押しつける口実にもせず、恩を着せる道具にもせず、ただ母親として奈緒を育てた。
それを奈緒は、ずっと恥じていた。
重荷だと思っていた。
死んで役に立ったとさえ思った。
その夜、奈緒は母の部屋で一晩中座っていた。
泣きはしなかった。
泣けなかった。
泣いたら、自分が許されようとしているみたいで気持ち悪かった。
*
三日後。
投稿サイト「夜見帳」に、新しい怪談が投稿された。
題名は、赤い公衆電話。
投稿者は、西園寺奈緒。
本文には、赤い電話ボックスの噂と、母の葬儀と、生命保険と、深夜の着信について書かれていた。
そして最後に、こう結ばれていた。
私は母を殺していない。
でも、母が最後に聞きたかった声を、私は切った。
母は私を責めなかった。
だから私は、たぶん一生、自分で自分を責め続ける。
赤い公衆電話は、死者の声を聞かせるのではない。
聞かずに済ませた言葉を、もう一度鳴らすだけなのだ。
その記事は、投稿直後から急速に読まれた。
コメント欄には、同情する声、創作だと笑う声、自業自得だと罵る声が並んだ。
その中に、一件だけ、赤い電話のアイコンを使った匿名コメントがあった。
『午前二時に、また鳴ります』
翌朝、旧国道沿いの赤い公衆電話は撤去されていた。
市の記録によれば、その電話ボックスは八年前にすでに撤去済みだったという。
では、奈緒が受話器を取ったあの夜。
雨の中で鳴っていたものは、何だったのか。
それを知る者はいない。
ただ、奈緒のスマホには今でも、非通知の着信履歴が残っている。
午前二時ちょうど。
毎晩。
必ず一回だけ。
そして奈緒は、まだ一度もそれに出ていない。




