白鷺団地の既読
白鷺団地には、もう誰も住んでいない。
そう聞いていた。
市の再開発計画から取り残された、昭和の終わりに建てられた五階建ての団地。外壁は雨染みで黒ずみ、ベランダの柵は錆び、敷地内の滑り台は根元から傾いている。夜になると、街灯は二本に一本しか点かず、点いた街灯も蛾を集めるだけの鈍い光を吐く。
そんな場所だから、噂が生まれるのは早かった。
四号棟の四階。
四〇四号室。
そこに、十年前に死んだ女子高生の部屋がある。
深夜零時ちょうど、その部屋の郵便受けに、自分の名前を書いた紙を入れる。
そのあと、死んだ女子高生のアカウントにメッセージを送る。
すると、必ず既読がつく。
返信が来た人間は、三日以内に自分がいちばん隠したいことを暴かれる。
ネットでは、そういう話になっていた。
いかにも作り物めいた都市伝説だ。
だからこそ、香坂美晴はそれを記事にしようと思った。
「こういうの、数字取れるんですよね」
誰に言うでもなく、美晴は車の中で呟いた。
フロントガラスの向こうに、白鷺団地の黒い影が見える。
午後十一時四十一分。
まだ零時には早い。
スマホの録画ボタンを押すと、画面の中に自分の顔が映った。薄いリップ。少し疲れた目元。二十八歳という年齢は、夜の車内灯の下では思ったより正直に映る。
「こんばんは。怪談ライターの香坂美晴です。今夜は、地元で有名な心霊スポット、白鷺団地に来ています」
明るい声を作った。
こういう時、怖がりすぎても駄目だ。馬鹿にしすぎても駄目だ。読者や視聴者が一緒に覗き込んでいるような、ほどよい緊張感がいる。
「ここには、ある噂があります。十年前に亡くなった女子高生の部屋に名前を書いた紙を入れると、その子のアカウントから既読がつく、というものです」
そこまで言って、美晴は一瞬だけ言葉を切った。
十年前。
その響きは、思ったより喉に引っかかった。
知っている。
知っているどころではない。
その女子高生の名前を、美晴は今でも覚えている。
七瀬凛。
同じ高校の同級生だった。
大人しくて、肌が白くて、いつも少し古い文庫本を読んでいた子。教室の中心にいるわけではないのに、妙に男子から目で追われる子だった。
美晴は、凛のことが嫌いだった。
理由は単純だ。
当時、美晴が好きだった男子が、凛に告白したから。
凛が何かをしたわけではない。盗ったわけでも、誘惑したわけでもない。むしろ凛はその告白を断ったらしい。
けれど美晴には、それすら許せなかった。
断るくらいなら、最初から好かれるな。
そんな理屈にもならない感情を、十七歳の美晴は胸の中で腐らせた。
そして、噂を流した。
凛は男を弄ぶ。
凛は教師と付き合っている。
凛は援助交際をしている。
最初は小さな嘘だった。
けれど嘘は、教室の中で勝手に太った。尾ひれがつき、鱗が生え、誰かの悪意を食べて怪物になった。
凛は学校に来なくなった。
その一か月後、白鷺団地四号棟の屋上から飛び降りた。
美晴は葬式に行かなかった。
泣く資格がないと分かっていたからではない。
責められるのが怖かったからだ。
「……よし」
録画を止めた。
胸の奥がざらつく。
けれど、今さらだ。
十年前の話だ。誰も覚えていない。覚えていたとしても、証拠などない。
それに、美晴は今、そういうものを仕事にしている。
人の死んだ場所。
人が壊れた場所。
人が噂にしたがる場所。
そこに行き、写真を撮り、文章にして、投稿サイトや怪談メディアに流す。読まれれば金になる。怖がられれば、名前が売れる。
人間は、他人の不幸が好きだ。
美晴はそれを誰より知っていた。
白鷺団地の敷地に入ると、枯れた植え込みが靴に触れた。
風はないのに、どこかでビニール袋が擦れる音がする。見上げると、四号棟の窓はすべて黒かった。
美晴はスマホのライトを点けた。
四号棟の入口には、古びた立入禁止の札がぶら下がっていた。黄色いテープは半分剥がれ、風雨で白っぽくなっている。
階段を上る。
一段ごとに、コンクリートの粉が靴底で鳴った。
二階。
三階。
四階。
廊下に出た瞬間、空気が変わった。
湿っている。
古い押し入れの奥のような、カビと埃の匂い。その中に、微かに甘い匂いが混じっていた。
花の匂い。
いや、違う。
古い化粧品の匂いだ。
美晴は足を止めた。
四〇四号室の扉は、廊下の突き当たりにあった。
他の部屋の扉と違い、その扉だけが妙に綺麗だった。錆びてはいる。塗装も剥げている。けれど、誰かが触っているような跡がある。ドアノブの周りだけ、埃が薄い。
「……誰か来てるんだ」
噂を聞いた若者だろう。
美晴はそう考えた。
胸ポケットから、あらかじめ用意していた紙を取り出す。
香坂美晴。
黒いボールペンで、はっきりと書いてある。
これを郵便受けに入れ、凛の古いアカウントにメッセージを送る。
それだけだ。
凛のアカウントは、まだ残っていた。
更新は十年前で止まっている。
プロフィール画像は、夕焼けの空だった。本人の顔ではない。凛らしいと思った。彼女は、自分の顔を人に見せびらかすような子ではなかった。
美晴は紙を郵便受けに差し込んだ。
中へ落ちる音はしなかった。
紙は途中で止まった。
「え?」
指で押し込む。
何かが詰まっている。
美晴は顔を近づけ、スマホのライトを郵便受けの隙間に向けた。
中に、紙が大量に詰まっていた。
名前。
名前。
名前。
ぎっしりと、名前を書いた紙が入っている。
その中に、見覚えのある字があった。
里香。
美晴の高校時代の友人の名前だった。
思わず息を呑んだ。
里香とは、卒業後ほとんど連絡を取っていない。だが、数年前に一度だけ会ったことがある。結婚式の二次会だった。里香は当時、妙に痩せていて、酒を飲みながら笑っていた。
『凛のこと、たまに夢に見るんだよね』
その時、里香はそう言った。
美晴は笑ってごまかした。
『やめなよ、そういう暗い話』
里香はそれ以上、何も言わなかった。
郵便受けの奥に詰まった紙。
その中に、里香の名前。
美晴の背中を、冷たいものが這い上がった。
スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
画面を見る。
通知が来ていた。
七瀬凛。
十年前から動いていないはずのアカウント。
そこに、既読がついていた。
送った覚えのないメッセージに。
『来たよ』
そう、美晴自身のアカウントから送られていた。
指先が冷たくなる。
送っていない。
絶対に送っていない。
なのに画面には、美晴のアイコンと、その吹き出しがある。
来たよ。
その下に、既読。
そして、返信。
『おそいね』
美晴は反射的にスマホを落としそうになった。
廊下の奥で、ぎい、と音がした。
四〇四号室の扉が、少しだけ開いている。
「……誰かいるんですか」
声がかすれた。
返事はない。
でも、扉の隙間から、微かな明かりが漏れていた。
スマホのライトではない。
もっと柔らかい、古い蛍光灯のような光。
美晴は逃げるべきだった。
けれど、足は前へ出た。
怖いからではない。怪談ライターとしての意地でもない。
中に何があるのか、知ってしまった気がしたからだ。
四〇四号室の中は、廃墟ではなかった。
六畳の和室。
低いテーブル。
壁際の本棚。
カーテンのない窓。
埃まみれではあるが、そこには確かに、かつて誰かが暮らしていた気配が残っていた。
テーブルの上に、一冊のノートが置かれていた。
表紙には、丸い字でこう書かれていた。
交換日記。
美晴は呼吸を忘れた。
それは高校時代、凛と里香と美晴の三人で一時期だけやっていた交換日記だった。
すぐにやめた。
くだらないと思ったからではない。
美晴が、凛の書いたページを破って捨てたからだ。
凛が好きな本の話を書いたページだった。そこに、男子からの小さなメモが挟まっていた。
『七瀬さんのおすすめ、読んでみる』
たったそれだけ。
それだけなのに、美晴は腹が立った。
だから破った。
凛は何も言わなかった。
翌日、里香が「誰がやったの」と聞いた時も、凛は首を横に振っただけだった。
美晴は、知らないふりをした。
そのノートが、なぜここにある。
美晴は震える手でページをめくった。
最初は、普通の日記だった。
好きなドラマ。
小テストの愚痴。
購買のパン。
体育の持久走が嫌だという話。
ページを進めるにつれて、空気が変わる。
『今日、靴箱に変な紙が入っていた』
『知らない男子に笑われた』
『先生に相談したけど、気にしすぎだって言われた』
『里香ちゃんが、私を見ない』
『美晴ちゃんも、私を見ない』
美晴はページを閉じようとした。
でも、指が動かなかった。
最後のほうに、別の字があった。
里香の字だ。
『ごめん。私、知ってた』
『美晴が噂を流したって、知ってた』
『でも、止めなかった』
『だって私も、凛が嫌いだった』
美晴の喉から、短い息が漏れた。
里香も。
そうか。
そうだったのか。
里香は、凛に優しいふりをしていた。凛の隣にいて、凛の味方みたいな顔をしていた。
けれど本当は、美晴と同じだった。
凛のことが嫌いだった。
凛が男子に好かれることが。
凛が何もしていないのに目立つことが。
凛が、自分より綺麗な沈黙を持っていることが。
許せなかったのだ。
さらにページをめくる。
里香の字は、どんどん乱れていた。
『白鷺団地に行った』
『郵便受けに名前を入れた』
『既読がついた』
『凛から返信が来た』
『あの子、全部知ってた』
『次は美晴だって』
そこで文字は途切れていた。
美晴はスマホを確認した。
凛から新しいメッセージが来ていた。
『里香ちゃんは、ちゃんと書いたよ』
添付画像が一枚。
開いた瞬間、胃がひっくり返りそうになった。
写真に写っていたのは、どこかの部屋の壁だった。
そこに、黒いマジックでびっしりと文字が書かれている。
――私は知っていた。
――私は止めなかった。
――私は友達のふりをした。
――私は凛が死んで少し安心した。
その下に、里香の名前。
そして日付。
三年前。
美晴はその場に座り込んだ。
里香は、三年前に自殺していた。
ニュースにはならなかった。共通の友人から、ぼんやりと聞いただけだ。産後うつだったらしい、と誰かが言っていた。夫とうまくいっていなかったらしい、と別の誰かが言っていた。
美晴はその時も、深く聞かなかった。
面倒だったからだ。
自分の過去に繋がるものを、見たくなかったからだ。
スマホが震える。
『美晴ちゃんは、何を書く?』
美晴は笑おうとした。
馬鹿馬鹿しい。
こんなの、誰かの悪戯だ。
里香が生きている時に仕込んだのかもしれない。都市伝説好きの誰かが、昔のことを調べたのかもしれない。
そうだ。
そうに決まっている。
美晴は立ち上がった。
「私は悪くない」
声に出すと、その言葉はひどく薄っぺらかった。
「噂なんて、みんな流してた。私だけじゃない。里香だって知ってた。クラスのやつらだって笑ってた。先生だって助けなかった。私だけじゃない」
部屋の蛍光灯が、一度だけ明滅した。
テーブルの上のノートが、勝手にめくれた。
最後のページ。
そこには、凛の字で一文だけ書かれていた。
『でも、最初に名前をつけたのは、美晴ちゃんだよ』
美晴は声を失った。
そうだ。
最初に凛を汚した言葉を作ったのは、自分だった。
凛は男を弄ぶ。
その言葉を、最初に打ったのは美晴だった。
放課後の教室で。
誰もいないふりをして。
匿名掲示板に。
スマホが震えた。
『書いて』
美晴は首を振った。
『書いて』
画面が勝手に切り替わる。
投稿サイトの編集画面だった。
タイトル欄には、すでに文字が入っていた。
白鷺団地の既読。
本文欄は空白。
カーソルだけが、点滅している。
「嫌……」
美晴はスマホを投げようとした。
けれど指が離れない。
まるで、手のひらに貼りついたようだった。
画面に、一文字ずつ入力されていく。
私は、七瀬凛を殺した。
違う。
違う違う違う。
殺してなんかいない。
そう叫びたかった。
でも次の文字が続く。
刃物で刺したわけではない。屋上から突き落としたわけでもない。けれど、私はあの子の居場所を削った。名前を汚し、教室の空気を変え、誰もあの子に近づけないようにした。
美晴の目から、涙が落ちた。
後悔ではなかった。
恐怖だった。
自分が守ってきた人生が、音を立てて剥がれていく恐怖。
怪談ライター香坂美晴。
読まれる文章を書く女。
怖い話を商品にする女。
その肩書きの下に隠していた十七歳の自分が、白い光の下に引きずり出されていく。
本文は続いた。
里香も知っていた。
クラスメイトも笑っていた。
先生も見ないふりをした。
でも、最初に嘘を置いたのは私だ。
七瀬凛は、何もしていなかった。
ただ、そこにいただけだった。
美晴は泣きながら、画面を見ていた。
やがて最後の一文が入力された。
だからこれは、怪談ではない。
私が十年間、幽霊のせいにして逃げ続けた、人間の話だ。
投稿ボタンが押された。
零時ちょうどだった。
蛍光灯が消えた。
四〇四号室は、完全な闇になった。
どこかで、女の子の声がした。
「既読」
翌朝、白鷺団地の四号棟前で、香坂美晴は発見された。
命に別状はなかった。
ただ、彼女は何を聞かれても同じことしか答えなかった。
「読まれた」
と。
彼女の投稿した記事は、すぐに拡散された。
怪談として。
告白文として。
あるいは、売名のための創作として。
コメント欄は荒れた。
『これ実話?』
『創作にしては生々しい』
『七瀬凛って検索したら本当に出てきたんだけど』
『香坂美晴、最低すぎる』
『でもこれ、本人が書いたの?』
『最後のログ怖い』
最後のログ。
投稿から三分後、記事の下に一件だけコメントがついていた。
ユーザー名は、七瀬凛。
十年前から更新の止まっていたはずのアカウント。
コメント本文は、たった二文字だった。
既読。




