ヴァルテールに匿われて
ヴァルデンツの王都に着いた日、私は行き倒れの旅人を装って、大通りの端に座り込んでいた。
偶然を装った出会いというのは、周到に仕組むほど、かえって偶然そのものに見える。戦略室で叩き込まれた通りのやり方だった。あとは、狙った相手が通りかかるのを待つだけでいい。
通りかかったのは、供を数人だけ連れた、質素な身なりの青年だった。身分を隠して城下を歩く癖のある人間だというのは、事前の調べ通りだった。
「――大丈夫か」
青年は、私の前にしゃがみ込んで、そう声をかけた。侍従らしき男が、慌てて止めようとするのを、手で制しながら。
「お前は下がっていろ。俺が見る」
「殿下、身元の知れない者に、そのように――」
「見ればわかる。行き倒れだ。理由なんて要らない」
その声には、迷いがなかった。私が想定していた、慎重で疑り深い王太子像とは、少し違っていた。
*
運ばれた先は、城下の外れにある、彼の私邸だった。
目を覚ますと、寝台の脇に、彼が座っていた。名を名乗った――ヴァルテール、と。
その色合いに、体の芯が強張った。蜂蜜色の髪。空色の瞳。愛する人と、寸分違わぬ色だった。それなのに、この人は、あの人じゃない。任務のために仕組んだ接触のはずが、その一致だけは、私の計算のどこにもなかった。
私も、偽りの身の上を語った。ザイデルンの貴族の落胤で、家を追われ、行くあてもなく彷徨っていた、と。半分は、噓ではなかった。
「――こんな身の上で、殿下に情けをかけていただくわけには参りません」
型通りの遠慮を口にすると、ヴァルテールは、意外そうな顔をした。
「身の上と、人が困っているかどうかは、別の話だ。目の前で倒れた美女を見捨てるなんて、できない」
彼は、そう言って、口の端だけで笑った。
「それに――お前、俺を見ても物怖じしない。城の連中は、皆、俺の顔色ばかり窺う。お前みたいなのは、久しぶりだ」
その笑い方で、分かった。王太子は、しっかりと、私の魅了にかかっている。
良かった。これで、イレブンを救える。
*
十日という期限が、頭の隅から離れなかった。
ヴァルテールは、政務の合間を縫っては、私邸に顔を出した。他愛のない話をした。ザイデルンの話、ヴァルデンツの話、どちらも本当のことと、偽りのことが半分ずつだった。だが、時間は残されていない。数日のうちに、私は、手加減という言葉を捨てて、彼を誘惑した。
地下の牢にいる人の顔を思い浮かべながら、別の男を誘う。その矛盾に、心のどこかが軋んだ。だが、迷っている余裕はなかった。
*
その夜のうちに、私は、庭の隅で、誰にも見られない場所を選んで、戦略室への合図を送った。返ってきた言伝ては、短かった。『解毒薬、渡した』。これで、地下の牢にいるイレブンの命は、助かる。
安堵で、膝から力が抜けた。同時に、地面に膝をついたまま、しばらく、立ち上がれなかった。喜びと呼ぶには、あまりに歪んだ感情だった。
*
ひと月ほど経った頃、体調の異変に気づいた。目眩と、吐き気。私は、自分の体の変化に、すぐに思い当たった。
――誰の子か。
考えたくない問いだった。山小屋の夜と、ヴァルテールに体を許した夜。二つの出来事は、十日と離れていない、狭い期間の中に、まとめて起きていた。
どちらの子か、分かるはずもない。分かる術など、この世のどこにもなかった。
*
夜半、私邸の居間で、燭台の火だけを間に挟んで、私は切り出した。蝋の焼ける匂いが、やけに強く鼻についた。
「――子が、できたようです」
思い切って、ヴァルテールに告げた。彼の反応を見て、次の手を決めるつもりだった。裏切られるか、見捨てられるか、それとも。
ヴァルテールは、しばらく黙っていた。燭台の炎が、彼の横顔で一度、大きく揺れた。それから、驚きを隠しきれない顔で、私の手を、強く握り直した。
「――俺の、子か」
疑う素振りは、欠片もなかった。誰の子かと問うことすら、彼の頭には浮かんでいないようだった。その声に滲んだ喜びを、私は、まっすぐに見ることができなかった。
「お前と、その子を、放り出すつもりはない。俺が、責任を持つ」
迷いのない声だった。王太子としての、静かな威厳があった。
その一言で、ヴァルテールの、正式な愛妾の座が、私のものになった。任務のために用意していたはずの涙を、私は、本当に流した。演技のつもりだったのか、そうでなかったのか、自分でも分からなかった。
*
娘が生まれたのは、それから間もなくのことだった。
身重の体で過ごした月日、私は、何度も身構えていた。ザイデルンでは、身分の定まらない女が孕めば、胎の子の魔力を強める代償に、母体を蝕む呪いをかけられるのが常だった。命の保証は、どこにもない。
だが、この国に、その呪いはなかった。誰も、私の腹に手をかざしはしなかった。ただ、普通に月日が満ち、普通に、産声が上がった。
産声を初めて聞いた瞬間、指先の震えが止まらなかった。恐怖でも、喜びでもない、名前のつかない感情だった。この子の父が誰なのか、私は一生、確かめる術を持たない。
ヴァルテールは、生まれた娘を、迷いのない手つきで抱き上げた。自分の子だと、疑ってもいない顔だった。
「――リュシオラ、と名付けよう」
彼が、そう提案した。私に否やはなかった。




