人質
国境の道端で、私は半日近く、座り込んで待った。
紙片に書かれた通りだった。他に、行く当てもなかった。日が傾き始めた頃、黒塗りの馬車が一台、音もなく近づいてきた。中から降りてきたのは、室長だった。
「――イレブンは」
挨拶も抜きに、私はそう聞いた。
「地下の牢だ。お前たちが小屋で暖を取っている間に、身柄は確保させてもらった」
室長の声には、感情の色がなかった。
「二人纏めて始末する手もあったが、生憎、お前が任務を完遂する限り、あの男には使い道がある」
*
馬車の中、室長は、小さな薬瓶を、私の目の前に置いた。
「――あの男には、もう飲ませてある」
「飲ませた、って」
「遅効性の毒だ。あと十日で、心の臓が止まる」
息が、喉の奥で止まった。
「解毒薬は、これだ」
室長は、瓶をひとつ、指先で弄びながら言った。
「ヴァルデンツの王太子ヴァルテールを、本気で籠絡しろ。中途半端な色仕掛けでは足りん。あの男の心を、完全に掌の上に乗せてみせろ。それができて、初めて、解毒薬を渡す」
「十日で、そんなことが」
「できなければ」
室長は、私の言葉を遮った。
「解毒薬は、渡さない。あの男は死ぬ」
*
室長は、窓の外へ目をやった。
「――会わせて。せめて、一目だけでも」
「駄目だ」
即答だった。
「地下の男に会わせて、また要らんことを考えられても困る。会えるのは、任務を完遂してからだ。それまで、あの男が生きているかどうかは――お前の働き次第だ」
反論する隙は、与えられなかった。
*
馬車を降りる間際、室長は、小さな布包みを、無言で私の手に握らせた。
「持っていけ」
開けると、母から奪われたはずの、あの銀の指輪だった。意味を尋ねる間もなく、室長は、馬車の扉を閉めた。
紋章を、指先でなぞった。この血のせいで、私は裏通りで生まれ、この血のせいで、戦略室に拾われた。そして今、この血の半分すら知らない相手に、命懸けで取り入りに行こうとしている。
自分の人生が、自分の意志で選んだものが、一つもないことに、今更ながら気づいた。
名前も、拾われた先も、これから会う相手も、全部、誰かに決められたことだ。唯一、自分で選んだものがあるとすれば――イレブンと、山小屋で過ごした、あの一夜だけだった。
その一夜のせいで、こうなった。それでも、後悔はしなかった。
*
国境の丘から、ヴァルデンツの灯りが見えた。
遠く、小さな光の粒が、夜の中に散らばっていた。あの光の中の一つに、まだ見ぬ王太子がいる。私が籠絡し、利用し、いずれ裏切ることになる相手が。
罪悪感は、なかった。あるとすれば、それはイレブンの身の上に対してだけだった。
私は、指輪を握りしめた。
「――十日。それだけあれば、十分」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。誰かに向けた言葉というよりは、これから始まる十日間の、最初の一歩だった。
馬車は、朝を待たずに、国境を越えた。




