逃げる日
三日という時間は、思っていたより長く、思っていたより短かった。
荷物といっても、まとめるものはほとんどなかった。着替えを一枚、水筒代わりの革袋、それだけだった。捨てていくものの少なさが、かえって自分の人生の軽さを教えてくるようで、私はできるだけ、それについて考えないようにした。
最後の一日は、いつも通りに訓練場へ出た。いつも通りに、イレブンから組手をつけてもらった。いつも通りを装うことが、これほど難しいとは思わなかった。
「――今夜だ」
組手の合間、イレブンが短く言った。声には、いつもと変わらない硬さがあった。
「南門、二刻の鐘の後。国境の外れの山小屋まで、夜通し歩く」
「分かった」
それだけの会話だった。それだけで、十分だった。
*
だが、その夜は、雨だった。
二刻の鐘が鳴る頃には、横殴りの雨と風が、帝都の外れを叩いていた。国境まで抜けるには、山道を丸一晩歩き通さねばならない。この天候では、遭難するのが関の山だった。
「――今夜は無理だ」
南門の外、雨に打たれながら、イレブンが舌打ちした。
「近くに、猟師が使う山小屋がある。そこで、天候が回復するのを待つ。予定より、一日遅れる」
一日。たった一日の遅れが、後になって、どれほどの意味を持つことになるか、その時の私には、知る由もなかった。
*
山小屋は、粗末な作りだった。囲炉裏に火を入れると、煙たさと引き換えに、ようやく体の震えが止まった。
濡れた服を、交代で乾かした。狭い小屋の中、二人分の呼吸の音だけが、雨音に混じっていた。
「――明日には、晴れる」
イレブンが、火を見つめたまま言った。
「明日には、国境を越えられる」
「うん」
それだけの会話のはずだった。それなのに、なぜか、二人とも、それ以上、言葉を継げなかった。
*
その夜のことを、私は、後になっても、細部まで覚えていた。
誰が先に、火のそばへ寄ったのかは、覚えていない。濡れた服を脱いで、囲炉裏の火で乾かしながら、寒いから、とだけ言って、身を寄せ合って眠った。瓶の中身のせいでも、誰かに強いられたのでもない。誰かと温もりを分け合う、初めての夜だった。
朝が来たら、二人でここではないどこかへ行く。そう信じられた、最初で最後の夜だった。
*
目を覚ますと、隣に、イレブンはいなかった。
小屋の戸が、風もないのに、大きく開いていた。外は、噓のように晴れていた。雨上がりの土に、複数の足跡が、小屋の中まで続いていた。争った形跡は、ほとんどなかった。抵抗する間もなく、連れ去られたのだと、足跡の乱れの少なさが、何より雄弁に語っていた。
「――イレブン?」
返事はなかった。囲炉裏の灰は、まだ、わずかに温かかった。私が眠っている間に、全てが終わっていた。
小屋の柱に、一枚の紙片が刺さっていた。
『任務を忘れるな。国境で待て』
室長の筆跡だった。それだけを読んで、私は、崩れるように、その場に座り込んだ。




