白羽の矢
十八の年から、小さな任務はいくつも任されてきた。要人の身辺調査、書簡の横取り、酒宴での聞き耳。人を殺めたことも、一度や二度ではない。
それでも、二十一のその日に言い渡されたものは、これまでとは重みが違った。
室長――イレブンより上の立場にいる、顔を隠した男だった――は、書類を机に放った。
「ヴァルデンツから、王太子が来る」
「若い。二十歳そこそこの男だ。身分を隠し、供も最小限で来るという話だ」
「――籠絡できれば、儲けものだ」
室長は、私の顔を検分するように眺めた。
「魅了持ちの、器量のいい娘。お前ほどの適任はいない」
断る、という選択肢は、最初から用意されていなかった。頷く以外の返事は、死を意味する。それが、この部屋の唯一の作法だった。
*
その夜、屋根の上で、イレブンにそのことを話した。
「――決まったの。ヴァルデンツの王太子を篭絡して、愛妾になれって。今度の本任務」
「聞いている」
「この任務が成功したら、もう、あなたには会えなくなるかもしれない」
イレブンは、しばらく黙っていた。帝都の灯りを見下ろす横顔は、いつもと変わらなかった。それが、余計に堪えた。
「行くのか」
「行けと、言われた」
「そうか」
それだけだった。拒めば、殺される。逆らう者には、その道しか用意されていない。この稼業の、唯一の掟だった。だが、行ったところで、しくじれば、やはり殺される。どちらに転んでも、死という文字だけが、いつも道の先で待っていた。
イレブンは、それを、私よりずっとよく知っていた。だからこそ、引き止める言葉も、送り出す言葉も、口にしなかったのだろう。それでも、私はその沈黙に、勝手に傷ついた。十一年、隣にいた。殴られない場所を、初めてくれた人だった。強さを教えてくれた人だった。生き方を――殺されない側に回るための、この世界の渡り方を、一から教えてくれた人だった。それなのに、この人は、私が消えることに、何も言わない。
「――イレブンは、私がいなくなっても、平気なんだ」
言ってから、子供じみた台詞だと自分でも思った。それでも、止められなかった。
*
イレブンは、しばらく答えなかった。
瓦の上、片手が、私の知らないうちに拳になっていた。声には出さず、ただ、その拳だけが、長い時間、固く握られたままだった。
「お前を拾ってから、十一年だ」
イレブンは、それだけ言った。拳を、ゆっくりと開きながら。目は、私ではなく、帝都の灯りの方を向いたままだった。
「ザイデルンで生まれ、戦略室に拾われた時点で、俺たちの人生は、俺たちのものじゃなくなった。お前もそれは、身に染みているはずだ」
殺す側と、殺される側しかない。あの日、イレブンが言った言葉が、耳の奥で繰り返された。あのときは、それで納得したつもりでいた。今は、納得できなかった。
*
「――逃げよう」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。イレブンも、初めて表情を動かした。
「本気で言っているのか」
「本気。任務が始まる前なら、まだ間に合う。国境を越えて、どこか別の国に渡れば、戦略室の手も届きにくくなる。南方の、名も知らない漁村にでも」
夢物語だと、自分でも分かっていた。それでも、口に出してしまえば、本当にできる気がした。
イレブンは、長い間、答えなかった。
やがて、小さく頷いた。
「――分かった。三日後の夜、南門の見張りが交代する隙を使う。それまでに、荷物をまとめておけ」
その一言だけで、私の中の何かが、軽くなった気がした。
「イレブンは」
「なんだ」
「――もし逃げられたら、その先で、何がしたい」
イレブンは、少しの間だけ、答えに迷うような顔をした。任務の指示にも、訓練の説明にも見せたことのない顔だった。
「……考えたこともなかったな」
それきり、答えは返ってこなかった。それでも、その沈黙は、さっきまでの沈黙とは違う手触りをしていた。




