教官という名の、初めての優しさ
名前をもらった翌日から、私は訓練場に立たされた。
ザイデルン帝国には、戦略室という部署がある。皇帝直属で、他国向けの謀略――婚姻、醜聞、偽装死、時には暗殺――を設計し、実行する場所だ。そこで働く者は、書き手も、実行部隊も、皆、本名を捨てて番号だけで呼ばれる。名を持たないことが、そのまま身を守る術になる。見た顔を思い出せない者は、拷問にかけられても何も話せない。それが、この部署の理屈だった。
イレブンにも、本名がなかった。少なくとも、私は一度も聞かされなかった。他の誰もが口にする「兄」という言葉を、私だけは、最後まで一度も使わなかった――それが、拾われた最初の日に、自分で決めた、たった一つの意地だった。
選ぶ余地はなかった。イレブンに拾われるということは、そういうことだと、誰も説明してはくれなかった。地下の訓練場に連れていかれて、木の短剣を握らされて、初めて分かった。
「今日から、お前は殺し方を覚える」
イレブンは、そう言っただけだった。有無を言わせる隙もなかった。
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最初の数ヶ月は、体を壊すことの連続だった。
朝は走らされ、昼は投げ飛ばされ、夜は喉を絞める手筋を覚えさせられた。失敗すれば、容赦なく床に転がされる。手加減という言葉を、イレブンは知らないようだった。
「なんで、こんなことを」
「お前が生き延びるためだ。それ以外に理由はいらない」
裏通りで殴られていた頃と、痛みの種類は変わらなかった。違ったのは、殴られるたびに、確かに何かが積み上がっていく感覚だけだった。前は、殴られるだけで終わっていた。今は、殴られた分だけ、次は避けられるようになる。
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毒の見分け方を教わったのは、半年が過ぎた頃だった。
「舐めるな。匂いだけで判断しろ」
小瓶を鼻先に突きつけられて、私は言われるままに嗅ぎ分けた。何度も間違えて、そのたびに苦い顔をされた。褒められたことは、一度もなかった。
刃物の扱いも、縄の結び方も、変装のための化粧の仕方も、同じ調子で叩き込まれた。イレブンの教え方に、優しさという言葉は似合わなかった。ただ、いつも一つだけ、譲らないことがあった。
「痛かったら、痛いと言え。我慢するな」
それだけは、何度も繰り返された。
母の口癖とは、正反対の言葉だった。『我慢おし。あんたの体は、あんたのものじゃない』――母はそう言った。イレブンは、逆のことを言った。
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初めて、彼が手当てをしてくれた日のことを、よく覚えている。
組手の最中に、私は右手首を挫いた。訓練場の床に転がったまま、痛みで声も出せずにいると、イレブンは無言でこちらへ来て、私の手首を取った。乱暴な手つきを覚悟したが、意外にも、その手は慎重だった。
「――折れてはいない。挫いただけだ」
布を裂いて、手早く固定する。その間、彼は一度もこちらを見なかった。仕事の一環として処理しているだけだ、というふうに。
「明日からは、利き手を庇う動きも覚えろ。片手を潰されても戦える方が、長生きする」
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手練手管を仕込まれ始めたのは、十五の年だった。
「殺すより先に、近づく方法を覚えろ。刃物より、笑顔の方が役に立つ場面は多い」
イレブンは、そう言って、宮廷の礼儀作法から、男の視線の集め方まで、一通りを教えた。目の伏せ方、声の落とし方、相手の話を聞いているふりをしながら、本当は何も聞いていない顔の作り方。
「お前には元から、その手の才がある。教えるまでもないくらいに」
魅了のことを言っているのだと、すぐに分かった。
「怖くないの、私が」
思わず、聞いていた。効かない相手だと知っていても、私という存在そのものが、薄気味悪くはないのか。
「お前は、お前だ」
イレブンは、片眉を上げた。
「お前の力は、道具だ。道具を怖がって使わない奴に、生き延びる資格はない」
その返事に、安堵したのか、落胆したのか、自分でもよく分からなかった。
誰もが、私と目が合った瞬間から、少しずつ、形を変えていく。優しくなる者も、怯える者も、結局は同じだった。私が望んだ形に、本人すら気づかないまま、作り替えられていくだけだった。目を合わせる。手を握る。それだけで、大抵のことは片付いた。人を従わせるのは、拍子抜けするほど簡単だった。
だから、彼の言葉だけが、いつも、確かだった。優しくもなければ、機嫌を取ることもない。ただ、その時、彼が本当にそう思ったことだけを、そのまま口にしていた。効かない、という、たったそれだけの一点で、彼は、私の周りにいる誰とも違って見えた。この人だけは、私が何をしても、私の作り物にはならない。その事実が、いつの頃からか、私にとって、何より安堵できるものになっていった。
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夜、訓練の後に、二人で屋根に上ることが増えた。
瓦は、昼の熱をまだ少し残していた。座ると尻が痺れるほど冷たい夜もあれば、その熱でうたた寝しそうになる夜もあった。言葉を交わすわけではない。ただ、並んで座って、帝都の灯りを眺めるだけの時間だった。風向きが変わるたび、遠くの市場の匂いが、微かに流れてきた。
「――イレブンは、どうしてここに」
「昔の話だ。お前が知る必要はない」
いつも、そうやってはぐらかされた。彼が何を思ってここにいるのか、私は結局、一度も聞き出せなかった。
それでも、隣に座っているだけで、十分だった。
瓦の上、肩と肩の間にだけ、殴られない、奪われない、狭い場所があった。親も、家族も、一度もくれなかった温かさを、私は、この人から、少しずつ、体で覚えていった。




