名前のない子供
十歳になる頃には、父が誰なのか、私はもう知っていた。
文箱の手紙で紋章の意味を知ってからは、断片を集めるだけで十分だった。盗み聞き、酒場の噂話。集めた答えは、拍子抜けするほどありふれていた。
皇帝の末の弟。政略にも数えられない、皇位からいちばん遠い王弟。母のような女を何人も囲っては、後始末もせずに捨てる――そういう、無責任なだけの男。
特別な悪人でも、特別な英雄でもない。ただ、無責任なだけの、名もない父。
*
その男を、初めて自分の目で見たのは、その年の秋だった。
用があったわけではない。噂で聞いた屋敷の場所を、ただ確かめたかっただけだ。裏通りとは目抜き通りひとつ隔てただけの区画に、その屋敷はあった。同じ帝都の、同じ空の下に。
塀の外から、半日近く待った。日が傾いて、屋敷の窓に明かりが灯り始めた頃、ようやく門が開いた。
出てきたのは、恰幅のいい中年の男と、その両脇にぶら下がるようにして笑う二人の子供だった。男の腕には、幼い方の子が抱き上げられていた。仕立てのいい外套を着て、頬に贅肉のついた、幸福そうな子供たちだった。
「――父様、あそこの店の飴が欲しいわ」
「よし、買ってやろう。母様には内緒だ」
男が笑うと、子供たちも笑った。何でもない、ありふれた親子の会話だった。それが、私には別世界の言葉のように聞こえた。
私は、物陰から動けなかった。指の感覚が、少しずつ遠くなっていくのを感じていた。
*
着る物には困らない。食べる物にも困らない。あの子供たちにとって、それは考えたこともない当たり前のことのはずだ。私が生まれてこの方、一度も持てたことのない当たり前。
同じ男の血を分けた子供が、片方は飴をねだり、片方は月に一度、魔力を吸い上げられるために裏部屋に並ぶ。
その差を分けたのは、何だったのか。私の落ち度ではない。あの子供たちの手柄でもない。ただ、生まれた場所が違っただけの話だ。
分かっている。分かっているのに、腹の底から込み上げてくるものを、止められなかった。
*
頭の中で、何かが弾けた。
嫉妬、というには生温い。憎悪と、憎しみだった。指先が痺れて、耳の奥で、自分の鼓動だけが大きく響いていた。
気づけば、通りを歩いていた人々が、一斉にこちらを振り向いていた。物乞いの子供が一人、道の端で立ち尽くしているだけの光景に、何十人もの大人が足を止めて見入っていた。抑えていたはずの憎しみが、器から溢れ出した――それが魔力暴走という現象なのだと、その時の私は知らなかった。
誰も、口をきかなかった。ただ、見ていた。値踏みするのでも、蔑むのでもなく、ただ引き寄せられるように。
男――父も、その視線の中にいた。一瞬だけ、私と目が合った。その目に浮かんだのは、ただの驚きではなかった。同じ力を、自分自身の中にも飼っている者だけが浮かべる、確信めいた色だった。
「――父様?」
子供の声に呼ばれて、男は屋敷の中へ戻っていった。振り返りもせずに。だが、あの一瞬の目の色だけは、確かに、私を見定めていた。
私は、その場に立ち尽くしたまま、通りの人々が我に返っていくのを見ていた。何人かは、青ざめた顔で走り去った。何が起きたのか、私自身にも分からなかった。ただ、体の奥にあった何かの蓋が、外れたのだけは分かった。これが、生まれて初めての、魔力暴走だった。
*
その夜、部屋に戻ってからも、指先の痺れは引かなかった。
寝台に横になっても、眠れなかった。昼間の光景が、何度も瞼の裏で繰り返された。あの子供たちの笑い声。仕立てのいい外套。父の、私を見た一瞬の目。
どれくらい時間が経った頃だろうか。窓の外の空気が、変わったのを感じた。
物音はなかった。ただ、部屋の闇の質感が、わずかに変わった。呼吸の仕方を、体が勝手に浅くした。誰かがいる――理由もなく、そう確信した。
寝台の上で、音を立てずに身を起こす。目を凝らすと、窓辺に人影が立っていた。若い男だった。得物は見えなかったが、それが逆に恐ろしかった。得物を持たずに忍び込めるということは、それだけで、腕に覚えがあるということだ。
「――名は」
低い声だった。感情の色が、どこにもなかった。
「……ない」
「そうか。ないなら、ちょうどいい」
男は、静かにそう言った。
「今日の昼間、お前は帝都の目抜き通りで、四十人近い人間の意識を一斉に奪った。皇弟の血が、こんな場末で無自覚に暴れているという報告が、もう三箇所から上がっている。報告の一つは、他でもない、あの男自身からだ。処分しろ――指示が来た」
殺される。
その一言が、頭の中で何度も繰り返された。喉が動かなかった。指先が、また痺れ始めた。今度は、恐怖のせいだった。
暗殺を指示したのは、父親なのか。あの一瞬の目の色を思い出すたび、そうとしか思えなかった。血を分けた相手に、殺せと命じられる――その事実の方が、殺されることそのものよりも、深く、腹の底を凍らせた。
男は、寝台のすぐ脇まで、音もなく近づいてきた。逃げ場はなかった。窓は背後、扉は男の向こう側だった。
――やめて。
心の中で、そう念じた。これまで何度も、そうやって窮地を切り抜けてきた。殴られそうになるたび、殺されそうになるたび、目を合わせて、念じるだけで良かった。今度も、そうすればいい。そのはずだった。
私は男の目を、まっすぐに見た。何度も、何度も。
何も、起きなかった。
男の目に、意志の色は抜け落ちなかった。瞳の奥は、最初から最後まで、揺らがなかった。逆に、私の焦りを見透かすように、片方の眉が上がった。
「無駄だ。俺には効かない」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
「なんで」
「さあな。生まれつき、そういう質らしい」
男は、ゆっくりと膝を折って、私と目の高さを合わせた。至近距離で見る顔は、思っていたより幼かった。十二、三だろうか。それでも、目の据わり方だけは、歴戦の騎士のように静かだった。
闇に慣れた目が、ようやく彼の色を捉えた。蜂蜜色の髪。空色の瞳。裏通りでは一度も見たことのない色合いだった。薄汚れた部屋にはあまりに不釣り合いな、整いすぎた顔立ちだった。殺されかけているというのに、私は場違いにも、その顔から目を離せずにいた。
「効かない相手に会ったのは、初めてか」
答える代わりに、喉が鳴った。恐怖ではなかった。もっと別の、名前のつかない感情だった。これまで、逃げ場はいつも、この力の中にあった。それが通じない相手を前にして、私は生まれて初めて、本当に丸腰だった。
「――殺すの」
「指示は、そうだ」
男は、懐に手を入れた。私は目を閉じなかった。閉じたら負けだと、どこかで思っていた。心臓の音だけが、耳の奥で大きく鳴っていた。指先の震えは、もう止められなかった。
このまま、終わるのだろうか。裏通りで生まれて、名前もなく、誰にも知られずに。そう思うと、悔しさよりも先に、乾いた諦めのようなものが、胸の中に広がった。
だが、伸びてきた手は、私の頭に触れただけだった。乱暴でも、優しくもない、ただの重さだけの手つきで。
しばらく、その手はそこにあった。何かを確かめるように。
「――だが、こんな力を持った子供を、殺すだけで済ませるのは惜しい」
男は、立ち上がりながら言った。息を止めていたことに、そのとき初めて気づいた。肺が、勝手に大きく空気を吸い込んだ。
「拾ってやる。名がないなら、俺がつけてやろう」
しばらく、私の顔を眺めていた。値踏みするような、それでいて値踏みだけではないような目だった。
「――拾われたら、私は何をするの」
「殺されたくないのなら、殺す側にまわるしかない」
男は、事も無げに言った。
「この世界に、殺されない側なんてものはない。あるのは、殺す側と、殺される側だけだ。今日、お前は殺される側から、殺す側に移った。それだけの話だ」
男は、私の返事を待たなかった。
「俺のことは、兄と呼べ。他の奴らも、皆そう呼んでいる」
その一言に、なぜか、腹の底が冷えた。
「――嫌」
「なんだと」
「兄なんて、呼ばない。あなたは、私の兄じゃない」
自分でも、なぜそう言い返したのか、うまく説明できなかった。ただ、命を救われたばかりの相手に対して、頑なに、それだけは譲れない気がした。
「番号があるんでしょう。それで呼ぶ」
「――11だ。好きにしろ」
この稼業で、名前を持つ者は一握りしかいない――それがこの部署の掟なのだと知ったのは、もっと後のことだった。大半は、番号で呼ばれて管理される。名を持たないことが、そのまま身を守る術になる。それだけの、単純な理屈だった。
男は、興味を失ったように、肩をすくめた。
「――グリゼルダ」
「何、それ」
聞き覚えのない響きに、私は瞬きをした。
「お前の名前だ。今日から」
「――どういう、意味」
「古い言葉で、黄金の戦士、という意味だ」
彼は、そう言ってから、自分の髪に、軽く触れた。蜂蜜色の髪だった。
「――俺と、同じ色だ」
男は、もう私を見ていなかった。窓の外、白み始めた空を見上げていた。私は、その横顔を、いつまでも見ていた。




