娼婦の娘、王家の血
物心ついたときから、お腹は空っぽだった。
母のイルミナは、ザイデルン帝国の帝都カルナハト、その裏通りで体を売っていた。狭い部屋の壁一枚向こうで、母が知らない男の声に応えているあいだ、私はいつも同じ場所で膝を抱えていた。板張りの隙間から漏れる隙間風の位置も、軋む床板の場所も、目を閉じたまま歩けるくらいに覚えていた。
客がついた夜は、パンの欠片にありつけた。硬くなって、端が黴の匂いのする欠片だった。それでも、噛めば噛むほど、口の中に唾液が滲んで、甘く感じた。客がつかない夜は、水だけで眠った。桶の水は、時々、錆の味がした。
どちらの夜が多かったかは、数えるまでもない。
*
空腹より辛かったのは、魔力を抜かれることだった。
この裏通りを仕切る男――誰もが「元締め」とだけ呼んでいた、恰幅のいい中年の男――は、月に一度、区画の子供たちを裏部屋に呼び出した。呼び出しの日が近づくと、子供たちの間には、独特の緊張が漂った。誰も口には出さないが、皆、その日を数えて生きていた。
裏部屋には、粗末な椅子が並んでいた。順番を待つあいだ、前の子の顔を見るのが怖かった。作業を終えて出てくる子供は、決まって顔色が悪く、唇が乾いて、足元がおぼつかなかった。
自分の番が来ると、元締めは私の両手を、自分の分厚い手のひらで包んだ。
「――さあ、いい子だ」
そう囁く声は、優しかった。優しさと引き換えに奪われるものの重さに、その声は、まるで釣り合っていなかった。
手を握られた瞬間、体の芯から、何かが吸い出されていく感覚があった。指先から冷えていって、やがて肩まで、力が入らなくなる。声を出そうにも、喉が動かない。ただ、目の前の男の顔だけが、やけに満足そうに緩んでいくのを、見ているしかなかった。
終わる頃には、いつも立っていられなかった。壁に手をついて、部屋の隅までよろめきながら戻る。その道のりが、一番長く感じる時間だった。
「お前は毎回、量が多いな」
元締めは、いつも私だけ、そう言って笑った。他の子より多く、長く、私の手を握っていた。
*
殴られるのも、日常だった。
パンを盗んだと決めつけられて。愛想が悪いと言われて。見た目が気に入らないと言われて。理由なんて、後からいくらでもついてきた。
ある晩、元締めの手下の一人が、私の襟首を摑んで、路地の壁に叩きつけた。何が気に入らなかったのか、今でも分からない。ただ、その日、機嫌が悪かったのだろう。
「口答えするんじゃねえ」
頬を張られた。一度、二度。三度目で、視界の端に火花が散った。地面に膝をつくと、今度は脇腹を蹴られた。喉から、声にならない音だけが漏れた。
頬を張られる音は、じきに聞き分けられるようになった。骨に当たる乾いた音と、肉に当たる鈍い音は違う。骨の音のほうが、痛みは早く引いた。肉の音のほうが、後になって、じわじわと熱を持って腫れてきた。
地面に転がったまま、私は路地の隅で丸くなった小さな影を見た。母だった。戸口に立って、こちらを見ていた。何も言わなかった。止めもしなかった。止められる立場ではなかったから。
その夜、傷の手当てをしながら、母はぽつりと言った。
「――我慢おし。あんたの体は、あんたのものじゃない」
それが、母の口癖だった。母は、私の頬の傷に、濡らした布を当てながら、それだけ言った。
*
初めて力を使ったのは、七つの年だった。
その日も、理由のない暴力だった。元締めの手下の一人――名前も覚えていない、若い男――が、"作業"のついでに、私を殴った。倒れた拍子に、唇の端が切れて、鉄の味が口いっぱいに広がった。
悔しさで、頭の中が白くなった。
やり返してやりたい。だが、殴り返す力はない。体格差は、埋めようもなかった。地面に這いつくばったまま、私にできることは何もなかった――そう思っていた。
男は、まだ何か喚きながら、私の髪を摑もうと手を伸ばしてきた。とっさに、私はその手を避けて、顔を上げた。目が合った。
その瞬間、何かが変わった。
涙で潤んだ目で、私はただ、男を見た。見て、心の中で念じた。痛い目に遭えばいい。私が受けた分、そのまま返ればいい。それだけだった。魔法の詠唱も、何かの儀式もない。ただ、見て、念じただけだった。
男の顔から、表情が抜け落ちた。
瞳の奥にあった苛立ちも、嘲りも、一瞬で消えて、代わりに何もない空白が広がった。人形のような顔だった。
「――俺は、何を」
男は、自分の右手を見つめ、それから、ゆっくりとその手を、自分の頬に叩きつけた。一度。パン、という乾いた音がした。二度目、三度目。だんだんと力が強くなっていく。四度目で膝が崩れ、地面に両手をついた。
「――すまなかった。すまなかった、俺は」
男は泣いていた。誰に向けているのか分からない謝罪を、繰り返しながら。
私は、地面に座り込んだまま、それを見上げていた。何が起きたのか、理解が追いつかなかった。ただ、胸の奥に固く凝っていた悔しさの塊が、少しだけ、溶けて軽くなったのを覚えている。両手を見た。震えは、いつまでも止まらなかった。
これが、魅了の力だと知るのは、まだ先のことだった。それでも、見て、念じるだけで、殴られるだけだった自分が変わる――そのことだけは、はっきりと分かった。
*
それから、私は少しずつ、覚えていった。
殴られたら、殴り返せない代わりに、見る。じっと、まっすぐに。心の中で「痛い目を見ればいい」と念じながら。うまくいくときと、いかないときがあった。相手がひどく怯えているときや、こちらを見下しきっているときほど、うまくいった。
うまくいったときは、決まって同じことが起きた。相手の目から、意志の色が抜ける。そうして、私が望んだ通りのことを、相手は自分の意志でしたかのように、してしまう。
元締めの手下は、二人、三人と、私に手を上げなくなっていった。理由も分からず私を避けるようになった者もいれば、なぜか私にだけ妙に甘くなる者もいた。裏通りで、私に近づく足音が、少しずつ減っていった。
代わりに増えたのは、遠巻きにこちらを見る目つきだった。
*
母だけが、それに気づいていた。
「――お前、その目は」
ある晩、酔った客を送り出した後、母は私の顎を摑んで、まじまじと覗き込んだ。恐ろしいものを見るような顔だった。手のひらが、震えていた。
「その目は、誰に似た」
母は答えを待たなかった。代わりに、私の胸元から下げていた古い指輪に、そっと触れた。
銀の指輪だった。細い意匠の中に、見たことのない紋章が彫られていた。母は、それを指先で、いつまでも撫でていた。
「――あんたも、生まれるところが違ったら、幸せになれたのに」
それだけ言うと、母は、指輪を、もう一度、私の手に握らせた。その晩から、母は私を見るとき、時々、遠い場所を見るような目をするようになった。
*
その紋章の意味を知ったのは、もっと後――母が酔い潰れて眠った晩、こっそり文箱を漁ったときだった。
鍵のかかっていない、古い木箱。中には、黄ばんだ手紙の束が入っていた。差出人の名前はどこにもなく、代わりに、指輪と同じ紋章の封蠟だけが、どの手紙にも押されていた。
文面はどれも短く、素っ気なかった。金の無心を断る文。会うことを拒む文。子細を語らず、ただ拒絶だけを並べた文字の連なり。
最後の一通にだけ、少し長い文章があった。
『――二度と、この名を名乗らせるな。子のことも、帝家とは無縁のものとして扱え』
この帝都で、その紋章を知らない者はいない。
私はまだ、意味の半分も分かっていなかった。それでも、この国の王族の、それも末端の血が、自分の中に流れているのだと分かった。信じられなかった。空っぽの腹を抱え、月に一度、魔力を吸い上げられる自分の暮らしと、その血が、あまりにも釣り合わなかったから。
*
私が誰の血を引いているのか、はっきりと言葉にされたことは、生涯を通じて一度もない。ただ、母が時折、酔った勢いで漏らす言葉の端々から、ぼんやりと輪郭だけを拾い集めるしかなかった。
「あんたがその力を使うたび、私はあの人を思い出す」
「あんたは、生まれてきちゃいけない子だった。でも――生きてる以上は、強くお生き」
強く生きろ、というのは、この街では処世術のことだった。奪われる前に奪え。壊される前に壊せ。母が教えてくれた唯一のことは、それだった。
私は、その教えを、忠実に守った。
殴られれば、目を合わせて、やり返す。奪われれば、奪い返す機会を待つ。裏通りで、私に手を上げる者は、年々少なくなっていった。
その代わり、路地で私とすれ違う大人たちは、決まって道の端に寄った。目を合わせず、足早に。まだ七つの子供一人に、大人たちが、そうやって道を譲るようになっていた。




