毒杯の夜
『一年以内に、王妃を殺せ。失敗したら、イレブンは殺す』
その言伝てが届いたのは、リュシオラが七つになった年の、初夏のことだった。
これまでの指示とは、明らかに温度が違った。前進を促す言葉ではなく、期限と代償を切った命令だった。私は、その紙片を、暖炉の火で焼きながら、指先の震えを止められずにいた。
王妃を殺せ。それはつまり、エルヴィーネを、この世から消せということだった。
*
厨房に近づく機会を作るのは、難しくなかった。
私は、菓子作りを好む客人として、すでに厨房への出入りを許されていた。侍女や料理人たちとも、それなりに顔馴染みになっていた。信頼というものは、時間をかけて積み上げれば、誰にでも作れる。
料理長――アルブレヒトという、実直だけが取り柄の男――に近づいたのも、菓子の相談という名目だった。何度か菓子を差し入れるうちに、私は彼の弱みを見つけた。故郷に残した、病がちな母親への仕送り。決して裕福ではない暮らし向き。
「――もし、少しでも助けになれば」
私は、金貨の入った袋を、それとなく差し出した。アルブレヒトは、最初、頑なに固辞した。実直な男だった。だからこそ、時間をかける必要があった。
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三度目に差し出した時、彼はようやく受け取った。
「――このご恩は、忘れません」
罪悪感なんて、感じなかった。私の中で、最優先はイレブンだった。彼のためなら、王妃だろうと、他の誰だろうと、差し出せる。それだけだった。
その夜から、私は、王妃の夜食の粥に、小瓶の油を一滴ずつ垂らし続けた。南方胡桃の油――ヴァルテールの血筋だけを狙い撃つ、毒ですらない毒だった。すぐには何も起きない。それが、都合が良かった。
厨房の隅に、洗い場担当の若いメイドがいたことに、私は数日後まで気づかなかった。王のお手付きだということも、知らずに。
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問題が起きたのは、それから数日後のことだった。
洗い場のメイドが、目撃したことを、アルブレヒトに訴え出たのだ。グリゼルダ様が、王妃様の粥に、何かを垂らしておられるのを見た、と。
アルブレヒトが、私のもとへ駆け込んできたのは、その日の夕刻だった。顔面が蒼白だった。
「――グリゼルダ様。これは、一体」
言い逃れの言葉を、私は用意していなかった。ただ、彼の目を、まっすぐに見た。震える声で、噓ではない言葉だけを選んだ。
「――助けて」
それだけだった。魅了の力を使うまでもなかった。三度受け取らせた金貨が、すでに彼を縛る鎖になっていた。今更、告発すれば、自分もまた、共犯として裁かれる。その恐怖のほうが、正義感より強く働いた。
「……メイドの証言は、握りつぶします。盗みの罪をでっち上げて、追い出しましょう」
アルブレヒトの声は、震えていた。それでも、その口は、私の望む言葉を紡いだ。
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もみ消しの後も、私は、王妃の夜食に、油を垂らし続けた。三月かけて、エルヴィーネは、少しずつ、静かに衰弱していった。食が細り、指先が痺れ、日を追うごとに、眠りが深くなっていく。医師団は、流行り病だと診断した。誰も、夜食の粥のことなど、疑いもしなかった。
城中が慌ただしくなったのは、初雪の朝だった。私は自室で、震える手を握りしめて、報せを待った。
程なくして、王妃の死が告げられた。医師団の見立ては、最後まで「病没」のままだった。城中が喪に服す中、私は、誰よりも悲しげな顔を作ることに、全神経を注いだ。それは、それほど難しい演技ではなかった。
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「――娘を、一人だけでも」
メイドは、追われる間際、そう懇願したと聞いた。娘を置いていくなら、訴えは取り下げてやる、というアルブレヒトの取引に、彼女は頷いたという。
その娘――幼いルティアが、いつか、自分に牙を剥くことになるとは、その時の私は、全く思っていなかった。
後から知ったことだが、あの下女もまた、陛下のお手つきだったという。幼いルティアの父は、ヴァルテールその人だった。
あのメイドも、私も、同じ立場だった。なんと、こっけいなことだろう。
都合が悪くなった女を、後始末もせずに切り捨てる。かつて、母を捨てた父と、何一つ変わらなかった。血だけでなく、やり口まで、あの男に似てしまった。
もし、あの雨の夜、山小屋を出た後、無事に国境を越えられていたら。イレブンと、この子と、三人で、名もない国の、名もない漁村で暮らしていたら――違う未来もあったんだろうか。もう二度と、見ることのできない未来を、私は、束の間、思い描いた。
夜、一人になった部屋で、私は、あの銀の指輪を握りしめた。
「――これで、また一歩、あなたに近づいた」
誰に向けた言葉かは、自分でも分かっていた。独房のイレブンに。
任務は、成功した。だから、イレブンは殺されない。それだけが、大切だった。




