第八話 離れられない
王都へ戻ってから、アウグストの日常は、表面上、何も変わっていなかった。
朝は政務から始まり、昼は会議、夕刻には裁可すべき書類が山と積まれる。王としての一日は、寸分の狂いもなく、いつも通りに進んでいく。
――はずだった。
「陛下、こちらの書類にご確認を」
差し出された書類に目を通した瞬間、アウグストは短く言った。
「……違う」
「え?」
書記官が、戸惑ったように問い返す。アウグストは、もう一度書類に目を落とした。
数字は、合っていた。何の間違いもない。
「……いや。何でもない。続けろ」
書記官は、怪訝そうな顔をしながらも、何も言わずに報告を再開した。アウグストは、自分でもなぜ「違う」と口にしたのか、分からなかった。ただ、書類の文字を追っているはずの視界の端に、一瞬、まったく別の光景がよぎった気がしただけだった。
中庭で、グレアムと並んで歩きながら、小さく笑うセレフィーナの横顔。
――何を、見ている。
アウグストは、軽く頭を振り、書類に視線を戻した。
会議の場でも、同じことが起きた。
「陛下」
宰相が声をかける。反応がない。
「――陛下」
二度目の呼びかけで、ようやくアウグストは顔を上げた。
「……すまない。何だったか」
居並ぶ大臣たちが、僅かに顔を見合わせる。国王代理が、議事の途中で聞き返すことなど、これまでほとんどなかった。
「南部の治水の件でございます」
「……ああ。続けてくれ」
アウグストは、努めて平静を装いながらも、内心では戸惑っていた。今、自分は何を考えていたのか。思い出そうとしても、輪郭がぼやけて掴めない。ただ、辺境で見た、あの笑顔だけが、頭の奥に居座り続けていた。
あんな風に笑う彼女を、自分は一度も見たことがなかった。王城にいた頃の彼女は、いつも完璧な微笑みを浮かべていたが、それとはまったく違う、力の抜けた表情だった。
――なぜ、それが、こんなにも頭から離れないのだろう。
夜、私室に戻ったアウグストは、いつものように机の引き出しを開けた。
中の紙切れは、変わらずそこにあった。渡せなかった小さな言葉。
――彼女は、今、何をしているだろう。
ふと、そんなことを考えている自分に気づき、アウグストは、僅かに眉を寄せた。
辺境にいる彼女の日常を、想像したことなど、今までなかった。だが今は、想像せずにいられない。今頃、帳簿と向き合っているだろうか。それとも、ロザリンドと語らっているだろうか。あるいは――またグレアムと、あんな風に笑い合っているのだろうか。
最後の想像に至った瞬間、胸の奥に、鈍い痛みのようなものが走った。
アウグストは、その痛みの正体が分からず、静かに引き出しを閉じた。
翌日も、その翌日も、同じことが続いた。
庭園を歩けば、彼女がよく佇んでいた場所が目に入り、足が止まる。
「陛下」
レナードの声に、アウグストは我に返った。
「何だ」
「……書類を、逆さまにお持ちです」
アウグストは、自分の手元に目を落とした。確かに、逆さまだった。
「……」
何も言わず、静かに向きを直す。レナードは、それ以上何も言わなかったが、その沈黙が、かえって雄弁だった。
しばらくして、別の書類を差し出しながら、レナードはもう一度口を開いた。
「陛下。……こちら、先ほどご覧いただいた書類と、同じものでございます」
アウグストは、手元の書類と、机の上に積まれた書類を見比べた。確かに、同じものだった。いつ、二度目を手に取ったのか、まったく覚えがなかった。
「……そうか」
それだけを言い、アウグストは書類を置いた。
執務室に一人残されたアウグストは、しばらく、窓の外を見つめ続けていた。
王として、これまで数え切れないほどの判断を下してきた。国益、外交、財政――どれほど複雑な問題も、理を尽くせば、必ずどこかに答えがあった。
だが今、自分の胸の中にあるこの感覚には、答えがない。
なぜ、彼女の笑顔が、こんなにも頭から離れないのか。 なぜ、あの一瞬の光景が、これほど胸を苦しくさせるのか。
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
アウグストは、無意識に、指輪に触れていた。先王の形見。感情が動くと出る、彼自身も気づいていない癖。
――なぜだ。
その問いに、答えは出なかった。
ただ、一つだけ、はっきりと分かることがあった。
彼女に会いたい。
そう思った瞬間、アウグストは静かに目を閉じた。




