第七話 知らなかった人
ヴァルデュール公爵邸を、アウグストが個人的に訪れるのは、初めてのことだった。
出迎えたのは、老齢の侍女――マルタといったか。かつて、婚約者としてこの屋敷を訪れた際、何度か顔を合わせたことがある。
「陛下が、直々にいらっしゃるとは」
その声には、隠しきれない硬さがあった。当然だろう、とアウグストは思う。歓迎される理由など、どこにもない。
「少し、話を聞きたい」
「……何を、でございましょう」
「セレフィーナのことを」
マルタは、しばらく黙っていた。それから、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「今更、でございますか」
その一言が、思っていたより深く刺さった。アウグストは、それでも表情を変えず、頷いた。
「今更で構わない。教えてくれ」
マルタの語る話は、アウグストの知らないことばかりだった。
セレフィーナが、社交界でどれほど孤立していたか。表向きは慕われているように見えて、実際には誰も彼女に本音で近づこうとしなかったこと。彼女自身もまた、誰かに寄りかかることを、一度も自分に許してこなかったこと。
「お嬢様は、誰にも弱音を吐かれたことがございません。私の前でさえも」
「……誰にも?」
「はい。……ただ、お一人だけ」
「誰だ」
「辺境伯夫人様です。ロザリンド様には、幼い頃から、時折、素のお顔をお見せになっていたようです」
アウグストは、言葉に詰まった。
自分は、五年近く彼女の婚約者だった。それなのに、彼女が素顔を見せた相手を、一人も知らなかった。
「――彼女は、何が好きだったんだ」
その問いに、マルタは、意外そうな顔をした。
「陛下は、ご存知ないのですか」
「……知らない」
その答えに、マルタは、何かを堪えるように、一度目を伏せた。
「そうでございますか」
それ以上、マルタは何も言わなかった。言わなくても、十分すぎるほど伝わった。
王城への帰路、馬車の中で、アウグストは一人、窓の外を見つめていた。
脳裏に、古い記憶が蘇る。
幼い頃、教育係だった老臣の声。
「王に必要なのは、愛されることではない。民に何を与えられるかだ」
その言葉を、アウグストは長い間、正しいものとして信じてきた。感情を求めることは、王としての甘えだと。だから、彼は誰にも何かを求めなかった。代わりに、与えることだけを、自分の役目だと思い込んだ。
母は、彼が幼い頃に亡くなった。個人として名前を呼ばれた記憶すら、ほとんどない。乳母だけが、唯一心を許せる存在だったが、その乳母もまた、「望みを言わず、与えられたものに感謝する」生き方を、当たり前のように体現していた。
――だから自分は、望みを言わない人間を、愛される人間だと学習した。
そこまで思い至って、アウグストは、静かに首を振った。
――だが、それは理由にはならない。
教育係の言葉も、乳母の生き方も、確かに自分を今の形に作った。それは否定しない。だが、それを言い訳にするつもりは、微塵もなかった。
彼女に何も尋ねなかったのは、自分の選択だ。育ちのせいにして許されるほど、自分は子供ではない。
彼女が何を好きだったのか。何に傷ついていたのか。何を望んでいたのか。
知る機会は、いくらでもあったはずだった。それなのに、一度も、尋ねようとしなかった。
――知らなかった、ではない。
――知ろうとしなかった、が正しい。
執務室に戻ったアウグストに、レナードが声をかけた。
「陛下、顔色が優れないようですが」
「……大したことではない」
「無理もございません。……殿下のお育ちを思えば、ご自分を責められすぎるのも、無理からぬことなのかもしれません」
その言葉に、アウグストは、初めて強い口調で答えた。
「無理からぬことで、彼女を傷つけていい理由にはならない」
レナードは、少し驚いたように、主君を見た。
「……失礼いたしました」
「いや」
アウグストは、短く息を吐いた。
「お前が悪いわけではない。……ただ、これ以上、自分に都合の良い理由を探すのは、やめようと思っただけだ」
窓の外では、日が暮れかけていた。
彼女のことを、まだ何も知らない。その事実だけが、今の自分に許された、唯一確かなことだった。
救いは、まだどこにもなかった。ただ、知らなければならないことが、これから先も、まだいくつも残っている。それだけが、はっきりと分かっていた。
――もし、もう一度だけ話す機会があるのなら。
今度こそ、彼女に尋ねよう。
まだ、それが何のための問いなのか、アウグスト自身にも分かっていなかった。




