第六話 距離
辺境視察は、当初、単なる名目のはずだった。
国境防衛の状況確認。表向きの理由はそれだけで、アウグスト自身、なぜ今、自らこの視察に名乗りを上げたのか、はっきりとした説明ができずにいた。
「陛下自らのご視察とは、恐縮です」
エルダ辺境伯グレアムは、日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべ、深く頭を下げた。武骨な物言いだが、卑屈さはない。現場を預かる者らしい、確かな落ち着きがあった。
「造作をかけるな」
「いえいえ。それより、ちょうど良いところにいらした。少々お見せしたいものが」
グレアムに案内されたのは、領地の帳簿を管理する一室だった。
扉を開けた瞬間、アウグストは、そこにいる人物の姿に、一瞬、息を止めた。
セレフィーナだった。
机に向かい、書類の束に目を通している。王城で見ていた完璧な令嬢の装いとは違う、動きやすい簡素な服装。髪も、簡単にまとめられているだけだった。
それなのに――アウグストの目には、その姿が、今までのどんな装いよりも、彼女らしく映った。
「セレフィーナ嬢が来てくれてから、この辺りの帳簿仕事は、見違えるようによくなりましてね」
グレアムは、誇らしげにそう言った。
「うちの妻の代わりに、実によく働いてくれる。感謝してもしきれません」
「……そうか」
アウグストは、短くそれだけを答えた。
セレフィーナは、こちらに気づき、一瞬、動きを止めた。だが、すぐに立ち上がり、いつもの令嬢の礼をとった。
「陛下」
「……久しいな」
それだけの言葉しか、出てこなかった。彼女もまた、それ以上は何も言わなかった。
グレアムが、その間を取り持つように、明るく声を上げた。
「セレフィーナ嬢、ちょうど良い。先ほどの徴税の件、陛下にもご意見をいただいたらどうだ」
「……よろしいのですか」
「もちろんだ。おい、椅子を持ってこい」
グレアムは、まるで家族に接するような気安さで、セレフィーナの肩に軽く手を置いた。
「この方には、本当に世話になっている。ロザリンドの薬代も、領地の建て直しも、この方がいなければどうなっていたことか」
「……グレアム様、大げさです」
セレフィーナが、困ったように微笑む。それは、王城では一度も見たことのない、自然な表情だった。
その一瞬を、アウグストは、なぜか、うまく受け止められなかった。
視察の合間、アウグストは、執務室の窓から、中庭を見下ろしていた。
そこには、グレアムとセレフィーナが並んで、何かを話しながら歩いている姿があった。グレアムが何か言うと、セレフィーナが小さく笑う。距離は、決して近すぎるわけではない。だが、その空気には、隔たりがなかった。
アウグストは、その光景から、目を離せなかった。
――何なのだ、これは。
胸の奥に、覚えのない感覚があった。焦げつくような、ざらついた感覚。怒りとも違う。悲しみとも違う。名前のつけようがなかった。
彼女が、あんな風に自然に笑う姿を、自分は見たことがあっただろうか。
王城にいた頃、彼女はいつも完璧だった。完璧すぎるほどに。だが、今、目の前にある彼女は、その完璧さの奥にあった何かを、初めて緩めているように見えた。
そしてそれを引き出したのは、自分ではなかった。
アウグストは、握りしめた拳に気づき、慌てて力を抜いた。指先が、無意識に、先王の形見の指輪に触れていた。
――これは、何だ。
答えは、まだ出なかった。
その夜、辺境伯邸の一室で、アウグストは一人、窓の外を見つめていた。
昼間の光景が、頭から離れなかった。グレアムの気安い態度。セレフィーナの、あの自然な笑み。
嫉妬、という言葉は、まだ彼の中には浮かんでこなかった。ただ、説明のつかない苛立ちだけが、胸の奥に居座り続けていた。
――彼女は、幸せそうだった。
その事実だけが、なぜか、アウグストの胸を、ひどく重くしていた。




