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婚約破棄された悪役令嬢は、自分を愛することから始めました  作者: ましろゆきな


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第五話 影

「陛下、王弟殿下がお目通りを」


 書記官の声に、アウグストは書類から顔を上げた。


「通せ」


 ほどなくして、恰幅の良い壮年の男が、穏やかな笑みを浮かべて執務室に入ってきた。ギルベルト・ヴァイン・ラファエリス。アウグストの叔父にあたる人物であり、幼い頃から国政を支えてきた重鎮でもある。


「忙しいところ、すまないな」


「構いません。何か」


「南部の視察についての報告書だ。……それと」


 ギルベルトは、書類を差し出しながら、ふと目を伏せた。


「先の婚約破棄の件、社交界でもだいぶ落ち着いてきたようだ。陛下の判断は、賢明だったと思うよ」


「……そうですか」


「ヴァルデュール嬢ほど有能な方なら、王妃という枠に収まらず、他にいくらでも道はあっただろうに。……惜しいことをしたな」


 その言い方に、アウグストは僅かに眉を寄せた。褒めているようで、どこか、彼女を人ではなく駒のように語る響きがあった。


「とはいえ、戴冠式まで、そう長くはない。それまでに、新たな婚約者を立てねばならないだろうな」


 ギルベルトは、穏やかな笑みを崩さぬまま、そう続けた。


「案じることはない。良い縁談なら、いくらでも私が見繕おう」


 叔父の言葉は、いつも正しい。正しすぎるほどに。


 ギルベルトが去ったあと、書記官が声を潜めて言った。


「陛下。差し出がましいようですが……」


「何だ」


「王弟殿下は、近頃、社交界でもよくヴァルデュール嬢の話をなさっているようです。その……好意的に、ではなく」


 アウグストは、手を止めた。


「詳しく」


「はい。あの令嬢は冷酷だ、王妃になれば民が離れる、と――そういった噂が、殿下の周辺の方々を通して、社交界に広まっていたようで」


 アウグストは、しばらく黙っていた。


 思い返せば、あの噂を最初に耳にしたのは、いつだったか。誰から聞いたのか。それすらも、はっきりとは思い出せない。ただ、気づけば当たり前のように、宮廷の空気の中に溶け込んでいた。


「……それが、何だと言うんだ」


 アウグストは、努めて平静な声で言った。


「私は、噂だけで判断したわけではない」


「はい、もちろんでございます。ただ……」


 書記官は、言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「殿下のご子息、シリル様が、近頃、社交の場に顔を出す機会が増えております。年齢的にも、そろそろ、というお声も。……戴冠式までに婚約者が定まらなければ、儀式そのものが延期になりかねない、という懸念も囁かれております」


 その一言で、アウグストは、ようやく合点がいった。


 王位継承権のことを言っているのだ。有能な王妃が立てば、自分の治世は盤石になる。逆に言えば、それは、王弟の血筋が王位に近づく目を、確実に一つ潰すということでもある。


「……考えすぎだ」


 アウグストは、そう言って、話を打ち切った。


 だが、その夜、執務室に一人残ったアウグストの脳裏には、叔父の穏やかな笑みが、何度も繰り返し浮かんでいた。


「彼女は冷酷だ、王妃になれば民が離れる」


 自分がそう判断した根拠は、いったい、どこから来たものだったのか。


 思い出そうとすればするほど、その輪郭は曖昧になっていく。誰かに言われたことだったのか、それとも、自分自身で気づいたことだったのか。


 ――彼女なら、耐えられる。


 その考えだけは、はっきりと覚えている。だが、その前提となる「彼女は冷たい」という評価そのものは、どこから来たのだろう。


 アウグストは、机の上で指を組み、しばらく目を閉じた。


 もし、あの噂に、誰かの意図があったのだとしたら。


 それでも、と彼は思う。


 噂を信じたのは、自分だ。噂の出所がどうであれ、最終的に彼女を手放すと決めたのは、他でもない自分自身の判断だった。誰かのせいにするのは、あまりにも、都合が良すぎる。


 アウグストは、目を開けた。


 窓の外は、すでに闇に沈んでいる。


 ――彼女は、本当に冷たい人間だったのだろうか。


 初めて、その問いが胸に浮かんだ。


 その夜、アウグストは珍しく、政務の手を止め、長い間、ただ窓の外を見つめ続けていた。

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