第四話 空いた席
王城の執務室には、いつも通りの静けさがあった。
書類の山を捌きながら、アウグストは淡々と決裁の印を押し続けていた。王としての一日は、婚約破棄があろうがなかろうが、変わらず進んでいく。少なくとも、そう見えていた。
「陛下、南部の穀物税に関する報告書です」
書記官が差し出した書類に目を通し、アウグストは眉をひそめた。数字が、合わない。
「これは、去年の報告と食い違っているな」
「は……申し訳ございません。確認いたします」
書記官が慌てて頭を下げる。アウグストは、それ以上何も言わず、書類を突き返した。
こういうことが、ここ数週間、増えていた。
夕刻、宰相との会議で、同じような話が出た。
「陛下、隣国との通商協定の件ですが、細部の調整に手間取っております。これまでは……」
宰相は、そこで一瞬言葉を切った。
「これまでは、ヴァルデュール嬢が下準備をなさっていた部分ですので」
その名を聞いた瞬間、アウグストの手が、僅かに止まった。
「そうか」
それだけを言い、話を続けさせた。表情は変えなかった。変える理由がない、と思っていた。
だが、会議を終えて一人になった執務室で、アウグストは椅子に深く背を預け、天井を見上げた。
――そういえば。
彼女がいた頃は、こうした細かい確認や下準備で、躓くことがほとんどなかった。数字の食い違いも、協定の調整も、いつの間にか片付いていた。誰がそれを担っていたのか、深く考えたことすらなかった。
当たり前のように、そこにあったものだったから。
その夜、私室に戻ったアウグストは、机の引き出しを、無意識に開けていた。
中には、一枚の小さな紙が入っている。何気なく書き留めた、彼女のふとした言葉。何のためにそうしたのか、当時の自分でも、よく分かっていなかった。ただ、聞き逃してはいけない気がした。それだけだった。
結局、その紙は、一度も使われることのないまま、引き出しの奥に眠り続けていた。
贈る機会はいくらでもあったはずだ。それなのに、渡さなかった。
――彼女には、もっと相応しいものを。
そう思っていた。ドレスも、宝飾品も、地位も。すべて、彼女にふさわしいと信じるものを、与え続けてきたつもりだった。
なのに、なぜ、こんな小さな紙切れ一枚を、渡せなかったのだろう。
アウグストは、その紙をしばらく見つめたあと、答えの出ないまま、静かに引き出しを閉じた。
深夜、政務を終え、王城の回廊を一人歩きながら、アウグストはふと足を止めた。
窓の外、庭園の一角に、彼女がよく佇んでいた場所がある。婚約者として王城に出入りしていた頃、彼女はそこで、静かに時間を過ごしていることが多かった。何をしているのか、尋ねたことは一度もなかった。
今、そこには誰もいない。
当たり前のことだった。彼女はもういない。自分がそう決めたのだから。
それなのに、その空白を見つめる時間が、日に日に長くなっていることに、アウグストは気づいていた。
国は、回っている。細かな綻びはあれど、致命的な支障が出ているわけではない。政務は滞りなく進み、民の暮らしも変わらない。
――それなのに。
自分の隣だけが、やけに広く感じられる。
アウグストは、その感覚に名前をつけられなかった。喪失感、と呼ぶには、まだ何かが違う気がした。かといって、後悔とも言い切れない。自分の判断は、間違っていなかったはずだ。彼女を、重すぎる荷から解放してやったはずだった。
なのに、なぜ。
指先が、無意識に、先王の形見である指輪に触れていた。感情が動くと出る、彼自身も気づいていない癖だった。
しばらく庭園を見つめたあと、アウグストは、何も答えの出ないまま、自室へと戻っていった。
その夜も、引き出しの中の紙切れは、誰にも渡されることなく、静かに眠り続けていた。




