第三話 辺境へ
王都を発つ朝は、雲一つない晴天だった。
見送りに出たのは、マルタをはじめとする屋敷の使用人たちだけだった。父であるヴァルデュール公爵は、書斎の窓からちらりとこちらを見ていたが、玄関先までは出てこなかった。それでいい、とセレフィーナは思う。今の自分に必要なのは、盛大な見送りではない。
「お嬢様、道中どうかお気をつけて」
「ありがとう、マルタ。屋敷のこと、頼んだわね」
馬車に乗り込み、王都の門をくぐる。振り返らなかった。
窓の外を流れていく景色は、次第に貴族の邸宅から、畑と森へと変わっていく。三日ほどの道のりだと聞かされていた。ガタゴトと揺れる車内で、セレフィーナは膝の上のハンカチーフに、そっと指を這わせた。青い花の刺繍。誰にも見せたことのないもの――いや、一人だけ、知っている人がいる。
その人に会いに行くのだ、と思うと、強張っていた肩に、少しだけ力が抜けた。
エルダ辺境伯領に入ると、空気が変わった。
王都のように整然とした街並みではない。石造りの家々は簡素で、道には土埃が立ち、人々の服装も飾り気がない。けれど、すれ違う人々の顔には、王都の貴族たちには見られない類の生気があった。
辺境伯邸に着いたのは、夕暮れ時だった。王都の公爵邸に比べればずっと小ぶりな屋敷だが、手入れは行き届いている。
出迎えたのは、思っていたより顔色の優れない、けれど確かに見覚えのある女性だった。
「セレフィーナ」
「……叔母様」
ロザリンドは、杖を突きながらも、駆け寄るように玄関先まで出てきていた。セレフィーナの手を取り、その顔をまじまじと見つめる。
「よく来たわね」
ただ、それだけだった。
理由も、事情も、何一つ問われなかった。セレフィーナは、一瞬、言葉を失った。てっきり、婚約破棄について聞かれるものだと思っていた。慰められるか、あるいは気遣うように腫れ物扱いされるか。
けれど、ロザリンドの顔には、そのどちらもなかった。ただ、姪が来てくれたことを、純粋に喜んでいるだけの顔。
「……はい。参りました」
それだけ言った途端、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
視界が、ふいに滲んだ。堪えようとしたのに、堪えきれなかった。婚約破棄の夜も出なかった涙が、今、こんな場所で溢れそうになっている。
ロザリンドは、何も聞かなかった。ただ、セレフィーナの手を、両手でそっと包み込んだ。
温かかった。それだけで、十分だった。
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。玄関先に立ったまま、ただ手を握り合って、時間だけが静かに流れていく。
やがて、ロザリンドは、それだけで何かを察したように、小さく微笑んだ。
「そう。……立ち話も何だから、お入りなさい。あなたの好きなお茶、用意させているの」
言われて初めて気づく。出された茶葉は、セレフィーナが幼い頃から好んでいた、ほのかに花の香りのするものだった。覚えていてくれたのだ、と思うと、目の奥が微かに熱くなった。
夕食の席で、セレフィーナは初めて、ロザリンドの体調について詳しく聞かされた。
「魔力枯渇、というやつなの」
ロザリンドは、努めて軽い調子で言った。
「元々、体内の魔力循環があまり強くない質でね。若い頃から少しずつ、目減りしていくものらしいわ。医師に言わせると、根本的な治療法はないそうよ。……困ったものね」
「治療法が、ない……」
「今のところは。稀少な治癒魔法の使い手なら、あるいは、とも言われているけれど。この辺境まで来てくれるような方は、そうそういないもの」
セレフィーナは、それ以上何も言えなかった。ただ、胸の奥に、小さな痛みが残った。
「それより」
ロザリンドは、話題を変えるように、窓の外にちらりと目をやった。
「あら。あなたの部屋の前の花壇、青い花が咲いているわ」
「……え」
セレフィーナは、思わず息を呑んだ。
「どうして……」
「あら、忘れてしまった? あなた、昔から好きだったでしょう」
ロザリンドは、それが何でもないことのように、ふわりと笑った。
セレフィーナは、何も言えなかった。王都では、誰にも言ったことのないはずのことだった。母にも、婚約者にも。
「王妃教育の合間に、あなたがこっそり摘んできた花を見せてくれたこと、今でも覚えているわ。『これが好きなの』って、小さな声で」
「……あの頃は」
「あの頃も、今も、あなたは変わっていないと思うけれど」
ロザリンドは、優しくそう言った。
「ただ、隠すのが上手くなっただけ」
その言葉は、静かに、けれど確実に、セレフィーナの中の何かに触れた。目の奥が、ふいに熱くなる。
覚えていてくれた人が、いた。それだけのことが、こんなにも胸を締めつけるとは、思っていなかった。
翌日から、セレフィーナは領地の実務に目を通し始めた。
案の定というべきか、帳簿は乱れ、徴税の記録にも齟齬が見られた。ロザリンドが臥せりがちになってからの数年、誰も本格的に手を入れていなかったのだろう。
「これは……」
思わず声が漏れる。だが同時に、不思議な感覚もあった。
王都では、こうした実務能力は「王妃として当然求められるもの」として扱われてきた。褒められることはあっても、それは常に「役割を果たしている」という評価であって、彼女自身への評価ではなかった。
けれど今、この帳簿を前にした自分は、誰のためでもなく、ただ純粋に「ロザリンド叔母様の力になりたい」という気持ちだけで、ペンを取っている。
その違いが、思いのほか大きいことに、セレフィーナは気づき始めていた。
「お嬢様、こちらの書類も……」
執事のハロルドが、恐る恐る声をかけてくる。
「見せて。それと、去年の収穫記録も一緒に」
セレフィーナは、迷いなくそう答えた。指先が、久しぶりに、誰かに命じられてではなく、自分の意志で動いていた。
その夜、日課となった帳簿の整理を終え、部屋に戻る途中、セレフィーナは廊下の窓から夜空を見上げた。
王都とは違う星の見え方がした。同じ空のはずなのに、こんなにも違って見えるのは、きっと自分の中の何かが変わり始めているからだろう。
――叔母様の病を、治せる人がいたら。
ふと、そんなことを考える。今の自分には、何もできない。せめて、領地の実務を整えることくらいしか。
それでも、と思う。
誰かのための役割ではなく、自分がそうしたいからする。この感覚を、もう少し、確かめていたい。
セレフィーナは、窓辺にそっと手を触れた。遠く、王都の方角を一瞬だけ振り返り――けれど、すぐに視線を戻した。
今、自分がいるべき場所は、ここだ。




