第二話 屋敷にて
ヴァルデュール公爵邸に戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
馬車を降りたセレフィーナを、出迎えの侍女たちは何も言わずに迎えた。すでに噂は屋敷中に届いているのだろう。誰もが、痛ましいものを見るような目を、けれど決して顔には出さないように堪えていた。
「お嬢様……」
古くから仕えている侍女頭のマルタだけが、小さく声をかけた。
「大丈夫よ」
セレフィーナは、いつもと変わらぬ声でそう答え、自室へと向かった。
扉を閉めた瞬間、初めて、肩の力が抜けた。
誰も見ていない。それだけのことが、こんなにも息をしやすくするのかと、自分でも少し驚くほどだった。
部屋の中央に立ち尽くしたまま、セレフィーナはしばらく動けなかった。
窓の外には、王都の明かりが遠く見える。あの明かりの下のどこかに、王城がある。ついさっきまで、自分が生きるはずだった場所が。
――なぜ、泣かないのだろう。
自分でも、不思議だった。婚約破棄は、彼女の人生をほぼ根本から覆すはずの出来事だ。それなのに、涙どころか、動揺すらほとんど湧いてこない。
代わりに浮かんでくるのは、ひどく静かな感覚だった。
――ああ、またか。
その感覚には、覚えがあった。輪郭のはっきりしない、けれどどこか懐かしいような、古い記憶の手触り。
燭台の灯りが、ふと揺れる。
脳裏に、一瞬だけ、まったく別の光景がよぎった気がした。
誰かの、責めるような声。 ――「正しく」
それだけだった。声の主も、状況も、輪郭を結ぶ前に霧のように消えていく。まるで、覚めかけの悪い夢の切れ端のような。
セレフィーナは、目を閉じた。
――何、今の。
自分でも説明のつかない感覚だった。古い記憶のような、けれど自分のものではないような。掴もうとすると、するりと逃げていく。
深く考えるのはやめた。今はただの、気疲れのせいかもしれない。
目を開けると、王都の明かりは、変わらずそこにあった。
翌朝、セレフィーナは自ら侍女たちに指示を出し、荷造りを始めた。
「お嬢様、それは……」
「エルダ辺境伯領へ行くわ。父上には、私から話す」
迷いのない声だった。マルタは何か言いかけて、けれど結局、何も言わずに頭を下げた。
衣装棚を整理しながら、セレフィーナは淡々と手を動かし続けた。王妃教育のために揃えられた、格式高いドレスの数々。宝飾品。どれも、彼女自身が選んだものではない。すべて「王妃に相応しいもの」として、与えられたものだった。
その中に一つだけ、彼女が自分の意志で選んだものがあった。
小さな、青い花の刺繍が入ったハンカチーフ。
どこかの街で偶然目に留まり、誰にも言わずに買い求めたものだった。誰かに見せたことは一度もない。婚約者にも、家族にも。
――本当は、青い花が好きだった。
そんな些細なことすら、誰にも言えなかった。言えば「令嬢らしくない」と思われる。あるいは、「わざわざ好みを口にするなど、はしたない」と。
ヴァルデュール家に生まれた瞬間から、彼女に許されていたのは、正しくあることだけだった。
「感情的になるのは、品位を欠くことです」
母の声が、遠い記憶の底から響く。その言葉は、いつからか彼女の中で「正しさ」の物差しになっていた。
セレフィーナは、そのハンカチーフを、荷物の一番上に丁寧にしまった。
夕刻、父であるヴァルデュール公爵が、書斎に彼女を呼んだ。
「辺境へ行くというのは、本当か」
「はい」
「王家との関係を考えれば、しばらく大人しくしているのが賢明だとは思わないのか」
「思いません」
「……お前は、ヴァルデュール家の娘だ。王妃になるために育てた。それを忘れたか」
その声には、珍しく感情らしきものが滲んでいた。
セレフィーナは、静かに目を伏せた。
父は一度も、「お前はどうしたいのか」とは尋ねなかった。
「忘れておりません」
セレフィーナは、静かに答えた。
「ですが、王妃になるための娘であることと、私自身であることは、違うのだと――今は、そう思っております」
迷いのない声だった。公爵は僅かに眉を上げた。
「……お前らしくもない」
その言葉に、セレフィーナは、初めて微かに笑った。皮肉でも、令嬢の仮面でもない、ごく小さな、けれど確かな笑みだった。
「ええ。ですから、行くのです」
公爵は、それ以上何も言わなかった。娘の中で、何かが変わり始めていることに、薄々気づいていたのかもしれない。
その夜、旅支度を終えた部屋で、セレフィーナは窓辺に立ち、もう一度、王都の明かりを見つめた。
――今度こそ、間違えたくない。
何と、というわけでもない。ただ漠然と、そう思った。けれど、一つだけ、確信していることがある。
誰かのために、役割として生きることに、もう疲れた。
王妃としてでもなく、悪女としてでもなく。
ただ、自分自身として。
それがどんな人生になるのか、まだ分からない。分からないまま、セレフィーナは静かに、荷造りを終えた鞄に手をかけた。
窓の外で、王都の明かりが一つ、また一つと消えていく。
夜が明ければ、彼女はこの街を離れる。
その先に何が待っているのかは、まだ知らない。けれど、それは初めて、自分で選んだ道だった。




