第一話 婚約破棄
王宮の大広間は、幾百もの燭台の灯りで昼のように明るかった。 楽団の音色が止み、招待客たちのざわめきが波のように引いていく。誰もが、これから何が起きるのかを、なんとなく察していた。
一年後に控えた戴冠式――その慣例として、王は婚約者と共に神殿の祝福を受けることになっている。今宵の舞踏会も、本来はそのための顔合わせを兼ねた場だった。
壇上に立つ王位継承者アウグスト・ヴァイン・ラファエリスは、いつもと変わらぬ静かな声で言った。
名を呼ぶ前に、壇上の指先に、一瞬だけ力がこもった。 誰も気づかないほど、ごくわずかに。
「――セレフィーナ・ラ・ヴァルデュール」
名を呼ばれた令嬢が、招待客の中央を割るようにして進み出る。銀に近い薄紫の髪、切れ長の瞳。背筋は一分の狂いもなく伸び、その所作は完璧という言葉以外に形容のしようがなかった。
「はい、陛下」
声にも、表情にも、揺らぎはない。
アウグストは一拍置いた。それは彼にしては珍しい間だった。国政において、彼が言葉に迷うことなど滅多にない。
短く、息を吐く。
「――お前との婚約を、破棄する」
大広間が、水を打ったように静まり返った。
誰も声を上げない。上げられない。国王代理が、正式な場で自ら宣言したのだ。取り消しようのない、公的な意思として。
招待客たちのざわめきの底に、別の動揺が混じり始める。一年後に迫った戴冠式――その日までに、新たな婚約者を立てられるのか。誰もが、口には出さず、その一点を案じていた。
「理由を、お聞かせいただけますか」
セレフィーナの声は、変わらず静かだった。まるで天気の話でも尋ねるような調子で。
「理由は――お前を、これ以上縛ることができない、というだけだ」
アウグストは淡々と続けた。
「王妃となれば、この先も一生、多くのものを背負わせることになる。国のため、民のため、ヴァルデュール家のため。……お前には、もっと穏やかな人生がある」
嘘ではなかった。少なくとも、彼の中では。 この数ヶ月、彼女についての噂は絶えなかった。下級貴族への辛辣な処断。感情を見せない冷たさ。民衆への無関心――そのひとつひとつが、本当かどうかを、彼は確かめなかった。確かめる必要すらない、と思っていた。
なぜなら、彼はこう考えていたからだ。
――彼女なら、これくらいの重圧には耐えられる。だからこそ、これ以上背負わせてはいけない。
それは信頼のようで、実際にはただの怠慢だった。彼女の強さに寄りかかり、彼女の本音を聞く手間を、彼は最初から放棄していたのだ。 自分はいま、彼女を救っている――アウグストは、本気でそう思っていた。
セレフィーナは、しばらく黙っていた。
招待客たちが固唾を呑んで見守る中、彼女はやがて――笑った。
完璧な、令嬢の微笑みだった。
「承知いたしました、陛下」
深く一礼し、それだけを告げる。涙も、抗議も、弁明もない。
アウグストは、その笑みに、微かな違和感を覚えた。 なぜ、泣かない。
婚約破棄とは、貴族の令嬢にとって人生を左右する出来事だ。今後の縁談にも、家の名誉にも関わる。泣いてもいい。取り乱してもいい。それが普通だ。
だが彼女は、まるで――最初からこうなることを、知っていたかのように。
顔を上げたセレフィーナと、一瞬だけ視線が交わった。 その瞳の奥に何があったのか、アウグストには読み取れなかった。読み取ろうとする前に、彼女はもう踵を返していた。
完璧な所作で、大広間を去っていく後ろ姿を、アウグストはただ見送ることしかできなかった。
舞踏会が終わり、人けのなくなった回廊を歩きながら、側近のレナードが口を開いた。
「殿下」
「なんだ」
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
アウグストは足を止めなかった。
「言え」
「あの令嬢は――本当に、悪女だったのでしょうか」
その問いに、アウグストの足が、初めて止まった。
沈黙が落ちる。回廊の窓から差し込む月明かりが、彼の横顔を照らしていた。
「……いや」
ようやく絞り出したのは、それだけだった。
「彼女ほど、王妃に相応しい女性はいなかった」
レナードは、驚いたように主君を見た。
「では――なぜ」
アウグストは、答えなかった。 答えられなかった。
レナードは、しばらく黙って主君の横顔を見つめていたが、やがて、独り言のように呟いた。
「……殿下は、王妃を失ったのではなく」
「婚約者を、失ったのです」
その言葉の意味を、アウグストはまだ理解していなかった。
彼の中で、「王妃に相応しい」ということと、「幸せになれる」ということは、いつからか、まったく別の場所に置かれていた。
彼女を手放したのは、彼女が相応しくないからではない。 むしろ逆だ。相応しすぎるがゆえに、この先も一生、こういう重圧を背負わせ続けることになる――そう、彼が勝手に判断したからだった。
彼女に、何が欲しいかを、一度も尋ねないままに。
レナードは、それ以上何も言わなかった。ただ、主君の横顔に浮かぶ、答えの出ない表情を、黙って見つめていた。
月明かりの下、王城の回廊には、二人分の足音だけが、いつまでも響いていた。




