第九話 誰も愛さないと決めた日
帳簿の整理も、ようやく一段落した頃だった。
セレフィーナは、執務の合間、中庭のベンチに腰を下ろし、久しぶりに何もしない時間を過ごしていた。風が、季節の変わり目の匂いを運んでくる。
ふと、視界の端に、青い花が咲いているのが見えた。
誰かが植えたものではない。野に咲く、名もない花だった。それでも、その色に、指先が自然と伸びる。
――本当は、青い花が好き。
昔、誰にともなく零した言葉が、遠く記憶の底から蘇る。
あの言葉を、誰かに教えたことがあっただろうか。ロザリンドには、いつだったか、こっそり話した気がする。それ以外には――誰にも。
言えなかった。言うことが、はしたないことのように思えたから。
花に手を伸ばした瞬間、燭台もないのに、視界がふっと暗くなったような感覚があった。
夜会の広間。詰め寄る人々の輪。
誰かの、責めるような声。
「君は、僕を"正しく躾ける対象"としか見ていなかっただろう」
声の主の顔が、ようやく像を結ぶ。青年だった。まだ幼さの残る、けれど確かに傷ついた表情。名は――ユリシス。
思い出す。あれは、前世の婚約者だった。
彼が他の令嬢と親しげに話している。胸が苦しかった。それが嫉妬だと、知らなかった。
「婚約者として、もう少し慎みを」
そう叱った。それが正しいことだと、信じていた。
「……分かった」
彼はそれきり、笑わなくなった。
それでも、自分は気づかなかった。令嬢として、正しく指導していると、そう思い込んでいた。
――君は、僕を"正しく躾ける対象"としか見ていなかっただろう。
その言葉を聞いた時、初めて気づいた。自分は彼を、嫌っていたのではない。好きだったのに、好きの示し方を知らなかっただけだった。
だが、気づいた時にはもう遅かった。弁明の言葉すら、自分の中の規範に阻まれて、出てこなかった。
断罪され、追放され、辺境で一人、朽ちていった。死の間際、初めて素の感情で「好きだった」と、誰にも届かない言葉を零したことだけは、今でも覚えている。
――もう二度と、誰かを、あんな風に傷つけたくない。
それが、今世の自分を作った、最初の願いだった。
好きにならなければ、間違えようがない。
だから、最初から誰にも本音を見せない。誰も愛さない。それが、自分にできる、唯一の贖罪だと思っていた。
風が吹いて、青い花が揺れる。
セレフィーナは、静かに目を開けた。前世の記憶は、いつもこうして、唐突に訪れては、静かに引いていく。
――だが、今世は。
今世の自分は、少しずつ、変わり始めている。ロザリンドの前でだけは、素を見せられた。この辺境に来てからは、役割を演じることに、以前ほど疲れなくなった。
それでも、まだ怖い。
誰かを好きになることが、また同じ結末を招くのではないか、という恐れが、心の奥底に、消えずに残っていた。
「セレフィーナ嬢」
声をかけられ、振り向くと、グレアムが庭を横切ってくるところだった。
「叔母様は、お加減いかがですか」
「今日は、調子が良いようだ。……あなたのおかげで、随分と気が楽になったと言っていた」
グレアムは、そう言って、少し照れくさそうに笑った。
「実を言うと、私は昔から、あれの機嫌が良いか悪いかしか、気にしていなくてね。政略結婚だったが、気づけば、あれの笑った顔が見たくて仕方がなくなっていた」
「……グレアム様が、ですか」
「意外か? 辺境伯として見れば、私は不出来な男だ。政に疎いし、留守も多い。だが、ロザリンドにとって、辺境伯夫人としてではなく、ただのグレアムでいられる時間があるなら、それでいいと思っている」
その言葉に、セレフィーナは、しばらく何も言えなかった。
辺境伯夫人としてではなく、ただのロザリンドとして。
王妃としてではなく、ただのセレフィーナとして――そんな風に見てくれる人が、自分にもいるのだろうか。
それは、今まで一度も、考えたことのない問いだった。
その夜、部屋に戻ったセレフィーナは、窓辺の小さな鉢に活けた、青い花を見つめていた。
昼間、庭で摘んできたものだった。誰に見せるためでもない。ただ、自分がそうしたいと思ったから、活けた。
――ああ、こういう愛もあるのか。
グレアムの言葉が、静かに胸に残っていた。役割としてではなく、ただその人自身として、大切にされる。そんな関係が、この世には確かに存在するのだと、初めて実感を伴って知った。
だが、それを自分が得られるかどうかは、まだ分からない。
前世で壊してしまったものの重さは、今も消えていない。誰かを好きになることへの恐れも、消えていない。
セレフィーナは、青い花にそっと触れ、静かに目を閉じた。
いつか、自分にも、そんな関係が訪れるのだろうか。
その答えは、まだ、どこにもなかった。




