第十話 近すぎる
辺境への再訪に、今回は理由らしい理由もなかった。
「国境の視察は、先月終えたばかりでは」
レナードにそう指摘され、アウグストは、僅かに言葉に詰まった。
「……確認しておきたいことがある」
「何を、でございましょう」
「……行けば分かる」
自分でも、何を確認したいのか、はっきりとは分かっていなかった。ただ、行かなければならない、という感覚だけが、確かにあった。
辺境伯邸に着くと、中庭で、セレフィーナとグレアムが並んで歩いているのが見えた。
書類か何かの話をしているのだろう。セレフィーナが何か言うと、グレアムが大きく笑い、彼女もつられるように小さく笑う。
アウグストは、足を止めた。
近い、と思った。
距離としては、決して近すぎるわけではない。だが、その間にある空気に、隔たりがなかった。
「セレフィーナ嬢、本当に助かっている。ありがとう」
グレアムの声が、風に乗って届く。
「いいえ。私も、こちらでの日々に、随分と救われておりますから」
セレフィーナが、微笑んでそう答える。
その瞬間、アウグストの胸の奥に、鋭い痛みが走った。
――近すぎる。
思わず、そう思った。だが、なぜそう思ったのか、自分でも説明がつかなかった。二人の距離は、家族としてごく自然なものだ。それは、頭では分かっている。
分かっているのに、胸の奥が、焦げつくように痛んだ。
グレアムが、話の途中で、セレフィーナの肩に、ごく自然に手を置いた。
「いつも無理をさせて、すまないな」
「……いいえ」
その光景を見た瞬間、アウグストの内側で、何かが強く反応した。
(……触るな。)
言葉になる前に、そう思っていた自分に、アウグストは、誰よりも自分自身が驚いた。
なぜ、そんなことを思うのか。グレアムは、彼女の叔父にあたる人物だ。他意などあるはずもない。それは分かっている。分かっているはずなのに、身体の奥から込み上げてくる感覚を、抑えられなかった。
拳を、無意識に握りしめていた。
その日の夕刻、視察に同行していた兵士の一人が、何気ない調子で言った。
「辺境伯様とセレフィーナ様、本当に良いご関係ですね。まるで、本物の親子か……いや、お似合いのご夫婦のようで」
その一言に、アウグストは、考えるより先に口を開いていた。
「違う」
思っていたよりも、強い声だった。兵士は、驚いたように口をつぐんだ。
「……失礼いたしました」
「いや」
アウグストは、そう言って、視線を逸らした。
――何が、違うと言うんだ。
自分の言葉に、自分で戸惑っていた。夫婦のようだと言われたことが、なぜ、こんなにも即座に否定したくなるものだったのか。理由を探そうとしても、うまく言葉にならなかった。
その夜、辺境伯邸の一室で、アウグストは一人、窓辺に立っていた。
昼間の光景が、何度も頭の中で繰り返される。グレアムの気安い態度。肩に置かれた手。そのたびに込み上げる、焦げつくような感覚。
――なぜ、あんな反応をしたのだろう。
考えれば考えるほど、輪郭がはっきりしてくる。これまで、答えの出ないままにしていた問いが、ようやく一つの形を結び始めていた。
彼女が、誰かに笑いかけるのが、嫌だった。 彼女が、誰かに触れられるのが、嫌だった。 彼女が、自分以外の誰かのものになるかもしれないと思うだけで、胸が締めつけられた。
アウグストは、しばらく、その感覚をただ見つめていた。
――私は。
窓の外、月明かりの下に広がる庭を見下ろしながら、アウグストは、ようやくその言葉を、自分の中で形にした。
私は、彼女を、誰にも渡したくないのか。
その瞬間、これまで名前のつけようがなかった感覚に、ようやく一つの名前が与えられた。
――これが、恋、というものか。
国政において、これほど単純な事実に気づくのに、これほど長い時間がかかったことは、一度もなかった。
アウグストは、月明かりに照らされた庭を、いつまでも見下ろしていた。
翌朝、朝食の席に、セレフィーナが顔を出した。
「陛下も、こちらにいらしていたのですね」
普段通りの、令嬢らしい所作。それだけのことに、アウグストは、なぜか声が出なかった。
「……ああ」
短く、それだけを答える。それ以上、何も続かなかった。
セレフィーナが、不思議そうに小首を傾げる。
「陛下?」
「……何でもない」
視線を、思わず逸らした。逸らしてから、なぜ逸らしたのか、自分でも分からなくなった。
昨夜まで、彼女の顔を、何度も思い浮かべていたはずだった。それなのに、いざ本人を前にすると、まともに顔を見ることすらできない。
朝食のあと、廊下ですれ違った際、セレフィーナが手にしていた書類を、ふと落としかけた。
アウグストは、反射的に手を伸ばし、それを支えた。
指先が、一瞬、触れた。
たったそれだけのことに、アウグストの全身が、瞬時に強張った。
「……ありがとうございます」
「……いや」
声が、僅かに掠れていた。セレフィーナが書類を受け取り、静かに一礼して去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、アウグストは、自分の耳が、驚くほど熱くなっていることに気づいた。
――なぜ、こんなことで。
昨日までは、こんなことにはならなかったはずだった。ただ書類を支えただけだ。指先が、ほんの一瞬触れただけだ。それだけのことで、心臓が、これほどまでに騒がしくなるとは、思ってもみなかった。
国境の防衛線を巡る交渉でも、これほど動揺したことはない。
アウグストは、廊下の壁に軽く手をつき、しばらくの間、自分の乱れた呼吸を整えることに専念しなければならなかった。
――厄介だ。
本気で、そう思った。
だが、不思議なことに。
その感情を、手放したいとは、少しも思わなかった。
その日の昼下がり、セレフィーナは、帳簿の整理をする手を止め、ふと窓の外に目をやった。
中庭を歩くアウグストの後ろ姿が見える。心なしか、いつもより歩調が速い。朝食の席でも、廊下でも、どこか様子がおかしかった。
(陛下、今日は少し……様子が変かしら)
訝しみながらも、セレフィーナは、それ以上深くは考えなかった。
きっと、王としての気遣いなのだろう。婚約破棄の負い目から、必要以上に距離を測りかねているだけに違いない――そう結論づけて、セレフィーナは、再び帳簿へと視線を戻した。
窓の外で、アウグストが、こちらをちらりと見て、慌てたように視線を逸らしたことには、まったく気づかないまま。




