第十一話 問い
夕刻、視察の名目もすべて終えたあと、アウグストは、まだ辺境を発たずにいた。
「陛下、そろそろ日も暮れます。お発ちにならないのですか」
レナードに問われ、アウグストは、しばらく黙っていた。
「……もう少しだけ」
「何を、お待ちに」
その問いに、アウグストは答えられなかった。答えは、自分でも分かっている。だが、言葉にする勇気が、まだなかった。
中庭で、一人、書類を片付けているセレフィーナを見つけたのは、日が傾き始めた頃だった。
声をかけようとして、アウグストは、何度も足を止めた。
何を言えばいいのか、分からなかった。国政においては、どれほど複雑な交渉でも、言葉に迷ったことなどなかった。だが今、目の前にいるたった一人の女性に、何を話せばいいのか、まるで見当がつかなかった。
結局、何も考えがまとまらないまま、アウグストは、彼女の前に立っていた。
「……セレフィーナ」
名を呼ばれ、セレフィーナが顔を上げる。
「陛下。まだ、こちらに?」
「……ああ」
それきり、言葉が続かなかった。
セレフィーナは、警戒するように、僅かに目を細めた。
「何か、御用でしょうか」
「……いや」
用件があって来たわけではない。だが、そう答えることが、どれほど間の抜けたことか、アウグスト自身、分かっていた。
沈黙が落ちる。
セレフィーナは、それ以上何も言わず、静かにアウグストの返答を待っていた。
これまでの自分なら、こういう時、何かを差し出していただろう。地位を。安全を。彼女にふさわしいと信じるものを。
だが今、アウグストの手には、何もなかった。
贈るべき言葉も、差し出すべき理由も、何一つ用意していなかった。ただ、会いたかった。それだけで、ここまで来た。
その事実に、アウグストは、今更ながら気づいていた。
――謝るべきなのだろう。
これまでの非礼を、判断の誤りを、彼女を傷つけたことを。だが、いざその言葉を口にしようとすると、驚くほど陳腐に響く気がした。「すまなかった」の一言で片付けられるほど、自分がしたことは軽くない。
だからといって、何も言わずにいることも、できなかった。
アウグストは、深く息を吸った。
「セレフィーナ」
「……はい」
「君は……」
声が、僅かに震えた。国王代理として、これまで一度も見せたことのない類の動揺だった。
「君は、これから、何がしたい。何を、望んでいる」
その問いを口にした瞬間、アウグストは、自分でも驚いていた。
これまで一度も、彼女に尋ねたことのなかった言葉だった。
セレフィーナは、しばらくの間、何も答えなかった。
驚いたように、アウグストを見つめている。まるで、初めて聞く言語で話しかけられたかのような、そんな表情だった。
当然だ、とアウグストは思う。この五年間、一度たりとも、こんな問いを彼女に向けたことはなかったのだから。
「……なぜ、今更、そのようなことを」
セレフィーナの声は、静かだったが、どこか硬かった。
「私に、何を望んでいるかなど、これまで一度も、お尋ねになったことはございませんでした」
「……そうだな」
アウグストは、それを否定しなかった。否定できなかった。
「今、聞いている」
「……」
セレフィーナは、視線を落とし、何かを考え込むように、しばらく黙っていた。
答えは、すぐには出てこなかった。それも当然だった。長い間、自分の望みというものを、彼女自身、考えることを許されてこなかったのだから。
夕日が、二人の影を、長く地面に伸ばしていた。
セレフィーナは、結局、その日、答えを口にしなかった。
ただ、静かに、こう言っただけだった。
「……少し、考えさせてください」
「……ああ」
アウグストは、それ以上、何も求めなかった。
初めて、彼女に問いを向けられただけで、十分だった。答えは、まだ、出なくていい。
夕焼けに染まる中庭で、二人は、しばらくの間、何も言わずに、ただそこに立っていた。




