第十二話 選ぶということ
「君は、これから、何がしたい。何を、望んでいる」
あの問いが、耳の奥に、ずっと居座っていた。
アウグストが辺境を発ってから、三日が経つ。その間、セレフィーナは、いつも通りに帳簿と向き合い、いつも通りにロザリンドと語らい、いつも通りに過ごしていた。
それなのに、ふとした瞬間、あの問いが、静かに胸の中に戻ってくる。
――何を、望んでいるか。
考えたことが、なかった。
いや、正確には――考えることを、自分に許してこなかった。
「セレフィーナ、また難しい顔をしているわね」
夕食の席で、ロザリンドが、からかうように言った。
「……分かりますか」
「あなたのことなら、いくらでも分かるわ。何年、あなたを見てきたと思っているの」
セレフィーナは、少し迷ってから、口を開いた。
「叔母様。……もし、望みを聞かれたら、叔母様は、どう答えますか」
「望み?」
「何が欲しいか、何がしたいか。……そう問われたら」
ロザリンドは、少し驚いたように瞬きをした。それから、優しく笑った。
「簡単よ。グレアムに、笑っていてほしい。それだけ」
「……それだけ、ですか」
「ええ。地位も、財産も、名誉も、私にはどうでもいいことだったの。ただ、あの人が、私といて笑っていてくれるなら、それで十分だった」
あまりにも、単純な答えだった。だが、その単純さの中に、迷いが一切ないことに、セレフィーナは気づいた。
自分には、そんな風に、即座に答えられる望みなど、あっただろうか。
その夜、セレフィーナは、窓辺の鉢に活けた青い花を見つめながら、一人、考え続けていた。
前世の自分は、望みを口にできなかった。望むこと自体が、はしたないことだと教えられて育った。
今世の自分も、同じだった。王妃教育の合間に、こっそり摘んだ花を見せる以外、誰にも本音を明かせなかった。
――望んでいいのだろうか。
その問い自体が、まだ、どこか怖かった。
望めば、また同じことが起きるかもしれない。誰かを好きになり、その好きの示し方を間違えて、また何かを壊してしまうかもしれない。
だが。
セレフィーナは、青い花に、そっと指を触れた。
この花を、誰かに見せるためではなく、自分のために活けた。あの時感じた、小さな解放感を思い出す。
役割としてではなく、自分自身として生きること。それを、この辺境で、少しずつ、学んできたはずだった。
ならば――望みを口にすることも、その延長にあるのではないか。
翌朝、セレフィーナは、帳簿の整理をする手を止め、しばらくの間、ぼんやりと庭を眺めていた。
アウグストの顔を思い浮かべる。かつて、彼が差し出してきたもの――ドレス、宝飾品、地位、安全な未来。そのどれもが、彼女自身が望んだものではなかった。
それなのに、あの日、彼は初めて、何も持たずに、ただ問いだけを差し出した。
君は、何を望んでいる、と。
その問い自体が、これまでの彼とは違う何かだったことに、セレフィーナは、今更ながら気づいていた。
――もし、私が。
もし、自分が、本当に望むことを口にしたら。
それを受け止めてくれる人が、本当にいるのだろうか。
前世のように、また拒絶されるのではないか。今世のように、また役割として扱われるのではないか。
その恐れは、まだ、完全には消えていなかった。
だが。
グレアムがロザリンドに向ける眼差しを、セレフィーナは、この目で見てきた。役割ではなく、その人自身を見つめる眼差しを。
あんな風に、自分を見てくれる人が、本当にいるのだとしたら。
誰かに、自分を見せてみたいと、セレフィーナは、初めて、そう思った。
その日の午後、セレフィーナは、ハロルドに一通の手紙を託した。
王都へ、アウグスト宛てに。
中身は、短い一文だけだった。
――もう一度だけ、お話しさせてください。
それだけの言葉を書くのに、セレフィーナは、思っていたよりもずっと長い時間を、机に向かって過ごした。
望みを口にすることは、まだ、怖い。
それでも、この一歩だけは、自分の意志で踏み出したいと、セレフィーナは、そう決めていた。




