第5章 嘘で作った「被害者」
病院を飛び出した健太郎は、近くの喫茶店に入った。
手が震えていた。
怒りで。
――あいつらはおかしい。
何度考えても、それ以外の結論にはならなかった。
妻も。
娘も。
桜井夫婦に取り込まれた。
佐藤家もそうだ。
弱い人間は、強く責められるとすぐに自分が悪いと思い込む。
だが。
自分だけは違う。
「俺が正しい」
口に出す。
少し落ち着いた。
スマートフォンを取り出す。
自分一人では伝わらないなら。
もっと多くの人間に判断してもらえばいい。
世間なら分かる。
第三者なら。
公平な人間なら。
必ず自分の正しさを理解するはずだ。
SNSを開く。
文章を打つ。
『拡散希望です。
16歳の娘が交通事故を起こしました。しかし事故直後から被害者を名乗る夫婦に激しく威圧され、娘は精神的に追い詰められています。
相手は高額な賠償まで要求しており、妻まで相手側の話を信じ込んでしまいました。
未成年の娘を守ろうとしているだけなのに、なぜ父親である私が責められるのでしょうか。
同じような被害に遭った方、力を貸してください。』
読み返す。
完璧だ。
嘘ではない。
少し表現を整理しただけだ。
健太郎はそう思った。
投稿。
数分後。
反応がつき始めた。
『大変でしたね』
『娘さんかわいそう』
「ほら見ろ」
健太郎は笑った。
世間は分かっている。
病院にいた連中がおかしかっただけなのだ。
調子に乗った健太郎はさらに投稿した。
事故現場の地域。
相手の年齢。
家族構成。
事故後のやり取り。
自分が「強要にあたる可能性」を指摘したこと。
そして。
『被害者側が事故を利用して金銭を得ようとしている可能性すら感じています』
送信。
これで終わりだ。
世論が味方になれば。
桜井夫婦も頭を下げるしかない。
◆ ◆ ◆
そのまま健太郎は、事前に調べていた法律事務所へ向かった。
「つまり」
応接室。
初老の弁護士が、資料を見ながら言った。
「事故について、相手方にも責任があると主張したいということですね」
「そうです」
健太郎は胸を張った。
「それだけじゃありません。娘は事故直後、相手の女に怒鳴られてるんです」
「救急車を呼ぶよう求められた」
「威圧的に、です」
弁護士は眼鏡を外した。
「毒島さん」
「はい」
「警察の記録や現場映像などは確認されていますか」
「警察は形式的なことしか見ませんから」
「……」
「私は当事者として本質を話しているんです」
弁護士はしばらく黙った。
その後。
机の上の資料を閉じた。
「当事務所でお引き受けすることは難しいです」
健太郎は耳を疑った。
「……は?」
「少なくとも、今伺った内容と確認可能な客観資料を前提にする限り、あなたがお考えのような主張をこちらから積極的に構成することは困難です」
「何を言ってるんです?」
「あなたのお話を客観的に整理すると、原付が歩道へ進入し、歩行者に怪我を負わせた。被害者は幼児を庇った。事故直後に救急車を求めた」
弁護士は淡々としている。
「それを根拠に、相手方を犯罪者同然に扱うのは非常に危険です」
「でも娘は傷ついてる!」
「事故を起こした本人が精神的なショックを受けることと、相手が違法行為をしたことは別問題です」
健太郎の顔が引きつる。
「あなたまで向こうの味方なんですか」
「味方の話ではありません」
弁護士は机に置かれたスマートフォンを見る。
「それから、先ほど見せていただいたSNS投稿」
「ええ」
「削除された方がいいでしょう」
「なぜです」
「相手方を特定できる情報を含め、事実と異なる印象を与える内容を広く発信しています」
「事実です!」
「そう判断するのはあなたですが」
弁護士の表情は変わらない。
「公に発信した内容については、あなた自身が責任を問われる可能性があります」
健太郎は立ち上がった。
「もう結構です」
鞄を掴む。
「使えない弁護士だ」
弁護士は何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
事務所を出る。
スマートフォンを見る。
通知が大量に来ていた。
健太郎は笑った。
――ほらな。
炎上という言葉は知っている。
だが今回は、自分を応援する声が集まっているのだろう。
画面を開く。
笑顔が消えた。
『これ、○○市の事故じゃない?』
『現場を通りかかった車のドラレコ映像が回ってる』
『歩道に原付突っ込んでるやつ?』
『母親、子供庇ってるじゃん』
『当たり屋要素どこ?』
指が止まる。
次々と通知が増える。
『運転してた女子高生スマホ持ってるように見える』
『「救急車呼んで」が脅迫になるわけないだろ』
『投稿者、事故の相手をネットで晒そうとしてない?』
「違う……」
スクロールする。
投稿の過去履歴から。
勤務先につながる情報まで掘り返され始めていた。
健太郎自身が以前、会社の役職や取引先との会食について何度も書いていたからだ。
『この人、○○商事勤務って自分で書いてる』
『会社名出して仕事の愚痴書きまくってるのもヤバい』
「やめろ……」
震える指で投稿を削除する。
遅かった。
スクリーンショット。
引用。
転載。
既にいくつも残っている。
電話が鳴った。
会社。
人事部だった。
「はい……」
『毒島さん』
聞いたことがないほど硬い声。
『SNSの件、説明してください』
「違うんです。あれは家庭の問題で――」
『弊社の名称が第三者によって大量に拡散されています』
「私は会社名を書いてません!」
『あなた自身の過去の投稿に勤務先が記載されています』
「それを掘り返した連中が悪いでしょう!」
電話の向こうで沈黙。
『現在、会社にも問い合わせが来ています』
「だから、それは私への嫌がらせで――」
『本日以降、当面出社しないでください』
「……は?」
『事実確認が必要です。正式な指示については改めて連絡します』
「待ってください!」
『毒島さん』
声が低くなる。
『これ以上、SNSには何も投稿しないでください』
電話が切れた。
健太郎は立ち尽くした。
「なんだよ……」
誰も答えない。
「なんで俺が……」
道行く人が、ちらりとこちらを見る。
「俺は家族を守っただけだろ……」
声が大きくなる。
「俺は何も悪いことしてないだろ!」
通行人は足を速めた。
◆ ◆ ◆
夕方。
自宅へ戻る。
玄関が暗い。
「佳代」
返事がない。
「莉奈?」
靴を脱ぐ。
リビング。
誰もいない。
寝室。
クローゼットを開ける。
佳代の服が減っていた。
莉奈の部屋。
机の上は整理され、大切にしていたぬいぐるみも消えている。
「おい……」
ダイニングへ戻った。
テーブルの上。
封筒。
そして。
一枚の紙。
健太郎は近づいた。
文字を読む。
『離婚届』
息が止まった。
その隣には。
佳代からの短い手紙があった。
『莉奈と家を出ます。
今後の連絡は代理人を通してください。
これ以上、莉奈に直接連絡しないでください。
私はもう、あなたの言う「家族のため」という言葉を信じません。』
「……」
紙を握る。
「ふざけるな……」
力が入る。
「俺が……」
膝から崩れた。
「俺が全部守ってやったのに……」
誰も。
返事をしなかった。




