第4章 「本当のクズね」――最も近くにいた人間の反撃
三度目の話し合い。
面会室の空気は、最初から張り詰めていた。
健太郎は資料を並べながら言った。
「佐藤家は早々に折れたようですが、うちは違います」
大地の表情が硬くなる。
「折れたんじゃありません。責任を認めただけでしょう」
「同じことですよ」
健太郎は笑った。
「交渉で先に非を認めるなんて愚の骨頂だ」
その時だった。
「……もうやめて」
小さな声。
全員が振り向く。
佳代さんだった。
「何だ?」
健太郎が言う。
佳代さんは両手を膝の上で握っていた。
「もうやめてください」
「今、大事な話をしてるんだ。口を挟むな」
「いい加減にしなさい!」
突然。
鋭い声が部屋に響いた。
私まで肩を震わせるほどだった。
健太郎は口を開けたまま固まる。
「か、佳代?」
佳代さんは立ち上がった。
震えていた。
でも。
怯えているのではなかった。
怒っていた。
「何が交渉よ」
「お前――」
「何が家族を守るよ!」
健太郎が目を見開く。
「自分の娘が人を轢いたのよ!」
「だからそれは――」
「五歳の子を守ったお母さんに大怪我を負わせたの!」
一言ごとに。
何年分もの感情を吐き出しているようだった。
「それなのに謝りもしない。相手の言葉尻を捕まえて、こっちも被害者だって?」
「法的にこちらにも――」
「あなた法律家なの?」
「……何?」
「都合のいい言葉をネットで拾ってきただけでしょう!」
健太郎の顔が赤くなる。
「佳代!」
「強要罪?」
佳代さんは一歩近づいた。
「PTSD?」
さらに一歩。
「事故で倒れて動けない人が『救急車を呼んで』って頼むことと、あなたが毎日のように家族を怒鳴りつけることと、どっちが人を追い詰めてるのよ!」
健太郎の口が止まる。
「お前……夫に向かって……!」
「今、私に怒鳴られて怖い?」
佳代さんが言った。
「は?」
「心に傷がついた?」
「何を――」
「だったら私にも慰謝料を請求すれば?」
沈黙。
佳代さんは吐き捨てるように言った。
「本当のクズね」
健太郎の顔から表情が消えた。
その一言が。
何よりも効いたのだと分かった。
「……今、何て言った?」
「あなたは」
佳代さんは、一語ずつ言った。
「自分が一番大切なだけ」
「俺は家族のために――」
「違う!」
今度は。
別の声だった。
莉奈ちゃんが立ち上がっていた。
泣いていた。
「もうやめてよ、お父さん!」
「莉奈……?」
「私が悪いの!」
しゃくり上げる。
「私がスマホ見たから!」
「お前は子供だから分からないだけで――」
「分かってるよ!」
莉奈ちゃんが叫ぶ。
「私が運転してたの!」
涙が次々とこぼれる。
「葵とふざけて、スマホ見て、ちゃんと前を見なかった! ブレーキも間に合わなかった!」
私は思わず息を止めた。
莉奈ちゃんが初めて。
事故の日のことを、自分の言葉で語っている。
「あの人が子供を庇ったの、見たもん!」
私を見る。
「私……」
声が震える。
「桜井さんが倒れてるのに、怖くて何もできなくて……」
両手で顔を覆う。
「救急車呼んでって言われて……私、当然だったのに……」
「莉奈」
「お父さんが勝手に『怒鳴られたから傷ついたんだ』って!」
「実際お前は眠れてないだろ!」
「事故を起こしたからだよ!」
健太郎が黙った。
「桜井さんに怒鳴られたからじゃない!」
莉奈ちゃんは泣きながら叫んだ。
「人を轢いたから怖いの! 自分がしたことが怖いの!」
それは。
健太郎が作り上げた物語を。
当事者である娘自身が壊した瞬間だった。
「私……謝りたかった」
莉奈ちゃんが私を見る。
「でも、お父さんが何も言うなって……」
そのまま深く頭を下げた。
「ごめんなさい……!」
嗚咽が混じる。
「本当に、ごめんなさい……!」
胸が詰まった。
事故を許せるかと言われれば、簡単ではない。
私は怪我をした。
結愛だって、今も大きなエンジン音に怯えることがある。
でも。
この子が今。
何から逃げずに頭を下げていることだけは分かった。
「顔を上げて」
私は言った。
莉奈ちゃんがゆっくり顔を上げる。
「事故については、きちんと責任を取ってほしい」
「……はい」
「でも」
私は少しだけ息を吸った。
「今、自分の言葉で謝ってくれたことは受け取ります」
莉奈ちゃんは唇を噛み。
もう一度、深く頭を下げた。
その隣で。
佳代さんも頭を下げた。
「桜井さん」
「はい」
「本当に申し訳ありませんでした」
長い。
深い。
謝罪だった。
「娘の事故については、私も親として責任を持って対応します。今後は代理人にも相談して、適切な形でお話を進めさせてください」
一度、健太郎を見る。
「夫とは離婚を前提に話し合います」
「……は?」
初めて。
健太郎の顔に、本物の動揺が浮かんだ。
「何を言ってるんだ」
佳代さんは答えない。
「佳代」
「……」
「莉奈!」
娘も顔を背ける。
「お前ら……」
健太郎の顔が引きつる。
「俺を裏切るのか?」
誰も答えなかった。
「俺はお前らを守ってやったんだぞ!」
その言葉に。
莉奈ちゃんが小さく言った。
「守ってないよ」
「……」
「お父さんが、全部ひどくしたんだよ」
健太郎は周囲を見回した。
私。
大地。
佳代さん。
莉奈ちゃん。
誰一人。
自分を肯定してくれる者がいない。
「ふざけるな……」
立ち上がる。
椅子が大きな音を立てて倒れた。
「俺は悪くない!」
誰も動かなかった。
「俺は被害者なんだぞ!」
その言葉だけを残し。
健太郎は部屋を飛び出していった。
荒々しい足音が遠ざかる。
静寂。
私は倒れた椅子を見つめた。
あの男は。
本当に分かっていないのだ。
皆が自分から離れていく理由を。
それすらも。
きっと誰かのせいにする。
そして残念ながら。
私の予想は当たった。




