第3章 勝ち誇る男が気づかなかったもの
病院の駐車場へ向かいながら、健太郎は上機嫌だった。
「見たか?」
後ろを歩く妻と娘に振り返る。
「完全にこっちのペースだっただろ」
佳代は返事をしない。
莉奈も黙っていた。
「強く出ればあんなものなんだよ」
健太郎は構わず続けた。
「世の中、結局は声の大きい方が勝つ。向こうも最初は被害者面していたが、こちらにも請求権があると分かれば勝手なことは言えない」
「……」
「莉奈」
「……何」
「安心しろ」
娘の肩を叩く。
莉奈は一瞬、体を強張らせた。
健太郎は気づかなかった。
「お前には父さんがついてる。全部守ってやる」
莉奈は答えなかった。
――まだ事故のショックが抜けていない。
健太郎はそう解釈した。
自分の言うことに間違いなどないのだから。
◆ ◆ ◆
その日の午後。
私たちの病室には、別の家族が訪れていた。
「本当に……申し訳ありませんでした」
男性が深く頭を下げる。
隣の女性も、同じように頭を下げていた。
事故の時、莉奈ちゃんの後ろに乗っていた少女。
佐藤葵ちゃんの両親だった。
原付自体は佐藤家のものだったという。
「どうか、頭を上げてください」
大地が言った。
「いえ」
葵ちゃんのお父さんは首を振った。
「娘にも重大な責任があります。二人乗りを止めなかった。原付を貸した。その結果、桜井さんとお子さんを危険な目に遭わせた」
隣で母親が目元を押さえる。
「娘も……毎日泣いています」
「葵ちゃんは?」
私が尋ねる。
「今日は来られませんでした」
父親が苦しそうに言った。
「謝りたいとは言っています。でも、桜井さんを見るのが怖いのではなく……自分がしてしまったことを直視するのが怖いようで」
その言葉には、逃げようとしている響きがなかった。
むしろ。
自分たちの責任から目を逸らさないため、必死に言葉を選んでいるように見えた。
「毒島さんとは?」
大地が尋ねた。
佐藤さん夫妻は顔を見合わせる。
やがて父親が答えた。
「別々に対応させていただくことにしました」
「何かあったんですか?」
「……何度か連絡がありまして」
言いにくそうだった。
「『こちらにも落ち度があるように話を持っていこう』『二家族で足並みを揃えれば相手も折れる』と」
私は息を呑んだ。
大地が額を押さえる。
「やっぱりか……」
「我が家は断りました」
佐藤さんのお父さんはきっぱりと言った。
「娘を守りたい気持ちはあります。でも、娘がしたことまで無かったことにはできません」
その言葉を聞いた瞬間。
胸につかえていたものが、少しだけほどけた。
そうなのだ。
私たちが求めていたのは。
誰かを破滅させることでも。
土下座させることでもない。
起きたことを起きたこととして認めてほしい。
ただ、それだけだった。
「こちらは保険会社や必要なら専門家を通して、責任を持って対応します」
佐藤さん夫妻は、もう一度頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
二人が帰った後。
大地が大きく息を吐いた。
「同じ加害側でも、こんなに違うんだな」
「うん」
私は頷いた。
人は失敗する。
取り返しのつかない失敗だってある。
その後。
逃げるのか。
認めるのか。
人間が問われるのは、もしかしたらそこなのかもしれない。
◆ ◆ ◆
その夜。
毒島家。
健太郎はソファに深く腰かけ、ビールを飲んでいた。
「今日、佐藤のところから連絡が来た」
佳代はキッチンで洗い物をしていた。
「……そう」
「勝手に謝罪して、向こうと話を進めるそうだ」
返事はない。
「馬鹿だよな」
健太郎は笑った。
「弱みを見せたら終わりだってのに」
テレビではバラエティ番組が流れている。
出演者の笑い声だけが、妙に大きく響いた。
「俺についてくれば、有利にまとめてやったのにな」
「……」
「佳代」
返事がない。
「おい」
少し声を張る。
「聞いてるのか」
「聞いてます」
「だったら返事くらいしろ」
「はい」
気に食わない。
健太郎は缶を空にした。
「ビール」
佳代は動かない。
「おい、ビール」
「……」
「聞こえないのか!」
ようやく佳代が振り返った。
健太郎は言葉を止めた。
見たことのない顔をしていた。
怒っている。
いや。
怒りだけではない。
長い時間をかけて何かを諦めて。
その末に。
最後の一線を越えた人間の顔。
「何だよ、その目」
佳代は答えなかった。
ゆっくりと手を拭く。
それから。
「ねえ、健太郎さん」
「何だ」
「あなた」
静かな声だった。
「本当に、自分が正しいと思ってるの?」
健太郎は鼻で笑った。
「今さら何を言ってる。家族を守ってるのは俺だろ」
佳代の目から。
ほんのわずかに残っていた何かが消えた。
「……そう」
「何だよ」
「よく分かった」
「は?」
「あなたが、どういう人なのか」
「今さら夫に向かって何言って――」
「ずっと」
佳代は遮った。
「私が間違ってたのかもしれないって思ってた」
健太郎の眉が寄る。
「あなたに怒られるたび。馬鹿だと言われるたび。お前には分からないと言われるたび」
「何の話だ」
「私が悪いから怒られるんだって」
佳代が笑った。
笑っているのに。
その顔には少しも楽しさがなかった。
「でも違った」
「……」
「あなたは誰に対しても同じなのね」
健太郎が立ち上がる。
「お前、俺に喧嘩売ってるのか?」
「違う」
佳代は首を横に振った。
「もう、喧嘩する気もないの」
その言葉の意味を。
健太郎は、まだ理解していなかった。




