第2章 「被害者は俺たちだ」――歪んだ正義
病院の廊下を歩きながら、毒島健太郎は苛立っていた。
――まったく、面倒な連中だ。
娘が事故を起こした。
それは事実だ。
そこまで否定するつもりはない。
だが。
事故などというものは、一方だけが悪いと単純に決めつけられるものではない。
少なくとも健太郎は、そう考えていた。
歩道を歩いていた母親。
原付を運転していた娘。
事故が起きた。
ならば双方に事情がある。
それなのに、相手はまるで自分たちだけが被害者であるかのような態度を取る。
それが気に入らなかった。
「あなた……」
後ろから佳代の声がした。
「何だ」
「さっきの言い方は、さすがに……」
健太郎は足を止めた。
振り返る。
佳代の肩が縮こまった。
「何だ?」
「……何でもないです」
「なら最初から口を挟むな」
佳代は黙った。
その隣で莉奈も顔を伏せている。
健太郎はため息をついた。
――まったく、これだから女は感情でしか物を考えない。
自分がいなければ、この二人は相手の言うがままになっていただろう。
治療費。
慰謝料。
休業損害。
精神的苦痛。
相手はいくらでも請求してくる。
だったらこちらも、使える材料は使うべきだ。
それが交渉というものだ。
健太郎は大手商社の営業部長だった。
取引先との価格交渉。
クレーム対応。
部下への指導。
修羅場はいくらでも経験してきた。
勝つ者と負ける者の違いを、自分は知っている。
先に弱みを見せた方が負ける。
謝った方が負ける。
相手の主張を認めた方が負ける。
だから。
「いいか」
健太郎は妻と娘を見る。
「今後、相手と勝手に話すな」
莉奈がびくりとする。
「でも私……謝らなきゃ……」
「俺がやる」
「お父さん……」
「お前は子供なんだから余計なことを考えるな。全部俺に任せろ」
守ってやる。
健太郎は、本気でそう思っていた。
それこそが父親の役目だと。
◆ ◆ ◆
数日後。
病院側が用意した小さな面会室で、再び話し合いが行われた。
私は車椅子に座っていた。
隣には大地。
向かいには健太郎。
佳代さんと莉奈ちゃんは、少し離れた場所に座っている。
健太郎が書類を机の上に置いた。
「では、こちらの主張を整理します」
大地の眉が動く。
「主張?」
「ええ」
健太郎はまるで会社の会議でも始めるかのような態度だった。
「まず事故については、保険会社を通じて適切に対応します」
一瞬。
ようやくまともな話になるのかと思った。
「ただし」
やはり。
続きがあった。
「あなた方にも問題があります」
私は健太郎を見た。
「奥さん」
「はい」
「事故直後、莉奈に『早く救急車を呼べ』と大声で命令しましたね」
「……はい」
「本人が怯えているにもかかわらず?」
「私は動けなかったんです」
「それはあなた側の事情です」
横で大地の拳が握られる。
「五歳の娘もいました。何が起きたかも分からなくて、脚が痛くて……」
記憶が蘇る。
アスファルト。
泣き叫ぶ結愛。
動かない脚。
私は思わず声を震わせた。
「救急車を呼んでほしいと言う以外、どうすればよかったんですか?」
「だからといって怒鳴る必要はなかった」
健太郎は断言した。
「娘はあれ以来、その声を思い出して泣くんです」
莉奈ちゃんが顔を上げた。
「お父さん、私――」
「黙ってろ」
ぴしゃりと言われ、莉奈ちゃんは唇を噛む。
健太郎は続けた。
「場合によっては、強要に近い行為だとこちらは考えています」
「……強要?」
大地が聞き返す。
声が震えていた。
健太郎は得意そうに頷いた。
「嫌がる相手に、威圧的な態度で行動を要求したわけですからね」
「あなた……」
私は、さすがに言った。
「本気で言ってるんですか?」
「当然でしょう」
「事故で倒れている人間が、救急車を呼んでほしいと言ったんですよ」
「ものは言い方です」
バンッ!
大地が机を叩いた。
「いい加減にしろ!」
佳代さんと莉奈ちゃんが肩を震わせる。
「大地……」
「妻はあんたの娘さんに轢かれたんだぞ!」
「感情的にならないでもらえますか?」
「どっちがだ!」
「事故の補償についてはすると言ってるでしょう」
健太郎は微笑んだ。
その微笑みが、私は怖かった。
怒鳴られるよりも。
「ですが、こちらも精神的苦痛を被っている。それを含めて双方の請求を整理し、穏便に解決する。非常に合理的な提案だと思いますがね」
相殺。
穏便。
合理的。
その言葉だけを聞けば、もっともらしい。
けれど中身は。
人を轢いて負わせた怪我と。
怪我人が救急車を求めた声を。
同じ秤に載せようとしている。
「……今日は終わりにしましょう」
私が言った。
大地が振り向く。
「美咲」
「もういい」
これ以上話しても、何も前へ進まない。
むしろ。
こちらの常識が削られていく。
そんな気がした。
「そうですね」
健太郎は立ち上がった。
まるで勝った人間のように。
「冷静になられた方がいい」
鞄を持つ。
「桜井さん」
最後に、大地を見る。
「誠意ある対応を期待していますよ」
その言葉を聞いた時。
私は何も感じなかった。
怒りすら一瞬消えた。
人間は、あまりにも理解できないものを目の前にすると、感情が追いつかなくなるらしい。
健太郎が出口へ向かう。
佳代さんも立ち上がった。
その時だった。
ふと。
私は彼女の目を見た。
夫の背中を見つめていた。
いつも怯えているように伏せられていた目。
けれど、今は違った。
冷たい。
ひどく冷たい目だった。
怒りではない。
もっと深い。
何かが完全に終わってしまった人間の目。
軽蔑。
失望。
あるいは――。
決別。
佳代さんは私の視線に気づくと、わずかに頭を下げた。
そのまま何も言わず、部屋を出ていった。
なぜだろう。
その時。
私は初めて思った。
この話は、もしかしたら。
毒島健太郎という男が思っている方向とは、まったく違う場所へ進み始めているのかもしれない、と。




