第1章 「早く救急車を!」――被害者になった私を責めた、加害者の父親
穏やかな昼下がりだった。
八月も終わりに近づき、真夏ほどの刺すような暑さは少しだけ和らいでいた。
保育園からの帰り道。
私――桜井美咲は、五歳になる娘の結愛と手を繋いで、いつもの歩道を歩いていた。
小さな手のひらは、ほんのり汗ばんでいる。
けれど、その温もりが愛おしくて、私は握る力を少しだけ強めた。
「それでね、お砂場でね、すっごく大きなお城を作ったの!」
結愛が空いている方の手を目いっぱい広げる。
「こんなに?」
「もっと!」
「じゃあ、こんなに?」
今度は私も大げさに両腕を広げてみせると、結愛はきゃっきゃと笑った。
「もっともっと! お山みたいだったんだよ!」
「それはすごいわね。今度ママにも見せて」
「うん! あのね、入り口もあってね――」
その続きを、私は聞くことができなかった。
遠くから、場違いなほど大きなエンジン音が聞こえたからだ。
ブォン――!
ブォォン――!
一定ではない。
アクセルを必要以上にふかしているような、危なっかしい音。
続いて、甲高い少女の笑い声が響いた。
「あははっ! ちょ、怖いって!」
「待って待って、これどうすんの!?」
「ブレーキ! ブレーキ!」
嫌な予感がした。
私は反射的に声の方向を見る。
そして――息を呑んだ。
原付バイクが一台、車道から大きく外れ、こちらの歩道へ突っ込んできていた。
乗っているのは二人の女子高生。
前にいる少女は片手でハンドルを握り、もう片方の手にはスマートフォン。
後ろの少女は、その肩にしがみついている。
顔に浮かんでいるのは笑顔ではなかった。
恐怖だった。
制御できていない。
そう理解した瞬間には、もう距離がなかった。
「結愛っ!」
考える時間などなかった。
私は娘の腕を強く引き寄せた。
小さな体を胸に抱え込み、そのままバイクに背を向ける。
せめて、この子だけは。
その一念だけだった。
直後。
背中に、巨大な鉄の塊を叩きつけられたような衝撃が走った。
「――っ!」
息が消えた。
視界が反転する。
空。
建物。
アスファルト。
何がどうなったのか分からないまま、私は地面に叩きつけられた。
全身に鈍い痛みが広がる。
遅れて、右脚に焼けるような激痛が走った。
「う……っ……」
声すらまともに出ない。
呼吸をするたび、体のあちこちが痛んだ。
それでも私は、何より先に腕の中を確認した。
「結愛……?」
「ママぁぁっ!」
泣き声。
結愛が私の胸にしがみついていた。
頬には涙。
膝には少し砂がついている。
けれど、血は見えない。
頭も打っていないようだった。
「よかった……」
それだけ言った瞬間、力が抜けた。
よかった。
本当に。
それだけでよかった。
「ママ、いたいの? ママぁ……!」
「大丈夫……大丈夫だから……」
大丈夫なわけがなかった。
右脚は少し動かそうとするだけで、耐え難い痛みを訴えてくる。
腕も擦りむいている。
掌を見ると、赤い血が滲んでいた。
少し離れたところに原付が倒れていた。
二人の女子高生も転倒したようだが、立ち上がっている。
大きな怪我はなさそうだった。
前に乗っていた少女はスマートフォンを握ったまま、真っ青な顔でこちらを見ている。
後ろの少女も同じだった。
二人とも、ただ立っている。
「……」
何もしない。
誰かに連絡するでもない。
周囲に助けを求めるでもない。
ただ、こちらを見て震えている。
私は痛みに耐えながら、声を絞り出した。
「……お願い……」
少女たちは動かない。
「救急車……」
聞こえていないのかと思った。
だから、もう一度。
今度は力を振り絞った。
「早く救急車を呼んで!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
前にいた少女の肩がびくりと跳ねる。
「あ……」
「お願い……子供がいるの……早く……!」
近くにいた男性がこちらへ駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか! 救急車呼びます!」
別の女性が結愛を抱き上げてくれた。
「お母さん、動かないで! すぐ来ますから!」
私はアスファルトの上で目を閉じた。
遠くでサイレンの音が聞こえ始める。
その時の私は、まだ知らなかった。
事故そのものよりも理解に苦しむ出来事が、この数日後に待っていることを。
◆ ◆ ◆
入院してから四日が過ぎた。
右脚の骨折。
全身打撲。
腕や肩の擦過傷。
医師から説明された言葉を聞くたび、あの瞬間が夢ではなかったのだと思い知らされた。
「痛む?」
ベッド脇の椅子に座った夫の大地が尋ねる。
「朝よりは楽。薬が効いてるみたい」
「そうか」
大地は安堵したように息を吐いた。
事故の一報を受け、仕事を放り出して病院に駆けつけてきた時の彼の顔を、私は忘れられない。
青ざめていた。
私以上に取り乱していたかもしれない。
そして結愛が無傷だと知った瞬間、廊下の椅子に座り込んだ。
「結愛は?」
「今日は俺の母さんと買い物。美咲のお見舞いに持っていく絵を描くんだって張り切ってた」
「そっか」
思わず笑みがこぼれる。
あの子が無事だった。
それだけは、何度考えても胸が熱くなる。
コンコン。
病室のドアがノックされた。
「はい」
大地が返事をする。
ゆっくりとドアが開いた。
最初に入ってきたのは、中年の男性だった。
濃紺のスーツ。
磨き上げられた革靴。
きっちりと整えられた髪。
その後ろから、女性と女子高生が入ってくる。
少女の顔を見て、すぐに分かった。
事故の時、原付を運転していた少女だ。
毒島莉奈。
事前に警察から名前を聞いている。
「……」
莉奈は私と目が合うと、すぐに顔を伏せた。
隣にいる母親らしい女性――佳代さんも、ひどく青ざめた顔をしている。
一方。
父親だけは違っていた。
私たちを見回す目に、申し訳なさは感じられなかった。
むしろ。
品定めをするような目だった。
大地が立ち上がる。
「毒島さんですね。桜井です。この度の事故について――」
「その前に」
男――毒島健太郎は、大地の言葉を遮った。
低い声だった。
「確認したいことがあります」
「……何でしょう」
「妻から聞きました」
健太郎は私を見る。
「あなた、事故の直後、うちの娘を怒鳴りつけたそうですね?」
一瞬。
何を言われたのか理解できなかった。
「……え?」
「『早く救急車を呼べ』と、大声で怒鳴った」
「それは……」
「あの子は事故を起こしてパニックになっていたんですよ」
健太郎の声が徐々に大きくなる。
「十六歳の子供です。自分でも何が起こったか分からず混乱している子に向かって、大の大人が怒鳴りつける。それが普通の対応ですか?」
私は言葉を失った。
隣で、大地がゆっくりと立ち上がる気配がした。
「毒島さん」
声が低い。
「今、何のためにここへ来られたんですか?」
「もちろん、事故について話をするためですよ」
「謝罪ではなく?」
「謝るべきことは謝りますよ。ただし、こちらが一方的に悪いという話では困ります」
一方的。
その言葉に耳を疑った。
「妻は脚を折ってるんですよ」
大地が言う。
「五歳の娘を庇って、救急搬送されたんです。あなたの娘さんが歩道に原付で突っ込んできたからでしょう」
「だからといって、娘を怒鳴っていい理由にはならないでしょう!」
健太郎が声を荒らげる。
ベッドの脇で佳代さんが小さく肩を震わせた。
莉奈はさらに深く俯く。
「事故以来、娘は眠れないんですよ!」
「……」
「奥さんに怒鳴られた声が耳に残ってると!」
健太郎は私を指差した。
「こっちは娘の心に傷を負わされたんです!」
今度こそ、私は何も言えなくなった。
怒りではない。
あまりにも理解できなくて。
この人は、本気なのだ。
本気で――。
娘が人を轢いた事故の被害者を前にして、自分たちこそ傷つけられた側なのだと。
そう信じている。
「あなた……」
私は掠れた声で尋ねた。
「私が、どういう状態だったか知ってますか?」
「怪我をされたことは承知しています」
「娘を庇って、動けなかったんです」
「それと怒鳴ったことは別問題でしょう」
即答だった。
私は目を閉じた。
怒鳴った。
確かにそうなのかもしれない。
けれど。
あの時の私に、相手の心を傷つけないよう丁寧に言葉を選ぶ余裕などあっただろうか。
五歳の娘を抱きしめたまま。
脚を折られ。
道路に倒れ。
救急車も呼ばれない状況で。
「……帰ってください」
大地が言った。
健太郎が眉を上げる。
「何ですって?」
「今日は、帰ってください」
「こちらは話し合いに――」
「今は妻を休ませたい」
大地の声は静かだった。
けれど、その拳は震えていた。
「これ以上、妻の前でそんな話をするなら、帰ってください」
健太郎は不満そうに鼻を鳴らした。
「……まあいいでしょう」
振り返る。
「行くぞ、佳代、莉奈」
佳代さんは何か言いたそうに私を見た。
だが。
健太郎が一度振り向いただけで、その口は閉じられた。
莉奈も同じだった。
三人が病室を出ていく。
ドアが閉まる。
私はしばらく、その白い扉を見つめていた。
「美咲」
「……何?」
「気にするな」
大地が私の手を握った。
「お前は何もおかしなことをしてない」
私は小さく頷いた。
それでも胸の奥に、言いようのない気味悪さが残っていた。
事故の日。
私は娘を守ることしか考えていなかった。
ところが今になって。
まるで知らない場所から伸びてきた手に、被害者と加害者の札を、無理やり入れ替えられようとしている。
そんな感覚だった。
そして。
これはまだ、始まりにすぎなかった。




