第6章 誰もいなくなった食卓
静かな部屋だった。
冷蔵庫の音だけが聞こえる。
健太郎はダイニングの床に座り込んでいた。
離婚届を握ったまま。
どれほど時間が経ったのか分からない。
外はもう暗い。
いつもなら。
「おかえりなさい」
佳代が言う。
莉奈がスマートフォンを見ながら「おかえり」と言う。
食卓には料理が並ぶ。
ビールを頼めば出てくる。
シャツを脱げば翌日には洗われている。
何も考えずに享受してきた。
それを健太郎は。
自分が家族を養っているから当然なのだと思っていた。
「俺は……」
呟く。
「間違ってない」
口にしてみる。
いつもなら。
その言葉を言えば安心できた。
自分は正しい。
周囲が間違っている。
そう考えれば。
世界は単純だった。
だが。
誰もいない部屋で口にすると。
不思議なほど頼りなかった。
「俺は悪くない」
もう一度。
「俺は……」
返事はない。
テーブルには三つあった椅子が。
一つだけ残されているように見えた。
◆ ◆ ◆
それから数か月が過ぎた。
季節は変わった。
窓から入ってくる風に、少しだけ冬の匂いが混じり始めている。
「ママー!」
リビングから結愛の声がした。
「見て見て!」
私はキッチンから顔を出す。
床いっぱいに画用紙が広げられている。
中心に描かれていたのは、大きな花。
赤。
黄色。
青。
現実にはない色が混じり合った、五歳児らしい自由な花だった。
「すごい!」
「でしょ!」
結愛が胸を張る。
私は笑って、ゆっくり歩いて近づいた。
もう杖は必要ない。
リハビリには時間がかかった。
最初は自分の足で以前のように歩けるのか、不安で眠れない夜もあった。
それでも。
少しずつ。
一歩ずつ。
日常は戻ってきた。
事故以前と、まったく同じではない。
結愛はいまだに大きなバイクの音を怖がる。
私も歩道の近くでエンジン音がすると、反射的に振り返る。
けれど。
それでも私たちは歩いている。
「ただいまー!」
玄関から大地の声。
「あっ、パパ!」
結愛が飛んでいく。
「おかえり!」
「ただいま。おお、今日はすごい勢いだな」
「お花描いた!」
「見せてくれ」
「こっち!」
大地が引っ張られてくる。
私は笑いながらコーヒーを淹れた。
「あ、美咲」
「ん?」
「そういえば」
大地が一瞬迷った。
「毒島さんのこと、聞いた」
私は手を止めた。
「健太郎さん?」
「ああ」
不思議だった。
名前を聞いても。
以前ほど胸がざわつかなかった。
「どうしてるの?」
「会社は結局、かなり厳しい処分になったらしい」
大地は言葉を選んでいた。
「SNSの件だけじゃなくて、以前から社内でも取引先とのトラブルや、部下への威圧的な言動が問題になっていたみたいだ」
「そうだったんだ」
「今回の件がきっかけで一気に表に出たらしい」
私は黙って聞いた。
「佳代さんとの離婚も成立したって」
「うん」
それは佳代さん本人から、一度だけ手紙で知らせてもらっていた。
娘と二人。
新しい土地で生活を始めたこと。
莉奈ちゃんも転校し。
事故についての必要な手続きと向き合いながら、少しずつ学校生活を取り戻していること。
手紙の最後には。
『あの時、私まで黙ったままで本当に申し訳ありませんでした』
と書かれていた。
私は返事を送った。
謝罪を受け入れること。
ただし。
私に謝り続けるためではなく。
娘さんと自分自身の人生を生きてほしい。
そう書いた。
佐藤家との話も、必要な手続きを経て終わっている。
葵ちゃんからも、後日。
自筆の手紙が届いた。
事故が消えるわけではない。
私の怪我も。
結愛の恐怖も。
なかったことにはできない。
それでも。
責任を認める人とは。
少しずつでも話を終わらせることができる。
だが。
最後まで、自分は悪くないと言い続ける人とは。
話を終わらせることすら難しい。
「健太郎さんは?」
私は聞いた。
大地が肩をすくめる。
「詳しくは知らない。ただ、かなり生活が変わったらしい」
「そっか」
「気になる?」
私は少し考えた。
そして。
首を横に振る。
「もう、いいかな」
「……そうだな」
大地も頷いた。
かつては。
あの人がどうなれば、自分の気が晴れるのだろうと考えたこともあった。
謝らせたい。
後悔させたい。
自分が間違っていたと認めさせたい。
そんなことを考えた夜もある。
でも。
今は違う。
あの人が反省しようが。
しなかろうが。
私たちの暮らしとは関係ない。
私にとって一番大切なのは。
あの男の末路ではなく。
ここにある。
「ママ!」
結愛が呼ぶ。
「ここ!」
画用紙を指差す。
「ママも描いて!」
「ええ?」
「パパも描いたよ!」
見ると、大地が隅に妙にリアルなひまわりを描いていた。
「ちょっとパパ、本気出しすぎじゃない?」
「芸術に妥協はできない」
「大人気ない!」
結愛が笑う。
私も笑った。
色鉛筆を一本取る。
「じゃあママは何描こうかな」
「お花!」
「お花ね」
「三人のお花!」
「三人?」
「ママとパパと結愛!」
少し考えてから。
「じゃあ三つ描こうか」
「うん!」
私は画用紙に一本目の線を引いた。
窓の外。
青い空が広がっていた。
事故の日も。
たぶん空は青かった。
でも。
あの日の空を、私はほとんど覚えていない。
恐怖と痛みしかなかったから。
だからこそ。
今日の空は覚えておこうと思った。
娘の笑い声。
夫の隣で飲む少し冷めたコーヒー。
色鉛筆の匂い。
何でもない休日。
守りたかったのは。
こういうものだったのだ。
誰かを打ち負かすことでも。
勝つことでも。
正しさを叫び続けることでもない。
大切な人と。
静かに笑って暮らすこと。
「ママ、早くー!」
「はいはい」
私は笑って。
娘の隣へ座った。
もう。
あの男の声は聞こえない。
ここには。
私たちの声だけがある。
そして私は。
それで十分だと思った。
――完――




