袂を分かつ泥犬
深夜の王都。第零研究施設の地下へと続く搬入口に、俺は一人で潜入していた。
アイリスのいる最深部の隔離室へ向かう前に、俺は薄暗い備品倉庫へと足を向けた。そこには、俺たちが「魔法使い」になる前に身につけていた、旧式の重歩兵装備が無造作に山積みになって埃を被っていた。
俺はためらいなく、その中から見覚えのある傷だらけの『鋼鉄の盾』を引っ張り出した。
ずしり、と腕の骨が軋むような三十キロの重さ。
魔法の軽さに慣れきっていた体には、ひどく理不尽で痛みを伴う重力だった。
だが、今の俺にはこの「重さ」が必要だった。自分が何者の命を背負い、何をぶっ壊そうとしているのかを、決して忘れないために。
「……行くぞ」
俺は左腕に盾を固定し、隔離室へと続く長い地下通路へ足を踏み入れた。
だが、その冷たい通路の中央に、一人の男が立っていた。
「……来ると思ってたぜ、レオン」
「カイン……」
闇の中で、カインの右手が青白い光を放っていた。
その顔は、いつも見せていた無邪気な英雄の顔ではない。ひどく傷つき、そして張り詰めた、かつての『泥犬』の顔だった。
「クルーガー大佐が逃げた。監視を気絶させた手口、お前だろ」
カインは静かに言った。
「大佐から聞いたのか? この魔法が、シャトラから水と空気を奪ってるってこと」
「……お前、知ってたのか」
「昨日、白衣のオッサンたちを問い詰めて吐かせた。……反吐が出そうだったよ」
カインもまた、真実を知っていたのだ。
だが、彼は逃げなかった。俺と一緒にコアを壊そうとも言わなかった。カインは青白い水流を右手に纏わせたまま、俺の前に立ちはだかっている。
「どけ、カイン。俺は魔法の原動力になっている、そのメインコアを壊して、アイリスを連れて出る。アイリスの命が、他国の子供たちを殺して成り立ってるなんて……あいつが知ったら、絶対に耐えられない」
「耐えさせるんだよ!!」
地下通路に、カインの悲痛な怒声が響き渡った。
「レオン、お前覚えてるか!? 俺たちが十歳の時の、あの孤児院の冬を!」
「……ッ」
「配給がなくて、薪もなくて……シスターが凍え死にそうになった夜。あの時、一番泣き虫だったアイリスは、自分の毛布をシスターに譲って一晩中震えてた。……俺たちは、あいつ一人温めてやる力もなかったんだぞ!」
カインの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「俺はもう、あんな思いはごめんだ! 魔法のおかげで、孤児院の弟や妹たちは昨日、腹いっぱい温かいパンを食えたんだ。雨が降って、みんな笑ってたんだ! シャトラの奴らが死のうが知ったことか……俺は、俺たちの『家族』を守るんだよ!!」
痛いほどに、わかった。
底辺の泥水をすすってきた俺たちにとって、「温かいパン」と「家族の笑顔」がどれほど尊い奇跡か。カインは世界を犠牲にしてでも、泥にまみれた過去と決別し、手の届く範囲の愛する者たちを守り抜く覚悟を決めたのだ。
だが。
「アイリスは、パンのために他人の喉を掻き切るような奴じゃない……!」
俺は、ギリッと奥歯を噛み締め、左腕の『鋼鉄の盾』を構えた。
「俺だって孤児院の皆は大事だ! だが、他人の血を搾り取って生きる世界なんざ、俺たちの居場所じゃない。俺は、アイリスの『人間としての誇り』を守る!」
「……結局、俺たちは昔から意地っ張りだな」
カインが哀しげに笑う。
「お前、なんでそんなクソ重たい盾なんか構えてるんだよ」
「悪魔の力なんざ、もう使わねぇって決めたからだ」
「……そうかよ。なら、死ね」
カインの目から一切の感情が消え、絶対零度の吹雪を伴った狂瀾怒濤の鉄砲水が、一直線に俺へと放たれた。
俺は魔法を使わない。炎で相殺することもできたが、胸の奥のチップに意識を閉ざし、歯を食いしばって前へ出た。
「おおおおぉぉぉぉぉッ!!」
三十キロの鋼鉄の盾を斜めに突き立て、激流の中を強引に突き進む。
かつて戦場で、数え切れないほどの銃弾から味方を守り抜いた、使い捨ての肉壁の意地。水圧で盾が軋み、腕の骨にヒビが入る音が響いた。
守りたいもののために、俺たちは今日、殺し合う。
あの泥だらけの戦場から、ずっと肩を並べて生き抜いてきた親友を、俺は力任せに弾き飛ばした。




