恩義と離反の夜
どれだけの時間が経っただろうか。
放棄されたトーチカの外では、今日もアーベントの「奇跡の雨」が降っている。シャトラの民の血と涙を搾り取って降る、泥より汚い雨だ。
胃液を吐き尽くし、冷たいコンクリートの床に座り込んでいた俺は、ゆっくりと立ち上がった。
絶望はとうに限界を超え、逆に頭の芯は氷のように冷え切っていた。俺は腰のホルスターから軍用ナイフを抜くと、クルーガー大佐を縛り付けていたロープを無言で切り裂いた。
「……何の真似だ」
拘束を解かれ、床に崩れ落ちた大佐が、血まみれの顔を上げて俺を睨む。
俺はトーチカの隅にあった医療キットと、彼が投げ捨てていたガスマスクを無造作に放り投げた。
「行け。夜明け前なら、監視の目をごまかして国境を越えられる」
「……狂ったか、泥犬。我々はお前たちを殺しに来た敵だぞ」
大佐は血を吐きながら、信じられないものを見るような目をした。
「ここで私を逃がせば、お前は軍法会議で銃殺だ。なぜ逃がす」
なぜ逃がすのか。
そんなの、自分でもわからない。ただ、胸の奥でひどく痛むものがあったのだ。
「……俺の幼馴染は」
俺は、外の冷たい雨音を聞きながら、ぽつりとこぼした。
「二ヶ月前、戦場で逃げ遅れたシャトラの子供を庇って、腹を撃たれた」
大佐の目が、微かに見開かれる。
「あいつはバカみたいに優しくて、敵も味方も関係なく命を助けようとする奴だった。……もしあいつが目を覚まして、自分の命が『自分が助けようとした子供たち』を干殺しにして成り立っていると知ったら……あいつの心は、完全にぶっ壊れちまう」
俺はナイフを鞘に収め、トーチカの出口へと歩き出した。
「あいつが信じた『人間』を、俺も信じたいだけだ。……あんたの国の水と空気は、必ず返す」
「……本気か。どうするつもりだ」
「決まってる」
俺は振り返り、大佐の目を真っ直ぐに見据えた。
もはやそこに、魔法という圧倒的な力に酔いしれた「英雄」の面影はなかった。あるのは、かつて泥の中を這いずり、理不尽な重圧と痛みに耐え抜いてきた「重歩兵」の、昏く燃えるような瞳だけだ。
「この狂ったシステムを、俺がぶっ壊す」
沈黙が落ちた。
大佐は痛ましい呼吸を繰り返しならがも、俺の目から「それが嘘ではないこと」を悟ったようだった。
彼は壁に手をついて立ち上がると、ガスマスクを拾い上げ、顔を覆う前に低くしゃがれた声で言った。
「……忘れるな、レオン。お前がどれだけ抗おうと、我々の恨みは消えん。次に会う時は、お前のその心臓をえぐり出してやる」
「ああ。楽しみに待ってるよ」
大佐は闇に紛れ、雨の中へと消えていった。
一人残されたトーチカで、俺は自分の胸に手を当てた。
ドクン、カチ、チチチ……。
悪魔の心臓が、今も俺の体内で他国の命を啜りながら脈打っている。
軍を裏切れば、あの白衣の男は確実にアイリスの「メンテナンス」を打ち切るだろう。ならば、猶予はない。アイリスの肉体が崩壊する前に、すべての魔法を統括する『第零研究施設』のメインコアを破壊し、彼女を呪いの延命装置から人間の体へと戻す方法を見つけ出さなければならない。
敵は、アーベント軍のすべて。
そして何より、魔法の恩恵に溺れ、今も盲目的に軍に従い続けている親友——カインだ。
「……もう、こんな力はいらない」
俺は、指先に浮かび上がりかけた炎の魔力を、自らの手で握り潰した。
魔法が世界を殺すなら。
愛する者をバケモノに変えるなら。
俺は迷わず、この魔法を捨ててやる。
そしてもう一度、自分の足で立ち、あのクソ重たい「鉄の盾」を構えてやる。
それが、泥犬と呼ばれた俺が最後に選んだ、たった一つの誇りだった。




