痛みの対価と、初めての魔法
麻酔は打たれなかった。
「全身の神経とチップの回路を完全に同調させるためだ。痛みに耐えろ」
白衣の男の冷酷な声とともに、メスが胸の肉を裂いた。
手術台に拘束された手足が、千切れんばかりに跳ねる。肋骨をこじ開けられ、心臓のすぐ隣に「それ」が埋め込まれた瞬間——血管に煮えたぎる鉛を流し込まれたような激痛が、全身を駆け巡った。
「あ、あああぁぁぁぁぁぁッ!!」
鼓膜を破るような悲鳴が自分の口から出ていることすら、うまく認識できない。
ドクン、ドクンと脈打つ自分の心臓の音に混じって、もう一つ。
カチ、チチチ……という、機械的な駆動音が体内で鳴り始めた。その二つの音が完全に重なった瞬間、俺の意識は白く焼き切れた。
* * *
「……レオン。おい、立てるか」
頬を叩かれ、俺は泥の匂いと硝煙のむせ返るような空気の中で目を覚ました。
見上げると、カインが立っている。その顔色はひどく青白かったが、瞳には異様な光が宿っていた。
周囲を見渡して、俺は息を呑んだ。
そこは最前線の塹壕だった。数時間前まで俺たちが地獄の苦しみを味わっていた、泥と血まみれの戦場。
だが、決定的に違うことが一つあった。
「……軽い」
立ち上がった俺は、自分の体を見て呆然と呟いた。
いつも身につけていた分厚い鋼鉄の鎧がない。動きやすい軽装の野戦服。そして何より、あの三十キロを超えるクソ重たい「鉄の盾」を持っていなかった。
「おい、泥犬ども! 何を手ぶらで最前線に来てやがる!!」
塹壕の奥で、歩兵の小隊長が血相を変えて怒鳴り込んできた。
「盾はどうした! 貴様ら重歩兵が壁にならなきゃ、部隊が前進できないだろうが!」
小隊長が胸ぐらをつかもうと手を伸ばしてきた、その時だった。
ヒュルルル……という不気味な風切り音が空から降り注ぐ。敵国シャトラの迫撃砲だ。
「総員、伏せろぉぉッ!!」
小隊長の絶叫。歩兵たちが一斉に泥水の中に顔を突っ込む。
だが、俺は伏せなかった。
恐怖がないわけじゃない。だがそれ以上に、胸の奥で鼓動する「もう一つの心臓」が、異常なほどの熱を帯びて俺の思考を支配していた。
(……やれる)
根拠のない、だが確信めいた全能感。
俺は右手を軽く前に突き出し、胸の奥で渦巻く熱を、手のひらへと集束させるイメージを描いた。
「——吹き飛べ!」
次の瞬間。
俺の手のひらから、太陽が落ちてきたかのような圧倒的な【爆炎】が放たれた。
轟音。閃光。
着弾するはずだった迫撃砲の弾が空中で蒸発し、そのまま直進した極大の炎の渦が、数百メートル先の敵の陣地を丸ごと飲み込んだ。
大地が溶け、塹壕の泥が瞬時に干からびてガラス化する。
「あ……ぁ……?」
炎が晴れた後には、敵の姿など影も形もなかった。ただ、ドロドロに溶けた鉄の残骸と、黒こげになった大地だけが広がっている。
静寂。
味方の歩兵たちも、怒鳴っていた小隊長も、腰を抜かして震えていた。
彼らの視線は、敵に向けるような明らかな「恐怖」を帯びて、俺に向けられている。無理もない。人間の放つ火力ではないのだから。
だが、俺の心を満たしていたのは、恐怖ではなく強烈な「陶酔」だった。
右手を見る。煤ひとつついていない。
今まで、あんなに重たい盾を歯を食いしばって構え、仲間の死肉を越えて前進し、それでも守れなかった戦線。
それが今、指先一つで、文字通り「消し飛んだ」のだ。
「……ははっ」
隣で、カインが乾いた笑い声を漏らした。
彼の手のひらからは、青白い水球が浮かび上がっては弾けている。俺とは対極の力。彼もまた、自分の中に宿った神の力に酔いしれていた。
「すごいな、これ。……なあレオン。これなら俺たち、もう二度と泥水をすすらなくていい。アイリスにも、王都でふかふかのベッドで寝かせてやれるぞ」
「……ああ。そうだな」
俺は右手を強く握りしめた。
三十キロの盾の重さなど、もう思い出すことすらできない。
俺はこの日、重歩兵であることをやめ——悪魔の力に、完全に心を奪われてしまったのだ。




