魔法がうまれた日
魔法という言葉が存在したのは、あとにも先にもこの一年だけだった。
銃と大砲が支配する煤けた時代が終わり、剣と精霊が息づく新世界が幕を開けるまでの、わずか三百六十五日。
俺たちは神の奇跡をその身に宿し、世界を緑で満たし、愛する者を救い——そして、自分たちが何からそれを奪い取っているのかを知らなかった。
これは、俺たちが世界を殺し、そして世界を救うまでの、短くも残酷な「魔法使い」たちの記録だ。
* * *
「頭を下げろ! 砲撃が来るぞ!」
親友カインの怒声と同時に、鼓膜を破るような爆音が戦場を揺らした。
俺——レオンは、ぬかるんだ泥に両足を踏ん張り、自身の背丈ほどもある鋼鉄の盾を斜面につき立てた。
三十キロを超える分厚い鉄の塊に、敵国シャトラの銃弾が雨あられと降り注ぐ。ガガンッ、ガガガッ! と硬質な音が連続して響き、そのたびに腕の骨が軋み、肩の感覚が麻痺していく。
「止まるな泥犬ども! 歩兵の盾になれ、前へ出ろ!」
後方の安全な塹壕から、指揮官の容赦ない怒声が飛ぶ。
工業帝国アーベント、第8重歩兵小隊。孤児院上がりの連中ばかりが集められた俺たちの部隊は、軍の中で最も生存率の低い「動く肉壁」だった。
俺たちの命より、俺たちが構えている鉄の盾の方が高価だ。腕が千切れようが、隣の仲間が砲弾で吹き飛ばされようが、決して立ち止まることは許されない。重さと痛みに耐え、ただ後方の歩兵を守るためだけに泥の中を這いずる。それが重歩兵の地獄だった。
「クソッ……こんな生活、あと何日持てばいいんだよ!」
隣で同じように盾を構えるカインが、顔にへばりついた泥と血を吐き捨てた。
「泣き言を言うな! 帰ったらアイリスに笑われるぞ!」
俺は痺れる両腕に無理やり力を込め、さらに一歩、泥濘んだ大地を踏み締めた。
* * *
数時間後。一時的な戦闘を終え、部隊は後方の野営地へと帰還した。
薄暗い医療テントの中で、俺はボロボロになった重装甲を脱ぎ捨て、丸椅子に深く息を吐いて倒れ込んだ。両腕は紫色の痣だらけで、鉛のように重い。
「もう……二人とも、無茶しすぎ。肩、真っ赤じゃない」
呆れたような声とともに、冷たい湿布が俺の肩に押し当てられた。
振り返ると、衛生兵の腕章をつけた少女が、困ったように微笑んでいた。アイリス。俺やカインと同じ孤児院で育った、花のように笑う幼馴染だ。
「悪い、アイリス。今日の敵は特に弾幕が厚くてな」
「笑い事じゃないよ。レオンもカインも、いつも最前線で盾を持たされて……いつか、本当に帰ってこられなくなっちゃうよ」
アイリスの瞳が、ふっと不安に揺れる。
その顔を見るたびに、俺の胸の奥で重たい感情が渦巻いた。
彼女は優しい。戦場で血を流す兵士たちを、敵味方問わず助けようとする。だからこそ、こんな泥と血の匂いが充満する最前線に、彼女をいつまでも置いておきたくなかった。
(俺にもっと力があれば。こんな理不尽な肉壁じゃなく、もっと上の階級に行ければ、アイリスを安全な後方へ連れて行けるのに……)
その時だ。
泥だらけのテントに不釣り合いな、磨き上げられた黒い軍靴が足音を響かせた。
最前線には似つかわしくない、泥ひとつ跳ねていない上等な軍服。後方司令部の将校が、無遠慮にテントへと足を踏み入れたのだ。
「第8重歩兵小隊、レオン。およびカインだな」
将校の冷たい声に、俺たちは弾かれたように立ち上がった。
「貴様ら二名に特務指令が下った。直ちに後方の『第零研究施設』へ同行しろ」
「特務……? 俺たちみたいな下っ端の重歩兵に何の用ですか!」
「言葉を弁えろ、泥犬」
低く、絶対的な権力を含んだ声がテントの空気を凍らせた。
将校は手袋をはめた指先で、ひどく汚い物でも見るように俺の肩の階級章を小突いた。
「我々に必要なのは、貴様らのその『痛みに耐えうるだけの頑丈な肉体』だけだ。大人しくついてくれば、貴様らも……そしてそこにいる衛生兵も、この泥臭い最前線から引き上げてやる」
その言葉に、俺とカインは顔を見合わせた。
* * *
後方の地下深く。極秘の『第零研究施設』は、酷く冷たい場所だった。
戦場の泥臭さは一切なく、鼻を突くのは消毒液の匂い。眩しいほどの白い蛍光灯が、無機質な部屋を照らし出している。
「よく来てくれた、泥犬の諸君」
部屋の奥から現れたのは、軍服の上に白衣を羽織った初老の男だった。
男は銀色のジュラルミンケースを金属製のテーブルに無造作に置き、カチャリ、と乾いた音を立ててそれを開いた。
緩衝材の中に収められていたのは、ガラスの小瓶に浮かぶ二つの『機械のチップ』だった。黒い金属の基盤に、まるで血管のような赤黒い液体がドクドクと脈打って循環している。
「我が国は現在、敵国シャトラの砲撃によりジリ貧だ。もはや君たち重歩兵の『肉壁』だけで前線を維持することは不可能に近い」
男はガラス瓶を一つ摘み上げ、蛍光灯の光に透かした。
「そこで、君たちにはこれを使ってもらう。正式名称『M.A.G.I.C.(マジック)』。これを君たちの心臓の横に直接埋め込む。……そうすれば君たちは、敵を焼き尽くす炎を操り、天から雨を呼ぶ『魔法使い』になる」
魔法。
おとぎ話の言葉に、俺は眉をひそめた。
「手術の成功率は五割だ。君たちのように、最前線の重圧と痛みに耐え抜いてきた強靭な肉体と精神でなければ、適合できずにショック死する」
白衣の男は薄く笑い、俺たちの目を見据えた。
「だが、成功すれば君たちは英雄だ。あの重い鉄の盾など捨てて、圧倒的な力で敵を蹂躙できる。もちろん、君たちの大切な少女を、安全な王都に住まわせることも約束しよう。……どうする?」
アイリスを、安全な場所へ。
あの理不尽な痛みと、三十キロの重圧から解放される力。
階級の低い俺たちには、拒否権なんて最初からない。だが、たとえあったとしても、俺たちの答えは決まっていた。
「……やってくれ」
俺とカインは、迷いなく頷いた。
それが、すべての始まりだった。
自分たちが世界を壊す兵器になることなど知る由もなく。そして、その力に溺れた結果、守りたかったはずの少女を地獄に突き落とすことになるとも知らずに。
俺たちはその胸に、「魔法」を埋め込んだ。




