第3話 切り捨てることは、商売では当たり前のことだ
「マティさん、こちらのお水、お借りしますね」
従業員が出してくれたのであろう氷と水の入ったガラスのピッチャーをセレナが手で指し示す。
私が頷くとセレナはそのピッチャーに両手をかざした。
「清らなる水よ、癒しの恵みを」
セレナがそう唱えるとただの水が金色の光を放って光った。
その光が少しずつ収束し、淡いレモン色に輝く液体へと姿を変える。
「どうぞ、マティさん。飲んでみてください」
私は震える手でピッチャーを取り、自分の前の空いたグラスにそのレモン色の液体を注いだ。
コップを手に取り、恐る恐る口に含んだ。
途端、今まで感じていた疲れや胸の痛みが一気に引いていく。
私は自分の手を見た。
庭仕事で細かな傷だらけだった手が見る見るうちに癒えていく。
傷がふさがっていく。
さっきハサミで切った指先の細かな傷跡まで消えた。
私は思わず息をのんだ。
「アハハ! どうだ、すごいだろう!」
エドリックの勝ち誇ったような笑い声。まるで自分のことのように誇らしげだ。
セレナは、そんなエドリックを見て、照れ臭そうに笑った。
私は震える手でそっとコップをテーブルに置いた。
「……これ、一日でどれくらい作れるの」
エドリックが鼻息荒く腕を組んだ。
「日に大樽二つの水を聖水にできる」
私は、エドリックの言葉に愕然とした。
それは、うちの商会でマルベルト魔導具商会に卸している量と全く一緒だったからだ。
エドリックの言葉はそれで終わらない。
「しかも、一分とかからずにできるんだ。一日に使える祈りの回数が一回だけだがそれでも十分な量だろう?」
私は、膝に肘をつき、頭を抱えた。
――確かに、この聖水はすごい。
「セレナさえいれば、ヴェルナ薬花商会に払っていた金も運送費も無駄な物を全て削減できる」
「ちょっと待ってよ」
セレナの聖水が効いたのか、さっきよりも圧倒的に頭が冴えて、腹の底から沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。
「あなた、今、無駄な物って言った?」
私は、どうしてもエドリックの言葉が許せなかった。
「あなたが無駄といったその工程。うちの従業員たちや荷を運ぶ運送業者の大切な仕事なの! あなたの判断が何十人もの人たちの仕事を、生きるすべを奪うことになるのよ!」
エドリックは私の反論に身じろぎ一つしなかった。
「あぁ、やっぱり君と結婚しなくて正解だったよ。僕は、君のそういうところが嫌いなんだ」
「はぁ?」
「自分たちの利益のために他を切り捨てるのは、商売では当たり前のことだ。それを君は、感情論に変換して正しいことのように言い張る。そういうところが嫌いだって言ってるんだよ!」
エドリックも私も立ち上がっていた。
互いに睨み合い、さっきまでのことが嘘みたいだ。
「それを感情論だって切り捨てるの!? 従業員の暮らしも、お客様の信頼も、全部商売の一部でしょう!」
今、分かった。
エドリックの言う通り、私たちは価値観が合わない。決定的にだ。
「私は、自分の考えが間違ってるだなんて、絶対に認めない! あなたが無駄な物だって切り捨てた物が必要だったって、証明してみせる!」
「ふん、できるもんならやってみろ」
エドリックは怒りで熱くなったのか、絞めていたネクタイを少し緩めた。
その時私は見てしまった。エドリックの首に生々しい紅い痕がしっかりと残っているのをだ。
――あぁ、そういうこと。
「お望み通り、婚約は破棄してあげる。ただし、払うものは払ってもらいますからね。私も従業員たちの生活を守らないといけないですから」
沸き上がっていた怒りが一気に冷め、どろりとした気持ち悪さに変わる。
すとんと力なくソファに座った。
「……後は弁護士を通してください。もう、あなたの顔も見たくないわ」
エドリックは、満足そうに口元を歪め、セレナはさっと頭を下げてから部屋を出て行った。
カチカチと壁掛け時計の音が静かな応接室に響いていた。
エドリックの商売に対する考え方も、私に対する裏切りも許せない。
だけど、彼らが去った今、私の中に残ったのは、言い知れぬ不安だった。
――どうしよう、大見得を切ってしまったけど、従業員の皆にはなんて説明しよう。
このフロルハイム領の領民や税収にも関わる話だから、領主様にも報告しないと。
カチカチと時計の針の音を聞いていたら、時計の小さな扉が開き、ポッポーと鳴いて白い鳩が飛び出した。
私は、時計を見て立ち上がり、ヴェルナ薬花商会の主任たちを集めることにした。
私は表へ出て、我が家の屋根にぶら下げてある招集鐘を鳴らした。
ゴーン、と重い音が隣の工房や庭に響く。
この鐘が鳴るのは、主任会議か緊急事態の時だけだ。
すぐにヘルカおばちゃんとゴードンおじがやって来た。
少し遅れて、弟のエミルを抱いた母も姿を見せる。
一番に声を発したのはエミルだった。
「ねーね。おめめが真っ赤だよ?」
母の腕からするりと下りたエミルは、私のスカートに顔を埋めた。
エミルの無邪気な言葉に、私は堪えたはずの涙がまたこみ上げた。
「……皆に話があるの。他の人達に聞かれたくないから、中へ入ろう」
日に焼けたタイルの壁。
母が魔導冷蔵庫から、冷えたお茶を出し、全員に配る。
我が家の中のダイニングにテーブルを囲んで全員が座った。
ここが我が商会の会議室だった。
「それでお嬢、話って言うのはなんだい? さっきエドリックが来たのと関係があるのかい?」
ヘルカおばちゃんが心配そうに私を見ていた。
私は全員の顔を見回した。
誰も急かさない。
ただ黙って私の言葉を待っていた。
私はごくりと唾を飲み込んでから、意を決して口を開いた。
「……婚約破棄されたの」
全員が目を見開いた。
ゴードンおじなんか、驚きすぎて椅子からひっくり返りそうになった。
「どうしてか教えてマティ」
母は、まるで自分のことのように目を潤ませて震えていた。
事態が分からないのか、エミルは不安そうに母に引っ付いた。
「……エドリックに、他に好きな人ができたんだって」
「なんだって!?」
大きな声を出したのはゴードンおじだ。
どんとダイニングテーブルに両手を打ち付け、お茶の入ったグラスが揺れた。
「信じられん! だって、あのエドリックが……くそ!」
幼いころから我が家に何度も遊びに来ていたエドリックの姿を知っているからか、ゴードンおじにも思うところがあるのだろう。
「はん! そんな、お嬢を捨てる見る目のない男なんか、こっちから願い下げだよ!」
普段は怒ったりしないヘルカおばちゃんが大きな体を震わせながら怒っていた。
「……それだけじゃないの」
私は膝の上で拳をぎゅっと握った。
「ポーションの取引も……打ち切りになった」
その場にいた全員が言葉を失った。
「お嬢。気にするな」
ゴードンおじが私の肩を叩いた。
「そうよ! お嬢を捨てた男のいる商会になんか、頼まれたってポーションを売ったりしないわ!」
ヘルカおばちゃんも大きく頷いた。
「でも……マルベルトからの取引額は、うちの商会の収入の七割ほどに当たるわ」
最後に現実を突きつけたのは、経理の母だった。
母の言葉に、全員が押し黙った。
「皆……本当にごめん。私がなんとかする」
「なんとかって、どうするの?」
ヘルカおばちゃんは、口と眉をへの字にした。
「ひとまず、領主様にもご報告に行ってくる。何か、一時でもいいから助けてもらえないか相談してみる。後は、新しい取引先は、必ず私が見つけてみせるから。皆、心配しないで」
私は、流れていた涙をごしごしと擦って、無理に笑顔をつくった。
もうこれ以上、皆を心配させたくなかった。
「おーい! マティ! 遊びに来たぞ!」
家の玄関から、聞きなれた無遠慮な声がして、私は額に手を当てた。
「こんな忙しい時に……何なのよ! カイル!」
すかすかと廊下を歩く音が聞こえて、男がひょっこりとダイニングに顔を出した。
ダイニングの入口に黒髪の頭をぶつけそうなくらいの長身。
仕立て屋に作らせたのであろうサイズのあった上等なシャツを着崩して着ている。
「よ、マティ、元気にしてたかって……なんだこれ? 葬式の相談か?」
私は、この無神経な男を睨みつけた。




