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プロローグ



この世界には「ジョブ制度」と呼ばれる制度が存在する。


正式名称を、帝国戦技適性分類制度という。


名前だけ聞けばたいそう立派で、帝都の偉い学者が銀縁眼鏡を押し上げながら考えたような響きがある。実際その制度を作った者たちは大真面目だったし、運用している軍務府の役人たちも、いつだって帳簿と測定器と不愛想な顔つきを携えていた。


ジョブ制度とは、簡単に言えば帝国臣民一人一人の才能を測り、その者にふさわしい役割を国家が決める仕組みである。


魔力が高ければメイジ。

体格が良ければナイト。

視力が良ければアーチャー。

足が速ければスカウト。

手先が器用ならエンジニア。

治癒魔法に適性があればヒーラー。


そして魔力が低く、武器の扱いもぱっとせず、それでも身体だけは丈夫そうな者には、モンクという分類が与えられることが多かった。


もちろん、モンクは由緒あるジョブである。拳と蹴り、呼吸と鍛錬、己の肉体だけを頼りに戦場を渡る、古くから伝わる戦技職だ。伝説の中には素手で魔獣の牙をへし折った拳聖や、鎧を着た騎士を指一本で転がした達人も登場する。


しかし現実の軍学校での扱いは、もう少し慎ましい。


「おい、モンク候補。あっちの荷物を運べ」


「おい、モンク候補。訓練場の石をどけろ」


「おい、モンク候補。ついでに水も汲んでこい」


このように、古代の栄光と現代の雑用はしばしば同じ制服を着せられて同じ名札を付けられる。


灰の大陸の中央に広がるガルバディア帝国では、ジョブ制度こそが人生の分かれ道だった。帝国軍務府の分類局が行う適性検査によって、未来の戦士、魔導士、技術者、軍医、官吏、労働兵が選別される。村の子どもたちは皆その検査の日を恐れ、同時に期待していた。


恐れる理由は、結果が悪ければ人生が狭くなるから。

期待する理由は、結果が良ければ人生が跳ね上がるから。


辺境の村に生まれた者でも、ジョブ認定で高評価を得れば、帝都の軍学校へ進める。平民の子でも、戦功を立てれば職能爵位を得られる。灰色の空の下で土を耕していた少年が皇帝の軍旗を背負う騎士になることさえ、制度上は不可能ではなかった。


制度上は、というところが少し大事である。


帝国の制度はいつもそうだった。立派な門は誰にでも開かれていると説明される。実際に門までたどり着くための道は、貴族の子には石畳、平民の子には泥道、辺境の子には崖に近い坂道になっている。役人たちはそれを「個人差」と呼び、村人たちは「世の中」と呼んだ。


灰冠山脈の西端、地図の端に小さく墨で打たれたような村、ロシュフォール村にも、その世の中はきちんと届いていた。


ロシュフォールは、帝都の役人が見れば「西部農鉱複合地域第七補給区所属小村落」と記録するような場所である。村人たちはそんな長ったらしい呼び名を一度聞いただけで忘れ、いつも通りロシュフォールと呼んでいた。山から吹き下ろす風は鉄の匂いを含み、畑の土は火山灰を混ぜたように黒く、雨上がりには道のくぼみに鈍い銀色の泥水が溜まる。春は短く、夏は埃っぽく、秋は収穫と冬支度に追われ、冬は空まで凍りついたように低く沈む。


村の中央には古い井戸があり、その横には広場と呼ぶには少し狭い空き地があった。収穫祭の夜にはそこで火が焚かれ、子どもたちが焦げた芋を奪い合い、老人たちは昔の戦争と昔の酒の話をした。広場の北側には小さな祠、南側には鍛冶小屋、西側には村長の家、東側には板張りの集会所が並んでいる。集会所の壁には帝国暦、徴税表、兵役告知、そして少し色褪せた軍務府の布告が貼られていた。


その布告には、硬い文字でこう記されている。


「十五歳以上十八歳以下の帝国臣民は、分類局による第一種臣民戦技適性測定を受ける義務を有する」


村の子どもたちは、文字を覚えるより先にその布告の意味を覚えた。


自分たちがいつか測られるということ。

測られた結果によって、村に残る者、町へ出る者、軍へ行く者、鉱山へ回される者が決まるということ。

そして、運が良ければ人生が広がり、運が悪ければ「おまえにはこれが向いている」と決められた場所で一生を過ごすということ。


ゼル・アークライトも、その布告をずっと見上げて育った。


彼の家は村の外れ、山道へ続く坂の途中にあった。石積みの低い塀と、風でよく鳴る木戸、母が育てる薬草畑、薪を積んだ納屋、それから父が残した古い稽古場。アークライト家は裕福ではなかったけれど、貧しさに押しつぶされるほどでもなく、村人たちからは「働き者の家」と見なされていた。


家族は六人だった。


母のマイラは、静かな声で家の中を整える人だった。洗濯物を干しながら明日の天気を当て、鍋の湯気を見ながら子どもの体調を読み、薬草の葉を指先で撫でるだけで使い頃を見分けた。若い頃には町の治療院で見習いをしていたらしく、村の女たちは腹痛や切り傷があると、まず治療師の家へ行く前にマイラの家を訪ねた。


長兄のノエルは、剣の才に恵まれていた。彼が木剣を握ると、ただの村の稽古場が少しだけ軍学校の訓練場めいて見えた。足運びは素直で、肩の力は抜け、相手がどこへ動くかを読むのが早い。村の自警団長は酒を飲むたびに、「ノエルは帝国軍に行けばナイトも狙える」と言った。酔っていないときにも同じことを言ったので、たぶん本気だったのだろう。


次兄のトマは、魔力を扱うのが得意だった。火打ち石を使わず、指先に小さな火を灯して台所の竈に火を入れる。それだけのことなのに、近所の子どもたちは目を丸くし、老人たちは感心したように頷いた。トマはそのたびに少し得意げな顔をしたものの、調子に乗って蝋燭を五本まとめて灯そうとした日には前髪を焦がし、半日ほど母に叱られた。


妹のリナはまだ幼かった。栗色の髪を二つに結び、薬草畑の間を小動物のように駆け回る。母譲りの器用さがあり、よく似た葉の違いをすぐに覚えた。村の治療師はリナの手元を見て、「将来はヒーラーの適性が出るかもしれない」と言った。リナはそれを聞いて喜び、翌日から家族全員の擦り傷に薬草を貼ろうとした。傷のないノエルの腕にも貼ろうとしたので、兄妹の間で小さな逃走劇が起こった。


そして三男のゼル。


ゼル・アークライトは、よく食べ、よく走り、よく転び、よく怒られ、よく笑う少年だった。黒に近い茶色の髪はいつも寝癖か埃で跳ねており、瞳は灰色の空の下でも妙に明るく見えた。体は丈夫で、熱を出して寝込むことはほとんどない。畑仕事も薪割りも水汲みも嫌がらなかったし、むしろ力仕事を任されると少し誇らしげに胸を張った。


問題は、才能というものが彼を避けて通っているように見えることだった。


剣を持てば、振りは大きすぎ、足は絡まり、木剣はしばしば自分の脛を叩いた。ノエルは最初こそ真面目に教えてくれたものの、ゼルが三日続けて同じ足の運びを間違えたあたりで、眉間に皺を寄せる時間が増えた。


「ゼル、相手を見るんだ。木剣じゃない。相手の肩、腰、足を見る」


「見てる」


「見ていない」


「見てるって。兄さんの顔が怖いところまで見えてる」


「顔じゃない」


「じゃあ顔を隠してくれ」


このあたりで稽古はよく中断された。


魔法に関しては、もっと悲惨だった。トマが火を灯す姿に憧れ、ゼルも何度も試した。指を立て、息を整え、体の奥にあるらしい魔力を感じようとする。村の子どもたちの中には、初めての練習で小さな光を出せる者もいた。火花だけでも出れば褒められた。指先が温かくなるだけでも見込みありとされた。


ゼルの場合、何も起こらなかった。


本当に、何も。


指先は冷えたまま、空気は揺れず、火花も光も煙も出ない。あまりに何も起こらないため、トマが不安そうにゼルの手を覗き込み、「もしかして逆にすごいのか?」と言ったことがある。ゼルは期待した。するとトマは続けて、「ここまで何もないのは珍しい」と言った。褒め言葉として受け取るには、少しばかり無理があった。


母はゼルを責めなかった。リナも責めなかった。ノエルはときどき厳しい顔をしたものの、悪意があるわけではない。トマは軽口を叩いたあと、ゼルが本気で落ち込んでいるとわかると、自分の焼き菓子を半分くれた。


それでも村の空気は優しくない。


田舎の村において、人の評判は麦の根より広く、煙突の煙より早く立ち上る。ノエルは剣の才がある。トマは魔力がある。リナは治療師向きかもしれない。ではゼルは何に向いているのか。大人たちは悪気なく首を傾げ、子どもたちは悪気を隠さず笑った。


「ゼルは丈夫だから、きっと荷物持ちだな」


「魔力がないなら、魔獣に見つからないんじゃない?」


「いや、魔獣だって食べる相手は選ぶだろ」


ゼルは笑い返した。笑い返せば負けていないように見えるからだ。口喧嘩にも応じた。腕相撲では勝てる相手もいた。走り回って泥だらけになれば、誰が何を言ったか一時的に忘れられた。


それでも夜になると、胸の奥に小さな石のようなものが残った。


自分には何もないのではないか。


その考えは、冬の隙間風のように静かに入ってきて、布団の中でも消えなかった。


ゼルの父、ガレン・アークライトは、村で少しだけ伝説めいた存在だった。


少しだけ、というところが重要である。帝国全土に名を知られた英雄ではない。吟遊詩人が金貨をもらって歌うような人物でもない。帝都の記録官が分厚い軍功録に名を刻むほどの将軍でもない。それでもロシュフォール村では、ガレンの名を知らない者はいなかった。


若い頃のガレンは、村の自警団から帝国軍へ徴用され、灰冠山脈沿いの魔獣討伐戦で功を立てたと伝えられている。大きな鉄斧を持ち、盾も持たず、山犬型の魔獣を三体まとめて打ち倒した。崩れた坑道から仲間を背負って帰った。吹雪の中で三日間行軍し、斥候部隊を救った。話す人によって武器が斧から剣になり、敵が三体から十体になり、吹雪が一週間に伸びた。村の話はだいたい干し肉と同じで、時間が経つほど味が濃くなる。


ゼルが覚えている父は、伝説よりもっと生活に近い人だった。


大きな手。低い笑い声。薪を割る音。革帯に下げた古い金属札。夜、炉辺で砥石を動かす姿。稽古場でゼルを肩に担ぎ上げ、「戦士に必要なのは、まず飯を残さないことだ」と真顔で言った横顔。


「父さん、本当にそれが一番なの?」


幼いゼルが尋ねると、ガレンは重々しく頷いた。


「一番かどうかは状況による。二番かもしれない」


「じゃあ一番は?」


「よく寝ることだ」


ゼルは幼心に、戦士とは思ったより忙しくない職業なのだと理解した。


ガレンはゼルの才能について一度も失望を口にしなかった。ノエルには剣を教え、トマには魔力の扱いに気をつけろと注意し、リナには薬草を踏まない歩き方を教え、ゼルには転び方を教えた。


「転び方?」


「転ばない人間はいない。強い奴は、転ばないんじゃなくて、転んだあとに立つのが早い」


「じゃあ僕は強いかも。よく転ぶし」


「見込みがあるな」


父はそう言って笑った。


ゼルはその言葉を、今でも宝物のように抱えている。


ガレン・アークライトが行方不明になったのは、ゼルが十歳の冬だった。


その年、灰冠山脈の西側で鉱山道が崩れ、近隣の村々に魔獣の群れが降りてくるという噂が広がった。帝国軍の巡回部隊だけでは手が足りず、各村の自警団にも協力要請が出た。ガレンは古い装備を整え、数人の男たちと共に山へ向かった。


出発の朝、空はひどく白かった。雪雲が山の稜線を隠し、家の前の薬草畑には霜が降りていた。母は厚手の外套を父に渡し、ノエルは黙って荷物を運び、トマは寒さで鼻を赤くしながら見送った。リナはまだ小さく、母のスカートを握っていた。


ゼルは父の手袋を掴んで離さなかった。


「僕も行く」


「おまえは家を守れ」


「ノエル兄さんがいる」


「兄さんは母さんを手伝う。トマは火の番。リナは薬草畑の見張り。ゼルは転んでも立つ係だ」


「それ、何の係?」


「大事な係だ。家の中が暗くなりすぎないようにする」


幼いゼルには意味がよくわからなかった。わからないまま、父の手袋を強く握った。


ガレンはその逞しい膝を折り、ゼルと目線を合わせた。雪の匂いのする大きな手が、ゼルの頭に置かれた。


「ゼル。強くなる方法を一つ教えてやる」


「剣?」


「違う」


「魔法?」


「違う」


「じゃあ斧?」


「もっと難しい」


ゼルは息を呑んだ。父は少しだけ笑った。


「昨日より一つだけ、できることを増やせ」


それが父と交わした最後の会話になった。


山へ向かった一団は、三日後に戻る予定だった。五日経っても戻らず、七日目に吹雪が村を閉ざした。十日目、自警団の二人だけが帰還した。凍傷で指を失いかけ、意識も曖昧だった彼らは、崩れた鉱山道、濃い霧、見たことのない黒い魔獣、そして仲間を逃がすために残ったガレンのことを語った。


遺体は見つからなかった。


帝国の記録では、ガレン・アークライトは「山岳魔獣災害における行方不明者」とされた。村人たちは彼を死んだものとして扱うべきか、生きていると信じるべきか、しばらく迷った。母は黒い喪服を出さなかった。父の椅子も片付けなかった。古い稽古場の壁には、父の金属札と革の手甲が掛けられたまま残された。


ゼルは、父が帰ってくる夢を何度も見た。


雪を払って戸口に立つ父。

笑いながら「飯はあるか」と言う父。

少し痩せていて、傷も増えていて、それでも生きて帰ってくる父。


夢から覚めるたび、家の中は静かだった。


父の不在は、アークライト家の形を少しずつ変えていった。


ノエルは早く大人になろうとした。木剣の稽古量を増やし、畑仕事も黙々とこなし、村の自警団の見回りにも加わるようになった。厳しい口調が増えたのは、責任を背負おうとしたためなのだろう。ゼルにはそれがわかる日もあれば、わからない日もあった。


トマは家の中を明るくしようとした。火を灯し、冗談を言い、リナを笑わせ、母の手伝いをする。軽薄に見えることもあったけれど、夜中にこっそり台所で父の椅子を見つめている姿を、ゼルは何度か見た。


母は泣かなかった。少なくとも子どもたちの前では。彼女は畑を守り、家計を計算し、薬草を乾かし、村人の傷を手当てし、父の名が出ると静かに頷いた。その横顔は冬の井戸水のように澄んでいて冷たく、ゼルは何を言えばよいのかわからなかった。


ゼルだけが、うまく変われなかった。


父のような戦士になりたいという夢は、父が消えてからさらに強くなった。強くなったというより、ほかの夢がそこに吸い込まれてしまった。父を探しに行きたい。父が守ったものを知りたい。父のように誰かを助けたい。父の言葉が嘘ではなかったと証明したい。


そのために剣を振った。

何度も失敗した。


魔法を試した。

何度も何も起こらなかった。


走った。

途中で転んだ。


腕立てをした。

十回目で潰れ、翌日腕が上がらなくなった。


それでもゼルは続けた。父が言ったからである。昨日より一つだけ、できることを増やせ、と。


一つだけなら何とかなる。ゼルはそう思った。


昨日より一回多く腕立てをする。昨日より少し遠くまで走る。昨日より重い薪を運ぶ。昨日より早く起きる。昨日より長く息を止める。昨日より上手に転ぶ。昨日より素早く立つ。


これが剣才や魔力に比べて意味のある努力なのか、ゼルにはわからなかった。ノエルが木剣を一振りするだけで村の少年たちが感心し、トマが指先に火を灯すだけで子どもたちが歓声を上げ、リナが薬草を言い当てるだけで大人たちが微笑む。ゼルの腕立てが一回増えたことを知る者はいない。薪を昨日より三本多く運んでも、誰も拍手しない。


それでも夜の稽古場で一人拳を握るとき、ゼルは確かに自分がどこかへ向かっているような気がした。


ほんの少しずつ。

本当に、笑ってしまうほど少しずつ。


ある年の春、ゼルは村の丘でノエルと稽古をしていた。


丘といっても美しい草原ではなく、岩と雑草が多い斜面だった。眼下にはロシュフォール村の屋根が並び、その向こうに黒い畑、さらに遠くに灰冠山脈の影が見えた。風は冷たく、空は薄く曇っていた。


ノエルは木剣を構え、ゼルは同じく木剣を握っていた。すでに三度打ち込んで、三度とも軽くいなされている。四度目には足が滑り、ゼルは見事に尻もちをついた。


ノエルはため息をついた。


「ゼル、力みすぎだ。剣を握り潰すつもりか」


「握り潰せたら強そうじゃない?」


「剣がなくなる」


「拳で戦えばいい」


「それなら最初から剣を持つな」


ゼルは起き上がり、膝についた土を払った。ノエルの言葉は正しい。正しすぎて、少し腹が立つ種類の正しさだった。


「兄さんはいいよな。何でもすぐできるし」


口に出したあとで、ゼルは少し後悔した。ノエルの顔が変わったからではない。むしろ変わらなかったからだ。長兄は木剣を下ろし、村の方を見た。


「すぐできるわけじゃない」


「できてるじゃん」


「おまえが見ていない時間に練習している」


ゼルは言い返せなかった。


ノエルは続けた。


「父さんもそうだった。村の人たちは父さんを伝説みたいに言うけど、父さんは毎朝誰より早く起きていた。手の皮が破れても斧を振っていた。俺は見ていた」


「僕だってやってる」


「知っている」


その言葉は意外だった。ゼルは顔を上げた。ノエルは相変わらず村を見下ろしていた。


「おまえは諦めが悪い。そこだけは父さんに似ている」


褒められたのか、そこだけと言われたのか、判断が難しかった。ゼルは少し考え、都合の良い方を選ぶことにした。


「じゃあ、けっこう見込みある?」


「見込みがあるかどうかは分類局が決める」


「兄さんは冷たい」


「帝国はもっと冷たい」


ノエルの声には、十五歳の少年にしては重い響きがあった。彼はすでに分類局の検査を意識している。自分が村から出るかもしれないこと、帝国軍に進むかもしれないこと、父の不在のあとに家をどう支えるべきかということ。それらを考えている顔だった。


ゼルは木剣を握り直した。


「僕も帝国軍に行く」


ノエルは振り返った。


「何のジョブで?」


「戦士」


「戦士は正式分類じゃない」


「じゃあ、すごい戦士」


「もっと正式じゃない」


「ナイト」


「剣で俺に一度も勝てないのに?」


「メイジ」


「火花も出ない」


「アーチャー」


「この前、的の隣にいた自警団長の帽子を射た」


「あれは風」


「無風だった」


ゼルは唇を結んだ。ノエルは少しだけ表情を緩めた。


「ゼル。夢を見るなとは言わない。父さんのことを忘れろとも言わない。けれど、分類局の検査は容赦がない。期待しすぎると痛い目を見るぞ」


「転んでも立てばいい」


父の言葉を返すと、ノエルは黙った。


沈黙の中で、風が二人の間を抜けた。やがてノエルは木剣を構え直した。


「なら、立て。もう一本」


ゼルは笑った。今度は足を滑らせないように、地面を踏みしめた。


その春の終わり、ロシュフォール村に軍務府から正式な通達が届いた。


分類局の巡回検査隊が来る。


村長が集会所の鐘を鳴らしたのは、夕方近くだった。畑から戻った者、鍛冶小屋から顔を出した者、洗濯物を抱えた者、子どもを連れた者たちが広場に集まる。村長は皺だらけの手で封書を開き、帝国印の入った紙を掲げた。


「帝国軍務府戦技分類総監局より通達。帝国暦七三二年、麦熟月十二日、ロシュフォール村において第一種臣民戦技適性測定を実施する。該当年齢の者は全員、身分札を持参のうえ、日の出より集会所前広場に集合すること」


広場がざわめいた。


誰かの母親が小さく息を呑み、若者の一人がわざとらしく笑い、老人が「とうとう来たか」と呟いた。子どもたちは互いの顔を見た。期待で頬を赤くする者もいれば、泣きそうな顔をする者もいた。


ゼルは胸の中で何かが跳ねるのを感じた。


分類局が来る。


測定器が来る。役人が来る。帝国が来る。自分の中に何があるのか、何がないのか、正式に告げられる日が来る。


怖くないと言えば嘘になる。


楽しみではないと言っても嘘になる。


その夜、アークライト家の食卓はいつもより静かだった。豆の煮込みと黒パン、乾燥肉を刻んだスープ。リナは検査対象ではないので気楽なはずなのに、兄たちの雰囲気を察して口数が少ない。トマはスプーンをくるくる回しながら、妙に明るい声を出した。


「俺、メイジになったらどうしようかな。火属性かな。いや、雷も格好いいよな。台所で雷は使い道がないけど」


母が即座に言った。


「台所で雷を使う子は、台所に入れません」


「じゃあ火で」


「前髪を焦がさないなら」


トマは無言で前髪を押さえた。


ノエルは食事の手を止めず、淡々としていた。ゼルはその落ち着きが少し羨ましかった。長兄はきっと良い評価を受ける。村の誰もがそう思っている。本人も口には出さないだけで、自分の進む道をある程度見ているのだろう。


「ゼル兄は何になるの?」


リナが尋ねた。


ゼルは胸を張った。


「伝説の戦士」


トマが吹き出しかけ、母に睨まれて咳払いに変えた。ノエルは咳き込みながら水を飲んだ。


リナは目を輝かせた。


「お父さんみたいな?」


「そう」


「じゃあ、いっぱいご飯食べないと」


「父さんの教えをよく理解しているな、リナ」


ゼルが真剣に頷くと、トマが今度こそ笑った。


食卓に少しだけ温かさが戻った。母も小さく笑い、ノエルの口元もわずかに緩んだ。その瞬間、ゼルは心のどこかで願った。このまま時間が止まればいい。検査の日など来なければいい。自分の中身を誰にも測られず、夢だけを抱えていられればいい。


けれど帝国の暦は止まらない。


麦熟月十二日。


夜明け前から村は落ち着かなかった。鶏が鳴くより早く母親たちが起き、該当年齢の子どもたちに洗った服を着せ、髪を整え、身分札を持たせた。広場には普段見ないほど人が集まった。自分の子が検査を受ける家族だけでなく、野次馬も多い。分類局の検査は、村にとって数年に一度の大事件だった。


朝霧の向こうから、馬車の列が現れた。


先頭には帝国軍の小旗。灰地に黒い鷲、中央に剣と秤の紋章。馬車は三台。護衛兵が六名。鉄灰色の外套を着た役人が数名。彼らの顔は、まるで朝から人生を測ることに何の疑問も持っていないように無表情だった。


馬車から運び出された測定器は、村人たちの目を引いた。


魔力測定盤。筋力計。反応球。視覚板。血紋記録針。属性石。精神応答札。どれも帝都の工房で作られたらしく、黒い金属と磨かれた硝子でできていた。村の子どもたちはそれらを見て、恐れと好奇心を半分ずつ浮かべた。


検査官の一人が進み出た。


細身の男で、年齢は四十前後。髪をきっちり撫でつけ、片眼鏡をかけ、手には厚い記録板を持っている。彼は広場に集まった村人を一瞥し、よく通る声で告げた。


「帝国軍務府戦技分類総監局、西部巡回検査隊主任検査官、ヴィクトル・グレイムである。本日、ロシュフォール村における第一種臣民戦技適性測定を実施する。該当者は呼名に従い、順に検査を受けよ。虚偽申告、逃亡、測定妨害は帝国法により処罰対象となる」


村全体が静まり返った。


ヴィクトル主任検査官は、静けさを満足とも不満ともつかない顔で受け止めた。


「なお、本測定は帝国臣民の資質を正しく把握し、適切な教育、徴用、軍事配置を行うためのものである。恐れる必要はない。帝国は諸君の才能を無駄にしない」


その言葉を聞いて、ゼルは思った。


才能がなかった場合は、何を無駄にされるのだろう。


呼名が始まった。


最初の数人は村の少年少女だった。筋力、視力、魔力、反応、記憶、命令理解。検査は淡々と進み、役人たちは短い言葉で結果を記録していく。ときどき「弓射系見込み」「工兵補助適性」「農務徴用継続」などの言葉が聞こえ、そのたびに家族の表情が明るくなったり曇ったりした。


ノエルの名が呼ばれたとき、広場の空気が少し変わった。


長兄は落ち着いて前へ出た。木剣ではなく検査用の模擬剣を握り、型を示し、反応球を打ち返し、盾を構えて衝撃に耐えた。主任検査官は初めて少しだけ眉を動かした。自警団長は腕を組み、まるで自分の手柄のように頷いていた。


「剣盾系適性、高。筋力、持久、反応、いずれも基準以上。命令理解良好。暫定分類、ナイト候補」


広場にどよめきが起こった。


母は静かに目を伏せた。トマは兄の背中に向けて小さく拳を上げた。リナは「すごい」と呟いた。ゼルも拍手した。胸の奥に羨望が刺さったけれど、それ以上に誇らしかった。ノエルはすごい。自分の兄は、やはりすごいのだ。


次にトマが呼ばれた。


彼は緊張を隠すためか、検査官に向かって妙に丁寧な礼をした。魔力測定盤に手を置くと、青白い光が盤面に広がった。属性石の一つが赤く明滅し、続いて黄色が弱く光る。トマの顔が明るくなった。


「魔力量、中上。火属性親和、高。雷属性微反応。制御は年齢相応、やや不安定。暫定分類、メイジ候補。火属性基礎課程推奨」


近所の子どもたちが小さく歓声を上げた。トマは照れくさそうに頭を掻いた。母は「不安定」という部分に反応して少し目を細めた。トマはそれに気づき、帰宅後の説教を予感した顔になった。


ゼルは手のひらに汗を感じていた。


ノエルはナイト候補。

トマはメイジ候補。

リナもいつかヒーラーかもしれない。


では、自分は。


呼ばれるまでの時間がやけに長かった。広場の音が遠くなり、測定器の金属音だけが耳に残る。ゼルは父の言葉を思い出した。昨日より一つだけ、できることを増やせ。転んだあとに立つのが早い奴は強い。


「ゼル・アークライト」


その声が響いた。


ゼルは前へ出た。足は震えていない。少なくとも、自分ではそう思いたかった。


主任検査官ヴィクトルは記録板を見た。


「アークライト家、三男。父、ガレン・アークライト。山岳魔獣災害により行方不明。兄二名は検査済み」


父の名が公的な声で読み上げられると、ゼルの胸が少し冷えた。父は書類の中ではそういう扱いなのだ。山で笑い、薪を割り、転び方を教えた人ではなく、行方不明者という一行。


「検査を始める」


最初は筋力測定だった。


ゼルは握力計を握った。力いっぱい握った。顔が赤くなるほど握った。検査官は数値を読み、記録した。悪くはない。とても良いわけでもない。村の力仕事をしている少年としては普通より少し上。ゼルは少し安心した。


次に持久力。一定速度で足踏みを続け、呼吸と脈を測る。これは得意だった。息は上がったけれど、思ったより長く続けられた。検査官の一人が「体力はある」と呟いた。ゼルは心の中で小さく勝利した。


反応測定。浮かぶ球を手で叩く。これは難しかった。球は予想外の方向へ動き、ゼルは二度空振りし、一度は勢い余って台に額をぶつけた。広場の端で誰かが笑い、トマがその誰かを睨んだ。


視覚、聴覚、記憶。どれも普通。空間把握は低め。命令理解は「聞いてはいるが先走る傾向」と記録された。ゼルは少し納得がいかなかった。先走ったのではなく、早く結果を出そうとしただけである。たぶんそれを先走ると言うのだろう。


最後に魔力測定。


広場が少し静かになった。アークライト家の人々は、ゼルに魔力がないことを知っている。村の多くの者も何となく知っている。それでも正式な測定は初めてだった。


魔力測定盤は黒い硝子のような板で、中央に掌を置くくぼみがある。トマのときは青白い光が広がった。ほかの子どもたちも、強弱はあれ何らかの反応を示した。


ゼルは手を置いた。


冷たかった。


主任検査官が言った。


「深く呼吸し、体内の魔力を掌へ集める意識を持て」


ゼルは目を閉じた。


体内の魔力。何度も探したもの。どこにも見つからなかったもの。父の言葉、母の手、兄の剣、トマの火、リナの薬草畑。自分の中にある何か。あるはずの何か。


掌に意識を集める。


測定盤は沈黙した。


もう一度。


沈黙。


三度目。


沈黙。


硝子板は黒いまま、光も揺らぎも示さなかった。検査官の一人が測定器を軽く叩いた。別の検査官が予備の属性石を近づけた。何も起こらない。


主任検査官ヴィクトルは、片眼鏡の奥の目を細めた。


「魔力反応、なし」


広場の空気が重くなった。


「再測定」


ゼルは再び手を置いた。今度は息を止めるほど集中した。指先が痛くなるほど力を込めた。測定盤はやはり沈黙した。


「魔力反応、なし。記録、魔力量ゼロ」


魔力量ゼロ。


言葉は、思ったより静かに落ちてきた。


誰も大声で笑わなかった。むしろ、その静けさがつらかった。笑われた方が言い返せる。沈黙は、すでに答えが出ている場所にだけ生まれる。


ゼルは手を下ろした。掌に黒い硝子の冷たさが残っている。母の顔は見られなかった。ノエルの顔も、トマの顔も、リナの顔も。


主任検査官は記録を続けた。


「総合戦技評価、下。魔導適性、不可。剣盾系、不可。弓射系、不可。斥候系、低。工兵技術系、低。治癒支援系、不可。身体耐久および基礎体力に一部見込みあり」


一部見込みあり。


ゼルはその言葉にすがりかけた。


「暫定分類、第七系統格闘修練系、モンク候補。ただし正規戦闘課程ではなく、軍学校附属労務訓練区への配属を推奨」


広場がざわついた。


軍学校。

その言葉だけなら夢の入り口に聞こえる。


労務訓練区。

その後ろに付いた言葉が、夢の入り口を裏口に変えた。


主任検査官は事務的に説明した。


「人員不足に伴い、西部管区から一定数の若年労務徴用対象者を帝国軍学校附属施設へ送ることとなっている。ゼル・アークライトは体力値に最低基準を満たすため、軍学校附属労務訓練区への配属対象とする。主業務は施設維持、訓練補助、物資運搬、基礎体力訓練。戦闘課程への編入は現時点で非推奨」


ゼルは言葉の意味を一つずつ拾った。


軍学校へ行く。

戦闘課程ではない。

ナイトでもメイジでもない。

モンク候補。

労務訓練区。

荷物運び。


父のような戦士になりたいと思っていた少年に与えられた最初の帝国公認の役割は、訓練場の石をどけ、水を汲み、物資を運ぶことだった。


広場の端で、誰かが小さく言った。


「結局、丈夫なだけか」


その声が誰のものか、ゼルにはわからなかった。わからないままでよかった。わかっていたら、きっとその顔を一生忘れられなかった。


検査は続いた。ゼルは列から外れ、家族の方へ戻った。リナが泣きそうな顔で袖を掴んだ。


「ゼル兄……」


「大丈夫」


自分でも驚くほど明るい声が出た。


「軍学校だぞ。ほら、すごくない? 兄さんたちと同じ帝国関係者ってやつだ」


トマが何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。ノエルは静かにゼルを見ていた。母はゼルの肩に手を置いた。その手の温かさに触れた瞬間、ゼルは泣きそうになった。泣きそうになったので、笑った。


「労務訓練区ってことは、たぶん飯も出るよな。軍学校の飯って強そうじゃない?」


「飯は強くありません」


母が言った。


「食べる人が強くなるの」


その声は少し震えていた。


ゼルは頷いた。


分類局の検査は夕方まで続き、村の子どもたちの未来は次々と紙に書き込まれていった。ある者は町の工房へ、ある者は農務継続へ、ある者は補助兵候補へ、ある者は軍学校へ。喜ぶ家族もあれば、沈む家族もあった。制度とは、たくさんの人生を同じ筆で書き分けるものなのだと、ゼルはその日初めて理解した。


夕暮れ、検査隊の馬車が村を去るころ、空は灰色から薄紫へ変わっていた。馬車の車輪が道に残した跡を、村の子どもたちが遠巻きに眺めている。ゼルは集会所の壁に貼られた新しい名簿を見上げた。


ノエル・アークライト。剣盾系ナイト候補。帝国西部軍学校戦闘課程推薦。

トマ・アークライト。魔導系メイジ候補。帝国西部軍学校魔導基礎課程推薦。

ゼル・アークライト。格闘修練系モンク候補。帝国西部軍学校附属労務訓練区配属。


三つの名前が並んでいる。


同じ家名。

同じ村。

違う未来。


ゼルは自分の名前を指でなぞった。紙の表面はざらついていた。


その夜、彼は一人で稽古場に入った。


壁には父の革手甲が掛かっている。古びて、傷だらけで、ところどころ縫い直されている。帝国軍の正式装備ではない。父が使い続けた、名もない道具だった。


ゼルはそれを見上げた。


「父さん」


声に出すと、稽古場の暗がりが少し揺れたような気がした。


「僕、軍学校に行くことになった」


返事はない。


「戦闘課程じゃない。労務訓練区。たぶん荷物運び。たぶん掃除。たぶん水汲み。もしかしたら皿洗いもある」


自分で言って、少し笑った。


「でも、軍学校だ」


ゼルは拳を握った。


「昨日より一つだけ、できることを増やせって言ったよな」


父の声は聞こえない。それでも、その言葉だけは胸の奥に残っている。


「じゃあ、やるよ。荷物運びでも、掃除でも、水汲みでも、皿洗いでも。全部昨日よりうまくなる。走る。鍛える。転んだら立つ。誰よりも立つ」


外では風が鳴っていた。山の方から、冬でもないのに冷たい風が下りてきていた。


ゼルは稽古場の床に拳をついた。腕立てを始める。


一回。

二回。

三回。


十回を過ぎたあたりで腕が震えた。十五回で肩が燃えるように痛んだ。二十回で床に潰れた。しばらく動けなかった。


埃の匂いがした。木の床は冷たかった。情けなさが喉の奥まで込み上げてきた。


それでも、ゼルは笑った。


「昨日は十九回だった」


誰も聞いていない稽古場で、彼は小さく呟いた。


その瞬間、彼自身にも聞こえないほど深い場所で、何かが微かに軋んだ。


魔力ではない。

血統でもない。

分類局の測定器に映る光でもない。

帝国の帳簿に記録される数値でもない。


まるで長い眠りについていた歯車が、初めてほんのわずかに動いたような、静かな変化。


ゼル・アークライトはそれに気づかなかった。


気づかないまま、もう一度腕を立てようとして、床に額をぶつけた。


「痛っ」


伝説の戦士への道は、今のところ非常に低い位置から始まっていた。


それでも、ロシュフォール村の夜空の下、灰冠山脈の影が眠るその片隅で、誰にも測れなかった才能が、誰にも祝福されないまま目を覚まそうとしていた。


魔力ゼロ。

最低評価。

モンク候補。

労務訓練区配属。


帝国の記録は、彼をそう記した。


記録官の筆は正確だった。

そして、決定的に足りていなかった。


ゼル・アークライトという少年の本当の価値は、初期値には存在しなかったからである。


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