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第1話 魔力ゼロの適性検査



…モンク、……モンクかあ……


いや、別に嫌ってわけじゃない。


拳で戦うとか、蹴りで敵を吹っ飛ばすとか、山奥で滝に打たれながら「ぬうん!」とか言って岩を割るとか、そういうのは普通に格好いいと思う。


思うんだけど。


帝国軍務府・戦技分類総監局、通称分類局の検査官が俺の前で分厚い書類をめくりながらやけに淡々とした声で告げた言葉は、俺の想像していた「伝説の戦士への第一歩」とはだいぶ違っていた。


「ゼル・アークライト。魔力量、零。魔力制御値、測定不能。筋力値、低位。反応値、低位。武器適性、低位下。総合戦技評価、低位下。暫定ジョブ指定――格闘修練系基礎、モンク候補」


村の広場が、妙に静かになった。


さっきまで鶏が鳴いていたし、子どもたちは荷車の影でこそこそ騒いでいたし、誰かの家の犬は分類局の馬に向かって一生懸命吠えていたのに、そのときだけ世界中の音が俺の結果を聞くために遠慮したみたいだった。


いや、遠慮しなくていいんだぞ。犬、おまえは吠えていてくれ。俺の心の中では今、だいぶ派手な悲鳴が上がっている。


「配属見込みは、帝国西部軍学校附属、労務訓練課程」


検査官はさらに書類へ何かを書き込んだ。労務訓練課程という聞こえは悪くない。訓練と付いているし、課程とも付いている。軍学校附属なんて言葉も混ざっているから、字面だけ見れば俺は今から帝国の未来を担う若者として、鉄と規律と栄光に満ちた道を歩み始める感じがする。


「主な任務は、施設維持、物資運搬、訓練補助、倉庫管理補佐、厨房支援、その他雑務」


完全に荷物運びだった。いや、その他雑務の幅が広すぎるだろ。俺の伝説、掃除道具置き場から始まるのか?


父さん、聞こえますか。あなたの息子は本日、帝国のために雑巾を握ることになりました。


ロシュフォール村の広場には、朝から帝国軍務府の黒い馬車が並んでいた。灰冠山脈の西端にあるこの村は帝都から見れば地図の端に付いた煤みたいな場所で、普段やって来る外の者といえば塩を売る商人か、修理道具を担いだ鍛冶職人か、道に迷った旅人くらいだった。そんな村に銀の徽章を付けた分類局の検査官たちが来たのだから、朝から大騒ぎだった。村長は三日前から髭を整えていたし、母さんは俺たち兄弟に「失礼のないように」と同じ注意を十二回くらい繰り返したし、妹のリナは検査官を見た瞬間に怖がって俺の後ろへ隠れた。


俺の後ろに隠れても、防御力はあまり期待できない。なにしろ俺は、家の中で一番よく転ぶ男だ。剣を振れば兄さんに笑われる。走ればトマに抜かれる。魔法を使おうとすれば、手のひらの上で火花すら生まれず、乾いた空気だけが寂しく流れる。


それでも俺は、父さんみたいな戦士になりたかった。


ガレン・アークライト。


俺の父さんは、昔、帝国軍で戦った戦士だった。村の大人たちは父さんの話をするとき、決まって声を少し低くする。まるで炉の奥に残った火種を覗き込むみたいに、「あの人は強かった」と言う。第二次大陸間戦争で青の大陸へ渡り、仲間を救い、部隊を生還させ、最後は記録から名前が消えた。死んだのか、どこかで生きているのか、誰もはっきり言わない。母さんは父さんの話になると、いつも少しだけ笑って、それから窓の外を見る。俺はその横顔を見るたびに、いつか父さんのことを自分の足で探しに行くと決めていた。


そのためには強くならなきゃいけない。強くなるには軍に入るのが一番だ。軍に入るにはジョブ適性検査で良い結果を出す必要がある。つまり今日こそ、俺の人生が華々しく始まる日になるはずだった。はずだったんだけどなあ。


「兄、ノエル・アークライト。暫定ジョブ、ナイト候補。戦技評価、中位上。帝国西部軍学校、正規戦闘課程への推薦可」


広場の端で、兄さんが静かに頭を下げた。ノエル兄さんは、俺と違って立っているだけで剣が似合う。背は高いし肩幅もあるし姿勢がまっすぐで、村の祭りで木剣を持つと、なぜか周りの子どもたちが自然に拍手する。俺が木剣を持つと、だいたい誰かが「畑の杭打ち?」と聞いてくる。同じ母さんから生まれたはずなのに、仕上がりに差がありすぎる。


「次兄、トマ・アークライト。暫定ジョブ、メイジ候補。魔力量、中位。属性傾向、火。魔力制御値、中位下。地方魔導基礎課程への推薦可」


「よっしゃ!」


トマが拳を握り、口の端を上げた。俺より二つしか違わないのに、魔法に関しては昔から妙に器用だった。薪に火をつけるときも、こいつは指先を鳴らすだけで小さな火を出せる。俺が同じことをしようとすると指だけ痛い。火の精霊か何かが俺を避けているのではなく、そもそも俺の中に火を呼ぶための材料がないらしい。分類局の検査器具は、その残酷な現実を銀の針一本で丁寧に証明してくれた。頼んでないのに親切だな、帝国。


「妹、リナ・アークライト。年齢未達につき正式判定外。簡易検査において治癒支援系反応あり。三年後、再測定を推奨」


「お、お兄ちゃん、治癒支援って、痛いことするの?」


「たぶん痛いことを治す側だぞ。リナが痛くされる側じゃない。たぶん」


「たぶんって言った……」


リナは俺の服の裾をつかみながら、涙目で検査官を見上げた。検査官は無表情のまま、書類に印を押した。あの人、赤ん坊が泣いても眉毛一本動かさない気がする。分類局の採用試験には、感情を帝都の地下倉庫に預けてくる項目でもあるのだろうか。


順番に結果が告げられ、最後に俺が残った。俺の番になったとき、母さんは少しだけ唇を結んだ。ノエル兄さんは腕を組み、トマは興味半分心配半分みたいな顔で俺を見て、リナは俺の手をぎゅっと握っていた。俺は胸を張った。胸を張るのは無料だ。結果がどうなるかは知らないけれど、せめて姿勢だけは未来の英雄っぽくしておきたい。


検査は朝から散々だった。


最初の筋力測定では、鉄の取っ手が付いた重りを持ち上げるよう言われた。俺は気合いを入れて腰を落とし、父さんが昔使っていた手袋の感触を思い出しながら、「ぬううう」と声を出した。重りは少し浮いた。ほんの少し。本当に、気のせいかどうか村長が揉めるくらい少し。隣でノエル兄さんが同じ重りを持ったときは、朝市で大根を選ぶみたいな顔をしていたので、俺は重りに悪意があるという説を一度胸にしまった。


反応測定では、検査官が革球を投げてきた。避けるか受けるかしろと言われたので、俺は真剣に見た。革球はまっすぐ飛んできた。俺の目はちゃんと追っていた。頭の中では華麗に横へ動く俺の姿も見えていた。現実の俺は、その場で一歩遅れて首を傾け、額の真ん中に革球を受けた。


「反応値、低位」


「今のは球が速かったんです」


「標準速度だ」


「標準が速いです」


検査官は返事をせず、書類に何かを書いた。きっと「言い訳傾向あり」みたいな余計な項目だ。帝国は本当に細かい。


武器適性では、木剣、槍、短弓、盾、訓練用短刀を順番に持たされた。木剣は振った瞬間に手首が負け、槍は長さに振り回され、短弓は弦を引く段階で腕が震え、盾は構えたまま後ろへ倒れ、短刀だけはわりと持ちやすかったのに、検査官から「料理用の持ち方に近い」と言われた。いや、短刀も刃物だろ。刃物を安全に扱えるのは長所じゃないのか。帝国軍には野菜を均等に切れる兵士が不要らしい。


魔力測定は、もっとひどかった。


広場の中央に置かれた黒曜石の台座には、銀色の輪と青い水晶がはめ込まれていた。検査官の説明によると、手を置けば体内魔力が水晶へ流れ、量と性質が色で示されるらしい。ノエル兄さんのときは薄い白光が灯り、トマのときは小さな赤い火花が水晶の中で踊った。リナが触れたときは淡い緑の光がぽわっと広がって、村のおばさんたちが「まあ」と声をそろえた。


俺は手を置いた。


水晶は沈黙した。


俺はもう少し強く手を押し付けた。


水晶は沈黙した。


念のため台座の角度を変えようとして、検査官に止められた。


「故障ですか?」


「機器正常」


「俺の手が冷たいとか」


「温度無関係」


「水晶が俺を嫌っている可能性は?」


「魔力量、零」


「水晶、正直すぎない?」


検査官は俺の冗談をきれいに無視した。笑ってくれとは言わない。せめて鼻で息を出すくらいしてくれてもいいじゃないか。


そんな検査の積み重ねによって、俺の結果は村中へ発表された。魔力量、零。戦技評価、低位下。モンク候補。労務訓練課程。こうして言葉を並べると、俺という存在が帝国の書類上で見事に小さく折り畳まれていく気がする。折り畳んだあと、端に「雑用向き」と書いて倉庫にしまわれそうだ。


「ゼル」


ノエル兄さんが俺の肩に手を置いた。兄さんの手は大きくて、重い。剣を握るために作られたみたいな手だった。


「落ち込むな。モンクは悪いジョブじゃない。戦場では武器を失うこともあるし、狭い場所では剣より拳が役立つこともある」


兄さんは真面目に慰めてくれている。そこに嘘はない。兄さんは優しい。優しいからこそ、言葉の端々に「まあ、かなり厳しいけどな」という現実が丁寧に包まれているのを感じる。


「うん、わかってる。俺、拳で頑張るよ」


「その前に基礎体力だな」


「最初から拳まで行かせてもらえないのか」


「おまえはまず、荷車を押すときに足を絡ませないところからだ」


兄さんの慰めは、真実の刃がよく研がれている。


トマが横からひょいと顔を出した。こいつは俺と目が合うなり、にやっと笑った。


「モンクってことはさ、筋肉で全部解決する感じ?」


「俺の筋肉はまだ話し合いの席についていない」


「じゃあ軍学校で鍛えれば? 労務訓練って、荷物運ぶんだろ。毎日やったら腕太くなるんじゃね?」


「おまえ、わりと前向きなひどいこと言うな」


「ゼルならいけるって。魔力ないぶん、火傷しないし」


「火を出せないから火傷しないだけだよ」


トマはからかっているようで、声の奥には心配が混ざっていた。リナは今にも泣きそうな顔で、俺の手を両手で握ったまま離さない。


「お兄ちゃん、遠くに行っちゃうの?」


「軍学校だからな。帝国西部軍学校って言ってたし、村からは少し遠いと思う」


「帰ってくる?」


「もちろん。帰ってくるし、そのときはものすごく強くなってる予定だ」


「どのくらい?」


「ええと……熊と腕相撲して、熊が気まずそうに笑うくらい」


リナは想像したのか、少しだけ笑った。よかった。俺の未来には、少なくとも熊を困らせる役目が残されている。


母さんはしばらく黙っていた。広場のざわめきが戻り、村人たちはそれぞれの結果について話し合い、検査官たちは器具を片付け始めている。黒い馬車の車輪には山道の泥がこびりつき、銀の徽章だけが朝の光を冷たく跳ね返していた。灰冠山脈から吹き下ろす風は、いつものように少し煤の匂いがする。


「ゼル」


母さんに呼ばれて、俺は背筋を伸ばした。母さんは父さんの革手袋を大事そうに持っていた。古くて、ところどころ縫い直されていて、指の部分には細かな傷が残っている。俺が子どもの頃、父さんが遠征に出る前に使っていたものだと聞いた。


「あなたが行きたいなら、私は止めません」


「うん」


「ただし、強がるために行くのなら、やめなさい。誰かを見返すためだけに行くのなら、長くは続きません」


母さんの声は静かだった。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。その静けさが、胸に重く落ちた。


俺は広場の土を見た。靴の先には細かい灰がついている。ロシュフォール村の道は、雨が降るとぬかるみ、晴れると灰が舞う。小さい頃から何度も転んだ道だ。父さんが歩いた道で、兄さんが鍛錬した道で、トマが魔法の火を暴発させて干し草を焦がした道で、リナが摘んだ花を俺に見せてくれた道だった。


「俺、父さんみたいになりたい。強くなって、誰かを助けられるようになりたい。今の結果が低いのはわかってるし、荷物運びから始まるのもわかった。わかったけど、軍学校に入れるなら、そこから頑張れると思う」


口に出してみると、思ったより単純だった。俺は別に、ナイトと呼ばれたいわけじゃない。メイジみたいに火を飛ばしたい気持ちは少しある。いや、かなりある。夜道で指先から火を出せたら便利だし、トマに毎回得意顔をされずに済む。とはいえ一番欲しいものは、名前の格好よさじゃない。


俺は、弱いままでいたくない。


母さんは俺を見て、少し困ったように笑った。


「あなたは本当に、変なところでお父さんに似ています」


「そこは格好いいところって言ってほしかった」


「格好いいところは、これから自分で増やしなさい」


母さんは革手袋を俺の手に載せた。少し大きい。父さんの手は、俺よりずっと大きかったのだろう。革は古いのに、手のひらへ不思議となじんだ。


「持っていきなさい。お守りです」


「ありがとう、母さん」


俺が手袋を握ると、トマが腰の袋をごそごそ探り、火打ち石を取り出した。


「これやるよ。魔法使えないと、火起こし大変だろ」


「おまえの優しさ、ところどころ刺さるな」


「実用的だろ?」


「ものすごく実用的だよ。ありがとう」


リナは小さな布包みを差し出した。中には乾燥させた薬草が入っていた。村の薬師から教わって、リナが自分で摘んだものだ。


「ケガしたら、これ使ってね。苦いけど効くって、おばあちゃんが言ってた」


「助かる。俺はたぶん、かなり使う」


「そんなにケガしないで」


「努力目標にします」


最後にノエル兄さんが、家から持ってきた木剣を俺へ差し出した。使い込まれていて、柄の部分は手汗で少し黒ずんでいる。兄さんが最初に鍛錬で使っていた木剣だ。


「軍学校では支給品があるはずだ。これは練習用に持っていけ」


「俺、武器適性低位下だけど」


「低いなら振ればいい」


「兄さん、言葉がまっすぐすぎて逃げ場がない」


「逃げる必要はない。振れ」


兄さんらしい励ましだった。剣の才能がある者から「振れ」と言われると、少しだけ腹が立つ。少しだけだ。ほとんどは嬉しかった。俺は木剣を受け取り、父さんの手袋と一緒に胸へ抱えた。なんだか急に荷物が増えた。物理的にも、気持ちの面でも。


分類局の検査は昼過ぎまで続き、村の若者たちの中から何人かが軍学校や職能院へ送られることになった。俺の幼なじみのミーナは弓射系補助員、鍛冶屋の息子バルドは工兵技術系の見習い、羊飼いの双子はなぜか片方がスカウト候補で片方が軍用獣調教師候補だった。二人は顔がそっくりなのに、帝国の検査器具には違いが見えるらしい。俺の魔力は見えなかったのに。いや、ないものは見えないか。水晶に謝っておこう。


出発は翌朝と告げられた。


早い。人生の転機というものは、もう少し荷造りの時間をくれてもいいと思う。俺は家へ戻り、母さんの指示で着替え、保存食、布、薬草、木剣、火打ち石、父さんの手袋を鞄に詰めた。リナは俺の鞄へ勝手に小さな石を入れようとしていた。聞くと、「寂しくないように村の石」とのことだった。気持ちはありがたいけれど、俺は軍学校まで石を運ぶために出世するわけではない。すでに労務訓練課程だから、石運びの未来が妙に現実味を帯びている。


その夜、家の食卓はいつもより少し豪華だった。母さんが山羊肉の煮込みを作り、トマが火加減を手伝い、リナが皿を並べ、ノエル兄さんは黙って薪を割っていた。俺は何か手伝おうとして鍋を持ち上げかけ、母さんに「明日出発する子が今夜火傷する必要はありません」と止められた。信用が薄い。まあ、過去に一度、鍋を落として床と足の両方を熱くした実績があるので、反論は難しい。


食事中、トマは軍学校の噂を得意げに話した。


「帝国西部軍学校って、でっかい訓練場が三つあるらしいぞ。あと、ナイト候補は毎朝鎧着て走るんだって」


「鎧着て走るのか。俺は服だけでも転ぶのに」


「メイジ候補は魔導演習棟に入れるらしい。いいなあ、俺もそのうち行きたい」


「行けるさ。おまえ、火を出せるし」


「ゼルも拳から火が出るようになるかもよ」


「それ、火傷では?」


ノエル兄さんがスープを飲みながら、真顔で言った。


「モンクには呼吸法がある。極めれば身体能力を大きく引き上げられると聞く」


「兄さん、今の話、俺が拳から火を出す話の続き?」


「火は出ない」


「そこは夢を残して」


「火を出したければ魔力がいる」


「現実で殴られた」


母さんが小さく笑った。リナも笑った。トマは椅子から転げそうなほど笑った。ノエル兄さんだけが、なぜ笑われているのかわからない顔をしていた。兄さん、そういうところだぞ。格好いいのに、たまに剣より鋭い天然が飛んでくる。


夜、俺はなかなか眠れなかった。


天井の梁を見上げながら、明日からのことを考える。軍学校。労務訓練課程。モンク候補。荷物運び。掃除。倉庫。厨房。その他雑務。頭の中で並べてみても、やっぱり英雄譚の始まりには見えない。せめて「選ばれし剣」とか「古代遺跡の秘密」とか「謎の少女との出会い」とか、そういう華が一つくらい欲しい。現時点で俺にあるのは、父さんの古い手袋と、火打ち石と、薬草と、兄さんの木剣と、低位下の評価票だ。華というより、旅立つ村人セットだな。


それでも、不思議と諦める気にはならなかった。


目を閉じると、父さんの背中を思い出す。実際の記憶はぼんやりしている。俺が小さい頃、父さんはすでに遠征が多く、家にいる時間は短かった。それでも、革手袋をはめた大きな手で俺の頭を撫でてくれたこと、木剣を握らせて「転んでも立て」と言ってくれたこと、村外れの丘から灰冠山脈を見ながら「強さは誰かを押し潰すためじゃなく、誰かを連れて帰るために使え」と話してくれたことは覚えている。


俺は強くなりたい。


ナイトじゃなくても、メイジじゃなくても、軍学校の雑用係みたいな始まりでも、父さんが言った強さに近づけるなら、それでいい。


翌朝、村の入口には分類局の馬車が待っていた。黒塗りの車体に銀の徽章。車輪は鉄で補強されていて、乗り心地より耐久性を優先した形をしている。さすが帝国、椅子にも優しさがなさそうだ。


見送りには家族だけでなく、村の人たちも来ていた。村長は相変わらず整えすぎた髭を撫で、鍛冶屋の親父はバルドの背中を叩き、ミーナの母親は娘に干し肉を持たせすぎて本人が傾いていた。出発する若者たちは、それぞれ不安そうだったり、誇らしげだったり、眠そうだったりした。俺は全部だった。不安で、少し誇らしくて、昨日眠れなかったせいで眠い。


「ゼル、背筋」


母さんに言われ、俺は慌てて姿勢を正した。


「行ってきます」


「無茶はしないこと」


「うん」


「食事はきちんと食べること」


「うん」


「返事だけ立派にして、あとで忘れないこと」


「……うん」


母さんは俺の頬に手を当てた。少し冷たい手だった。俺は急に、子どもの頃へ戻ったような気分になった。行きたくないわけじゃない。行くと決めた。それなのに、胸の奥がきゅっと縮む。村を出るというのは、思っていたよりずっと重い。


ノエル兄さんは俺の前に立ち、木剣の柄を軽く叩いた。


「毎日振れ」


「本当にそればっかりだな」


「毎日振れば、昨日よりはましになる」


「兄さん基準の励まし、嫌いじゃないよ」


トマは火打ち石の入った袋を指差した。


「火起こし失敗したら、俺を思い出せよ」


「思い出しながら腹立ちそう」


「それで元気出るだろ」


「出るかもしれない」


リナは泣いていた。俺はしゃがんで、妹の目線に合わせた。


「リナ、薬草ありがとう。大事に使う」


「全部使わないでね。ケガしすぎってことだから」


「じゃあ半分くらいで済ませる」


「半分もだめ」


「難しい注文だな」


リナは俺の首に抱きついた。小さな腕が震えていた。俺はその背中を軽く叩いた。守りたいものがあると、急に自分が強くなった気がする。気がするだけで、実際の筋力値は低位だ。現実は遠慮なく肩に乗ってくる。


分類局の検査官が出発を告げ、若者たちは馬車へ乗り込んだ。俺も鞄を抱えて車内へ入る。席は硬かった。予想通りだ。帝国の椅子は、座る者の覚悟を試す設計らしい。


馬車が動き出す。車輪が石を噛み、村の道をゆっくり進む。窓から顔を出すと、母さんが手を振っていた。ノエル兄さんは腕を組んで立ち、トマは大きく両手を振り、リナは母さんのスカートを握りながら泣いていた。村長の髭は朝日に輝いていた。正直、最後の印象としては少し強すぎる。


ロシュフォール村が遠ざかる。


俺は窓枠を握り、灰冠山脈の稜線を見た。灰色の山肌に朝の光が薄くかかり、山頂から流れる雲がゆっくり動いている。あの山の向こうに帝国が広がり、その先に央海があり、さらに向こうには青の大陸がある。父さんが消えた場所。戦争が始まろうとしている場所。俺にはまだ遠すぎる世界だった。


馬車が村道から石の多い街道へ入ると、揺れが一気に強くなった。


「うおっ」


俺は座席から少し浮き、慌てて体勢を立て直した。向かいに座っていたミーナが笑いをこらえ、バルドが「もう転びかけてる」とぼそっと言った。


「転んでない。今のは馬車との対話だ」


「負けてたぞ」


「初対面だからな」


馬車はさらに揺れた。俺は足を踏ん張り、鞄を胸に抱え、なんとか尻を座席へ戻した。軍学校へ着く前から訓練が始まっている。帝国、抜かりない。椅子の硬さと道の悪さで候補生を鍛えるつもりかもしれない。


そのときだった。


視界の端に、何かが浮かんだ。


薄い光の文字。


最初は陽の反射かと思った。窓の外を見たせいで目がおかしくなったのかもしれない。俺はまばたきをした。文字は消えない。むしろ、はっきり見えた。


――体勢維持に成功しました。

――微量の経験値を獲得しました。


「……は?」


思わず声が出た。


ミーナが首を傾げる。


「どうしたの、ゼル?」


「いや、今、なんか文字が」


「文字?」


「空中に」


バルドが俺の額を見た。


「馬車に酔ったか?」


「まだ村を出て少しだぞ。俺の三半規管を弱小扱いするな」


「弱そうだし」


「否定材料が少ないのが悔しい」


俺はもう一度、視界の端を見た。文字はゆっくり薄れ、朝の光に溶けるように消えていった。心臓が少し速くなる。何だ、今の。分類局の検査器具ではない。魔法でもなさそうだ。そもそも俺に魔力はない。疲れているのか。昨日眠れなかったし、検査結果で精神的に転がされたし、馬車の座席は硬い。幻覚を見る条件としては、まあまあ揃っている。


馬車がまた大きく揺れた。


今度は俺だけでなく、ミーナもバルドも体を傾けた。俺は反射的に足を踏ん張り、座席の端をつかみ、鞄を守るように身体を丸めた。さっきよりうまく耐えられた気がした。


――体幹使用を確認。

――微量の経験値を獲得しました。


また出た。


俺は目を見開いた。薄い光の文字は、俺の目の前にだけ浮かんでいるようだった。ミーナもバルドも気づいていない。二人は車輪の揺れに文句を言っている。馬車の隅で眠りかけていた羊飼いの双子も、片方の頭がもう片方の肩にぶつかって喧嘩を始めていた。誰も、空中の文字を見ていない。


「……経験値?」


小さくつぶやく。


経験値という言葉は聞いたことがある。軍学校の訓練記録でも、戦場での実務経験をそう呼ぶことがあるらしい。村の大人も「経験を積め」と言う。俺も昨日までの人生で、鍋を落とす経験、木剣に振り回される経験、魔力水晶に無視される経験など、必要かどうか判断に困るものをいろいろ積んできた。


光の文字が示しているものは、そういう普通の経験とは違う気がした。


試しに、俺は座席の上で姿勢を正した。背筋を伸ばし、膝を軽く曲げ、揺れに合わせて腹に力を入れる。ノエル兄さんが剣の構えで言っていた「足で受けろ」という言葉を思い出す。馬車が揺れる。俺は耐える。


――姿勢制御に成功しました。

――微量の経験値を獲得しました。


「おお……」


「今度は何?」


ミーナが眉を上げた。


「いや、なんでもない。ちょっと座り方を研究してる」


「軍学校に行く前から真面目だね」


「俺の配属先、たぶん座り方にも評価が付くから」


「労務訓練課程って大変なんだね」


ミーナは同情の目を向けてきた。違う。いや、大変なのは間違いない。間違いないけれど、今はそういう話じゃない。


俺は心の中で、さっきの文字を呼び出そうとした。出ろ、文字。もう一回出ろ。ええと、経験値、表示。能力確認。ステータス。帝国式に言うなら、自己戦技情報開示。何でもいいから出てこい。


沈黙。


こういうときだけ恥ずかしがるな。さっきは勝手に出てきたくせに。


俺は目を細め、手を開いたり握ったりした。身体に変化はない。筋肉が急に盛り上がるわけでも、拳から火が出るわけでもない。馬車の床を殴ってみたい衝動が少し湧いたけれど、出発早々に分類局の車両を壊す候補生になるのは避けたい。俺の評価票に「設備破壊傾向あり」まで追加されたら、労務訓練課程から労務賠償課程へ落ちるかもしれない。


馬車は山道を進み、ロシュフォール村は完全に見えなくなった。道の両側には黒い針葉樹が並び、ところどころに火山灰をかぶった岩が突き出している。空は薄曇りで、灰の大陸らしい重い色をしていた。馬車の外では分類局の護衛兵が無言で馬を進めている。銀の徽章が揺れるたび、俺は昨日の検査結果を思い出した。


魔力量、零。


総合戦技評価、低位下。


暫定ジョブ、モンク候補。


配属、労務訓練課程。


あの評価は、間違いではない。俺は弱い。魔法も使えない。剣も下手。走れば遅いし、重いものを持てば腰が悲鳴を上げる。帝国の検査器具は、その事実を冷たいほど正確に示した。


それでも、今の文字が本物なら。


本当に、俺が何かをするたびに経験値を得られるのなら。


「……雑用でも、強くなれる?」


胸の奥で、小さな火が灯った気がした。魔力じゃない。水晶に映らない、誰にも測られていない、たぶん俺だけが見ている変な火だ。火打ち石で起こす火より頼りなくて、トマの魔法みたいに綺麗でもない。それでも、確かにあった。


馬車がまた揺れる。俺は今度こそ、しっかり耐えた。


――体勢維持に成功しました。

――微量の経験値を獲得しました。


俺は口元が緩むのを止められなかった。


ミーナが少し引いた顔をした。


「ゼル、どうして馬車に揺られながら笑ってるの?」


「いや、ちょっと希望が見えた」


「この揺れで?」


「この揺れで」


バルドがぼそっと言う。


「変なやつ」


「今に見てろよ、バルド。俺はこの馬車移動だけで、座席耐性を身につける」


「そんな能力あるのか?」


「今から作る」


馬車の中で笑いが起きた。俺も笑った。まだ何も変わっていない。俺のジョブはモンク候補で、配属先は労務訓練課程で、帝国の書類上では雑用向きの少年だ。軍学校へ着けば、きっと笑われる。見下される。荷物を持たされ、床を磨かされ、訓練場の端で汗を流すことになる。


いいじゃないか。


荷物を運べば経験値が入るかもしれない。床を磨けば腕が鍛えられるかもしれない。訓練場の端にいるなら、誰よりもたくさん強い人たちを見られるかもしれない。笑われたって、昨日より少しでもましになれるなら、それでいい。


父さん。


あなたの息子は、ナイト候補にはなれませんでした。


メイジ候補にもなれませんでした。


魔力は一滴もなくて、戦技評価は低位下で、軍学校ではたぶん荷物運びから始まります。


それでも俺は、そっちへ行きます。


転んでも立てと言ったのは父さんだ。なら、俺は何回でも立つ。ついでに立つたび経験値が入るなら、かなりお得だと思う。


馬車は灰の街道を進んでいく。


俺は硬い座席に腰を据え、揺れに合わせて腹に力を入れた。目の前にまた、薄い文字が浮かぶ。


――継続行動を確認。

――微量の経験値を獲得しました。


俺は小さく拳を握った。


伝説の始まりとしては、たしかに地味だ。


剣もない。魔法もない。雷鳴も鳴らない。空から神の声が降るわけでもない。あるのは、尻が痛くなる馬車の座席と、誰にも見えない薄い文字と、低評価の少年がひとり。


けれど俺にとっては、十分だった。


まずは軍学校まで、転ばずに座ってやる。


そこからだ。


俺のレベルアップは、たぶん、ものすごく地味に始まった。


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