第4話 次のお誘い
「こちらへ戻ってきてくださいませ」
セリーヌに呼ばれ、マリウスは振り向いた。
彼女は広間の真ん中で、片手を差し出している。戻ろうとして右足を出すと、壁際の舞踊教師が、軽く手を叩いた。
「左からです。その前に、お辞儀を」
マリウスは足を引っ込めた。
たった四歩、向こうへ行って戻る。その間にすることが多すぎた。
事の始まりは、一週間前に見せられた招待状だった。
セリーヌの叔母が開く夜会で、収穫祝いの組踊りをするという。茶卓を挟んで座っていたセリーヌは、その一行を指で示した。
「今度こそ、ご一緒したいですわ」
ロシュ伯爵家で踊り損ねた曲のことは、彼も覚えていた。彼女が誘ってほしいと言っていたのに、結局、あの組踊りには付き合わずに終わったのだ。
「普通の舞曲なら、何曲でも付き合うよ」
「そちらも楽しみです。でも、この踊りもしたいんです」
薄い紙の上に、細い指が置かれたままだった。
マリウスは紅茶を飲んだ。彼女が次の話へ移る様子はない。
「……あまり慣れていないんだ」
「では、少し練習しませんか。私も、後半はよく間違えるので」
そうして彼は、彼女の家の広間に来ることになった。
セリーヌの母は窓際で針仕事をしている。ときどき顔を上げるので、足がもつれるたびに、マリウスは襟元を直した。
「今度は私の方を見て、戻ってきてください」
セリーヌがもう一度、手を差し出した。
田舎臭い踊りだと思っていた。決まった足運びを繰り返して、大勢でにぎやかに回るだけだと。
ところが、向かいの相手へ手を出したあとは元の相手へ戻り、列の外側を通り、また向きを変える。見ているときには気にもしなかった順番が、踊る側になると一つずつ行く手を塞いだ。
「ここで回るのだったね」
「回るのは、次ですわ」
差し出した手を取られる前に、マリウスだけが半回転した。
背中の方で、セリーヌが小さく笑った。
「まだこちらにおります」
「分かっている」
言ってから、振り向かなければ顔も見えないことに気づいた。
向き直ると、彼女は笑いを収めようとして、唇を結んでいた。けれど彼の顔を見ると、また肩が揺れた。
「少し待ってくれ。最初から確かめたい」
「はい。何度でも」
快く返された言葉に、マリウスは教師の方を見た。
教師も、当然のようにうなずいていた。
* * *
夜会の日、マリウスは馬車の中で膝を四度叩いてから降りた。
二度目の稽古では、最後まで間違えずに踊れた。もっとも、稽古を受けていたのは彼とセリーヌだけだったので、相手を替えるところは教師の手を借りた。
今夜は、そこに本当の相手がいる。
広間へ入ると、セリーヌが母の隣から彼を見つけた。袖口に小さな花を飾った、淡い黄色のドレスを着ている。
「お待ちしておりました」
近づいてきた彼女の足元を、つい見てしまった。
稽古のときには、ドレスの裾を少し持ち上げてもらっていた。今夜はそういうわけにもいかない。
「どうかなさいました?」
「いや。よく似合っている」
靴のことを考えていたのは黙っておいた。
セリーヌは頬を緩め、花のついた袖を少し持ち上げた。
「踊っても邪魔にならないように、ここへつけていただいたんです」
その準備のよさを聞くと、帰ってもう一度練習したくなった。
初めの二曲は、よく知っている舞曲だった。
セリーヌは彼の手を取り、無理なく歩幅を合わせた。こうしている間は、足元を見ずに話もできる。彼が母の育てている薔薇の話をすると、今度見せてほしいと笑った。
その約束をしているうちに、楽団が位置を変えた。
「次ですわ」
彼女の声が、少し弾んだ。
マリウスは手袋の指先を引き、彼女へ手を差し出した。
「では、一曲」
「はい」
返事はすぐだった。
四組で列を作り、お辞儀をする。
向かいへ四歩。手を取り、場所を替える。相手の婦人が軽くうなずいたので、マリウスも頭を下げた。
セリーヌのところへ戻ると、彼女の方から手が伸びてきた。
「合っていますわ」
「そのくらいは覚えたよ」
少し胸を張ったところで、もう次の組が動き始めていた。
マリウスは慌てて足を出した。
稽古と違って、音楽は彼を待ってくれない。
考えている間にも列が進み、差し出された手を取れば、次の場所へ連れていかれる。間違える暇がないというのも、案外助かるものだった。
ただし、足を上げる回数まで減るわけではなかった。
半分ほど踊ったところで、ふくらはぎが張り始めた。上着の背中が暑い。セリーヌはまだ、曲に合わせて軽く体を揺らしている。
「ここから速くなるのだったか」
「ええ。次は、私と回るところです」
それなら覚えている。
彼女の手を取って回ると、黄色い裾がふわりと広がった。袖口の花も揺れる。セリーヌはそれを見下ろしてから、彼を見て笑った。
「きれいに回れましたね」
彼はうなずいた。
返事をするより先に息を吸いたかったが、それだけのせいでもなかった。
稽古のとき、彼女はここが好きだと言っていた。ようやく、どんな顔をするところなのか見られたのだ。
最後のお辞儀を済ませると、マリウスは膝を伸ばした。
楽団への拍手が起こる。セリーヌも手を叩き、それから彼へ向き直った。
「楽しかったですわ。ご一緒できて嬉しい」
「……それは、よかった」
もう少し気の利いた返事をしたかったが、息が続かなかった。
彼女は彼の額を見て、扇を開いた。
「お座りになりませんか。私も喉が渇きました」
マリウスは、今夜聞いた中で一番ありがたい申し出にうなずいた。
* * *
椅子へ腰を下ろすと、靴の中で足の指が縮こまっていた。
そっと伸ばしている間に、セリーヌが給仕から受け取ったグラスを差し出した。水に柑橘の香りがついている。
「ゆっくり召し上がってくださいね」
彼女も隣に座り、一口飲んだ。
楽団は次の曲を始めている。それでも立とうとはせず、膝の上で扇を閉じた。
「二度も練習に来てくださって、ありがとうございました」
「覚えないまま出るわけにはいかなかったからね」
「私、あの広間で踊ったのも楽しかったんです。お母様が途中から針仕事をやめて、見ていらしたでしょう」
それには気づいていた。とてもよく気づいていた。
マリウスはグラスを持ち直した。
「次は、もう少し上手にできる」
セリーヌの顔が明るくなった。
「でしたら、来月もご一緒してくださいませ。叔母様が、昼間にもこういう集まりをなさるそうです」
来月。
それだけ間があれば、足も休まる。
「それなら、私も予定を空けておこう」
「嬉しい。今度は違う組踊りも教えてくださるんですって」
彼は飲みかけのグラスを下ろした。
「違う踊り?」
「ええ。最後に二列が向かい合うそうです。ご存じですか?」
知らない、と答えるのに、少し時間がかかった。
セリーヌは彼の返事を待ち、無理はなさらずに、と言いかけた。その袖口で花が揺れた。
マリウスはグラスを卓に置いた。
「また、少し練習すればいい」
「ご一緒に?」
「ああ」
彼女は母のいる方を見てから、彼に顔を寄せた。
「では、四日後の午後はいかがでしょう。お母様もいらっしゃいますし、先生も来てくださる日なので」
ずいぶん早い。
そう思ったが、笑って待っている顔に、もううなずいていた。
帰りの馬車に乗るとき、マリウスはいつもより慎重に踏み台へ足をかけた。
別れの挨拶をする間は、背筋を伸ばしていられた。馬車の扉が閉まると、座席へ深く腰を下ろす。
来月の予定を空けただけのつもりが、四日後にも約束ができていた。
窓の外で、セリーヌが小さく手を振った。彼も手を上げると、彼女は嬉しそうに笑った。
馬車が動き出す。
マリウスは膝の上で、指を一本ずつ折った。明日、その次、そのまた次。
四日目には、また左から踏み出さなくてはならない。
座席の下で足を伸ばし、彼は小さく息をついた。
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