第5話 次の一曲も
ロシュ伯爵家の広間に入ると、私は壁際の椅子を見た。
あの夜、お祖父様が座っていたあたりには、今夜も小さな卓が置かれている。楽団の支度をする様子まで同じで、私は扇を少し強く握った。
「アネット、こちらでよいかな」
お祖父様が尋ねた。ご友人二人と並んで座れる場所を探していたらしい。
私は卓の脇の椅子を少し動かした。三人で顔を見ながら話せるようにすると、お祖父様のご友人が、ありがとう、と腰を下ろした。
もう一人は座る前に楽団を眺め、今夜はあの曲を頼もうと、お祖父様の肩を叩いている。
「お祖父様。最初の組踊りは、いかがなさいますか」
「少し休んでからにしよう。ここへ来る前に、この二人と歩きすぎた」
「庭の奥まで見に行こうと言ったのは、君だろう」
「うん。あれほど奥に池があるとは思わなかった」
お祖父様は笑い、椅子の背に体を預けた。
私は水を卓に置いた。今夜の靴も、きれいに磨いてある。けれど、靴の出番を急いでもらう必要はなかった。
「では、ごゆっくり。私は一曲、踊ってまいります」
「楽しんでおいで。あとで、誰と踊ったか教えておくれ」
母はもう、知り合いのご婦人に声をかけていた。先に列へ行っているわね、と私に手を振る。
私も扇を閉じた。誰かを誘おうと広間を見渡したところで、窓の近くの令嬢と目が合った。
私より少し年下に見える方が、淡い緑色のドレスの前で手を重ねている。目が合うと会釈をしてくださったが、すぐに踊りの列へ視線を戻した。
靴の先が、ほんの少し動いていた。誰かが通りかかると、裾の下へ引っ込んでしまう。
私は二歩ほど近づいてから、足を止めた。
見ているのがお好きなのかもしれない。急に声をかけて、断りづらくさせたらどうしよう。
けれど、迷っているうちに、彼女がまた列を見た。四組目を待っている母たちの方だった。
「あの。ご一緒に踊りませんか」
令嬢は私を見て、それから自分の両脇を確かめた。
「私ですか」
「はい。お相手が、まだお決まりでなければ」
「決まっては、いないのですけれど……この踊りは、習ったことがありません」
声の終わりが小さくなった。私は隣に立ち、同じように列を見る。
「四つ数えて進んだり、戻ったりするところが多いんです。私も、ときどき順番を間違えます」
「皆様をお待たせしませんか」
「始まる前に、少し教えていただきましょう。伯爵夫人がお詳しいですから」
私は、私が全部教えます、と言いかけてやめた。この前、お祖父様たちとおさらいしたときにも、母に二度ほど直されたばかりだった。
令嬢はしばらく考えてから、ドレスの裾を見た。
「家でなら、鏡の前で足を動かしてみたことはあります」
「では、今日は鏡の代わりに私を」
「それですと、左右が逆になりますね」
真面目な返事に、私は吹き出しかけた。彼女も自分でおかしくなったらしく、口元に手を当てる。
「ごめんなさい。そういうことばかり、気になってしまって」
「大事なことです。私、もう間違えるところでした」
「私、エリーズと申します」
私もアネットと名乗り、手を差し出した。彼女の指がためらいがちに重なったところで、母がこちらに気づき、隣のご婦人と一緒に場所を空けてくれた。
* * *
「初めてでしたら、出だしを一度やってみましょう」
伯爵夫人はそう言って、私たちを列に迎えた。
私たちの向かいには若いご夫婦、その隣には年配のご夫婦がいる。母とご婦人、私たちを合わせて、ちょうど四組になった。
お辞儀をして、向かいへ進み、場所を替える。音楽なしでゆっくり動くと、彼女は一つ一つうなずいた。
「戻るときは、水色の袖の方を見ればよいのですね」
「ええ。私がこちらにおりますから」
若い奥様が袖を少し持ち上げた。
彼女は衣装の色と立つ場所を結びつけて覚えているらしい。私の手を取るところでは、小さな声で、白い手袋、と言った。
「手袋は、ほとんど皆様、白いですわ」
私がささやくと、彼女は列を見回して困った顔をした。
「本当ですね。では、アネット様のお顔を覚えます」
「それが一番、間違いがなさそうです」
弦の音が響き、私たちは元の場所に立った。
最初のお辞儀で、彼女は私より深く腰を折った。顔を上げたときには、もう最初の一歩が始まっている。慌てて動いた靴が私の靴先に触れた。
「申し訳ありません」
「大丈夫です。次で追いつきます」
そう答えた私まで急いでしまい、今度は二人とも早く向かいへ着いた。
戻るにはまだ早い。手をつないだまま立ち止まると、向かいのご主人が、その場で二度、ゆっくり踵を上げた。
「ここで足踏みを。はい、今です」
教えられた拍子で動くと、列に戻れた。
彼女がほっと息をつく。私も、握っていた手の力を緩めた。
次は向かいの方へ手を渡すところだった。私は先回りして教えようと、彼女の方へ顔を寄せる。
「この次は、右の手を出して、それから――」
「アネット様、後ろです」
彼女に袖を引かれた。振り向くと、相手を替えるために来た年配のご主人が、行き場のない手を差し出している。
私は慌ててその手を取った。
「失礼いたしました。説明に夢中になってしまって」
「ええ、私も聞いておりました。右手ですね」
ご主人は、ご自分の右手を確かめてから私と回った。隣で奥様が笑い、いつもそこで迷うのです、と教えてくださる。
元の相手へ戻ったとき、私は彼女に頭を下げた。
「助かりました。おかげで、私も迷子にならずに済みました」
「お顔を覚えておいてよかったです」
今度は二人で笑った。
エリーズ様の歩幅はまだ小さかったが、手を差し出すのは早くなった。向かいの奥様の袖を確かめ、戻ってきて私を見る。そのたびに、私も顔を向けた。
母が回りながら、よくできたわね、というようにうなずいた。私がうなずき返すと、母はご婦人に何か言われ、慌てて進む方を変えた。
私たちを見ていて、順番を一つ忘れたらしい。
「お母様まで」
思わず言うと、隣の彼女が肩を揺らした。母は片手で口元を隠し、それでも笑っていた。
最後に皆で手をつなぎ、大きく輪を作った。
彼女が隣の奥様の手を取る。私の方ばかり見ていた顔が上がり、輪の向こうの人たちへ笑いかけた。
音が止むと、広間に拍手が起きた。私は息を弾ませながら、彼女ともう一度お辞儀をした。今度は、同じ早さで顔を上げられた。
* * *
「お辞儀の練習も、しておくべきでした」
飲み物の卓へ歩きながら、彼女が言った。
私は水を受け取り、笑った。
「私も、お話ししながら踊る練習が必要です」
「でも、途中で教えてくださらなかったら、もっと困っていたと思います」
「では、話すところと、黙るところを覚えますね」
少し離れた椅子では、お祖父様たちがまだ話していた。ご友人の一人が両手で何かを示し、もう一人が首を振っている。
お祖父様は私に気づくと、空いた手を上げた。
「楽しそうだったね」
「はい。ご紹介してもよろしいですか。今、ご一緒したエリーズ様です」
彼女が挨拶をすると、お祖父様は椅子に座ったまま、丁寧に頭を下げた。
「孫と踊ってくださって、ありがとう」
「私こそ、お誘いいただいて。アネット様に、たくさん助けていただきました」
「私も、袖を引いていただいたんですよ」
そう言うと、彼女が笑った。お祖父様は、それならよかった、と私たちの顔を見比べた。
ご友人がさっそく、自分たちの知っている踊りの話を始めた。彼女は熱心に聞いていたが、途中で少し首をかしげた。
「その順番ですと、最後は皆様、最初と反対を向きませんか」
三人が黙って、お互いを見た。
私は水を飲むのをやめた。笑いながら飲んではいけないと、あの昼の集まりで覚えていた。
お祖父様が指で卓をなぞり始めたところで、楽団が次の曲の支度をした。伯爵夫人の声が聞こえる。もう一度、同じ踊りをするらしい。
エリーズ様は広間を見て、私を見た。
「アネット様。次の一曲も、ご一緒していただけますか」
さっき窓際で重なっていた手が、今度は私へ差し出されていた。
私はグラスを卓に置いた。向こうでは、水色の袖の奥様が私たちを呼んでいる。
「喜んで。今度は、最初のお辞儀から合わせましょう」
彼女の手を取り、私は並んで列へ向かった。




