お見合い相手と、逃げた鶏を追いかけています
「その戸を、閉めてください!」
「閉めますから、こっちへ追ってこないでください!」
お見合い相手に怒鳴られたのは、初めてだった。
私が怒鳴ったのも、初めてである。少なくとも、お見合いでは。
白い雌鶏が一羽、アラン様の磨き上げた靴の間をすり抜けた。彼は声にならない声を上げ、鶏を止めようと伸ばしていた腕を、慌てて引っ込めた。
薄桃色のドレスの裾には土がついている。朝、母が髪を整え、結んでくれたリボンは、右の耳の下までずり落ちていた。
「追わなければ、捕まりません!」
「追っても、捕まっていません!」
言い返せなかった。
実際、さっきから一羽も捕まっていない。
つい半時間ほど前まで、私はこの方と、静かにお茶を飲んでいた。刺繍と読書を好む、おとなしい令嬢として。
* * *
「リナはね、とても気が利く子なの。家の中も、きっと明るくしてくれるわ」
伯母のマルタがそう紹介してくれたとき、私は膝の上で手を重ねて微笑んだ。
気が利くかどうかはともかく、声はよく通る。子供の頃は、私が来ると屋敷のどこにいてもわかると、伯母によく笑われた。
今日ばかりは、その話をしないでほしい。
向かいに座るアラン・デュメ様は、襟元まで隙なく整えた青年だった。濃い栗色の髪に、よく似合う灰色の上着。お茶を取る指まで落ち着いている。
「僕も、明るい家庭にしたいと思っています」
真面目な返事に、両家の母たちが嬉しそうに頷いた。
私は紅茶を一口飲んだ。まだ熱くて、舌の先がひりっとしたが、何でもない顔で飲み込んだ。
ベルニエ子爵家の娘として、縁談の席に出るのは四度目だった。二十一歳のうちに結婚しなければ困る事情はない。それでも、断られるたびに、何を直せばよかったのかと考えてしまう。
『少し、気が強いお嬢様のようで』
二度目のお相手からは、そんな返事が来た。
狩りの話をしていた彼が、私の飼っていた犬まで臆病だと笑ったので、あの子は怪我をしてから大きな音が怖いのです、と言っただけだった。声が大きくなったのは、確かだけれど。
三度目には、なるべく口を挟まなかった。何を話してもお返事が短く、気が合うかどうかわからなかった、と断られた。
それで今日は、尋ねられたら少し詳しく答えることにした。自分から言いたいことが浮かんでも、一度、紅茶を飲む。
「お休みの日は、何をなさいますか」
アラン様に尋ねられ、私は用意していた答えを口にした。
「本を読んだり、刺繍をしたりしております。アラン様は?」
「そうですね。僕も本を読むことが多いです」
「どのような本をお読みになりますの?」
彼は一瞬、手元のカップへ目を落とした。
「いろいろと。リナ様は?」
「私も、いろいろです」
いろいろな本が世の中にあることだけがわかった。
昨日、私が夢中で読んだのは、旅芸人が城の料理人になりすます喜劇だった。お料理が一つもできないのに、食卓で歌って何とかしようとする。あの話をしたら、この落ち着いた方は笑うだろうか。
考えているうちに、伯母が席を立った。
「せっかくよいお天気なのだから、少しお庭を歩いていらっしゃい。エミーもついていってね。私たちは、中でお菓子の支度を見てくるわ」
伯母が侍女に声をかけたので、私たちも立ち上がった。
アラン様が差し出してくれた腕へ、手を添える。きちんとした上着の袖は、触れるのをためらうほど滑らかだった。
伯母の庭を歩くのは好きだった。
王都の外れにあるこの屋敷の庭は、高い石塀に囲まれている。花壇の向こうに菜園があり、その脇には鶏の小屋まである。伯母が自分で飼い始めた雌鶏は六羽。いずれも、よその家の鶏より美しいというのが伯母の自慢だ。
囲いの近くまで来ると、茶色い一羽がこちらへ駆けてきた。
「あ、この子、私を覚えているわ」
思わず声を上げ、それからアラン様を見た。
彼は囲いの一歩手前で止まっていた。
「よくお世話をなさるのですか」
「ええ。こちらへ来たときには」
本当は、世話係のトマに餌の皿を渡したり、一緒に卵を集めたりするくらいだった。
けれど、アラン様が感心したように頷いたので、訂正しそこねた。さっきまでの退屈な受け答えから、ようやく何か話せそうだった。
内側の隅に置いてある餌の皿を取ろうとして、手袋を外した。留め金を持ち上げて戸を引くと、待ち構えていた六羽が寄ってくる。
片方の手袋が、足元へ落ちた。
拾おうとしゃがんだ、その脇を、茶色い一羽が抜けた。
「待って。そちらは――」
もう一羽が続いた。私が立ち上がる間に、白いのも出た。閉めようとする戸の間へ頭を出され、挟んではいけないと手を止めたら、最後の一羽まで出てしまった。
六羽とも、妙に堂々と庭を歩き始めた。
「リナ様、トマを呼んでまいります。今は馬車置場にいるはずですから」
エミーの声に、私は助かったと思った。ここで、呼ばなくてよいなどと見栄を張らずに済んだのは幸いだった。
「お願いします。私は、外へ出ないようにしておくわ」
伯母の鶏を、道路へ逃がすわけにはいかない。
アラン様が、すぐに頷いた。
「では、僕はあちらの戸を」
彼が向かったのは、囲いの隣から菜園へ抜ける、小さな木戸だった。
開ければ近道をして回り込めると思ったのだろう。戸が動いた途端、その前にいた二羽が、そちらへ走った。
「それは開けないでください!」
遅かった。
私が追うと二羽が分かれ、片方を追えば、もう片方が背後へ回った。
その末に、先ほどの言い合いである。
* * *
私たちは何とか庭の外門を閉めた。
鶏たちは庭にいる。とりあえず、六羽ともいる。
私は息を切らしながら、曲がったリボンを引き抜いた。結び直す余裕などないので、拾い上げた手袋と一緒に、花壇の縁へ置く。
アラン様は、白い一羽と見つめ合っていた。彼が右へ寄ると、白いのも右へ行く。左へずれると、左へ。
「……リナ様」
「はい」
「大変、申し上げにくいのですが。僕は、鶏が怖いです」
彼の目は、まだ白い鶏から離れていなかった。
私は思わず、彼と鶏を交互に見た。
「この子たちは、雌鶏ですよ」
「その違いを、足に納得させられません」
足。
見れば彼は、一歩も動いていなかった。つま先だけが、逃げたいほうを向いている。
笑いそうになって、慌てて口を閉じた。本人がこんなに困っているときに笑っては、ひどい。
彼が小さく息を吐いた。
「笑ってくださって構いません。子供の頃、家の雄鶏に追いかけられまして。あれ以来、羽の音がすると、勝手に足が止まるんです」
「笑ってよいと言われると、かえって困ります……。怖いのに、さっき戸を閉めてくださったの?」
「僕も、余計な戸を開けましたから」
すまなそうな声だった。
私は、彼と白い鶏の間へ入った。鶏は私の靴を一度つつき、興味をなくして花壇のほうへ歩いていく。
アラン様の肩が、目に見えて下がった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、怒鳴ってごめんなさい。鶏の扱いに慣れているようなことを言いましたけれど、いつもトマの後ろにいただけです」
言ってしまうと、頬が熱くなった。
アラン様が私を見る。今度こそ呆れた顔をされるかと思ったが、彼は少し考えてから言った。
「では、二人とも、わからないまま走っていたのですね」
「……はい」
「それであんなに捕まらなかったのか」
妙に納得した声に、今度はこらえられなかった。
私が笑うと、彼も笑った。初めて見る、歯の見える笑顔だった。
さっきまで、ずいぶん遠いところにいる方だと思っていた。同じ庭で同じ失敗をしているのに、まだ取り繕おうとしていた自分まで、おかしくなった。
「もう、走るのはやめましょう。追われると逃げるのは、私でもわかります」
「ええ。逃げてほしくないほうを、塞ぐのはどうでしょう。あの布を使えませんか」
アラン様が指した道具小屋の軒下には、庭仕事で使う大きな布が干してあった。
近寄って引っ張ると、乾いた土がぱらぱらと落ちた。上着が汚れる、と言いかけたときには、彼はもう片端を持っていた。
「僕はこちら側を持ちます。鶏から、少し遠いほうを」
「では、私が近いほうを。怖くなったら、先におっしゃってください。急に放さないで」
「わかりました。あなたも、走る前にひと声お願いします」
もっともな頼みだった。
私たちは布を広げ、菜園へ続く小道を塞いだ。六羽のうち四羽は、囲いの近くに集まっている。残りの二羽が、花壇で何かをつついていた。
布の下端を地面の近くまで下げると、アラン様が上から慎重に鶏を覗いた。
「これなら、まだ持てそうです」
「頼もしいお言葉です」
「いま、少し笑いましたね」
笑った。気づかれたので、頷いた。
彼は困ったように眉を上げたけれど、布は放さなかった。
花壇にいた二羽が、こちらへ来た。
私はゆっくり横へ動いた。その途端、裾がぐっと後ろへ引かれた。
低く張り出した枝へ、飾りのレースを引っかけたのだ。焦って足を出すと、裂ける音がした。
「待って。動けません」
声が、自分でも驚くほど小さくなった。
母と選んだドレスだった。布見本を顔の下へ当てながら、似合うと何度も言ってくれた。見合いがうまくいってもいかなくても、また着ればいいのよ、と。
それを、初めて着た日に破いてしまった。
「リナ様、こちらを見て。あなたの側も、僕が持ちます」
アラン様が布の端を寄せ、私の隣へ来た。
彼一人では小道を全部塞げない。幅が足りなくなったところへ、白い鶏が首を突っ込んだ。
「アラン様、そこに」
「いますね。見えています。できれば、僕の足を選ばないでほしい」
最後の言葉は鶏へ向けたものだった。
その真剣さがおかしくて、泣きそうだった顔のまま、笑ってしまった。
「通してしまってよいです。外門は閉まっていますから」
「わかりました。では、あなたはゆっくり裾を外してください」
彼は少し布を上げて白い鶏を通した。通り過ぎるまで息を止めていたらしく、そのあとで大きく吐いた。
私はしゃがみ、枝からレースを外した。裂けたところを見ないように畳み、ようやく立ち上がった。
「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「破れてしまいましたね」
「はい。気に入っていたのに」
平気です、と言うつもりだった。
けれど、彼が私の顔を見て待っているので、続きが出てしまった。
「今日、綺麗だと思っていただきたかったんです。朝は、もっとずっと綺麗だったんですよ」
言ったあと、目を上げられなくなった。
こんなときにまで、見合い相手に褒めてほしがっている。
しばらく、鶏が地面をかく音だけがした。
「朝から、そう思っていました」
顔を上げると、アラン様の耳が赤かった。
「お会いしたとき、言おうと思ったんです。でも、まずはご挨拶をきちんとしなければと考えているうちに、言いそびれました。……今、言ってもよろしいですか」
「もう、おっしゃっています」
「そうですね」
彼が、困ったように笑った。
私は裂けた裾を押さえていた手を離し、布の端を持ち直した。お世辞かもしれないと疑うより先に、嬉しくなってしまった。
「ありがとうございます。今度は、最初に言っていただけると嬉しいです」
彼の目が少し大きくなった。
そのとき、エミーとトマが小道の向こうに現れた。
「まあ、お二人とも、そんなにならなくても。外門さえ閉めてくだされば、逃げていきませんよ」
伯母まで後ろにいた。
私はどんな顔をしたものか迷ったが、アラン様は布を持ったまま、真面目に尋ねた。
「この布は、お役に立ちますか。それとも、しまったほうがよいでしょうか」
「いや、そこで持っていてください。そのまま囲いのほうへ、ゆっくり寄っていただければ」
トマが餌の入った器を振ると、近くにいた鶏たちが首を上げた。
私は走りたくなるのを我慢し、アラン様と歩調を合わせた。彼は鳥が寄るたび少し顎を引いたが、もう持ち場から逃げなかった。
トマが餌を撒き、エミーが反対側に立つ。白い一羽も最後には囲いへ入り、戸が閉じられた。
「一、二、三……六。はい、みんな戻りました」
伯母の声で、私たちは同時に布を下ろした。
アラン様が、閉まった戸を確かめてからこちらを見た。額に汗が浮いて、前髪が一筋だけ落ちている。
「終わりましたね」
「はい。私、もう一度お茶をいただきたいです」
「僕も。できれば座って」
私たちはまた、笑った。
* * *
布をトマに返し、花壇に置いた手袋とリボンを拾った。手を洗って泥を落とし、エミーに裾を応急に留めてもらって、茶席へ戻る。髪も結び直してもらったが、朝と同じ顔で座る自信はなかった。
母は私を見るなり立ち上がったが、怪我がないと聞いて椅子へ座り直した。そこへ伯母が、二人が鶏を戻すのを手伝ってくれたのだと説明する。
「アラン様がご一緒で、よかったわね。リナは時々、慌ててしまうから」
母の言葉に、私はいつものように微笑みかけた。
黙っていれば、気の利く青年が、少しそそっかしい娘を助けた話になる。それなら、まだお見合いを続けられるかもしれない。
けれど、向かいのアラン様は、上着についた土を指で払っていた。布を抱えたときについた汚れだった。
あの方は、私に助けてほしいと言ってくれたのだ。
「私が、戸をきちんと閉めなかったんです。慣れているふりをして、手袋まで落としてしまって。ごめんなさい、伯母様」
言い終えると、向かいから声がした。
「僕も、余計な戸を開けました。リナ様に確かめればよかったのに、役に立とうと急いでしまって」
アラン様のお母様が、口元へ手を当てた。
「あなた、鶏が苦手でしょうに」
「はい。途中でリナ様に、助けていただきました」
今度は私の母が、こちらを見た。
叱られるよりも恥ずかしかった。紹介されたばかりの男女が、何をしていたのだろう。
伯母は私たちを見比べ、それから料理人が運んできた皿を、自分のほうへ引き寄せた。
「それなら、お菓子を召し上がれ。失敗のお話は、食べながらでもできるでしょう。鶏は戻ったし、怪我もないのだから」
温かい菓子の匂いがした。庭で走ったせいか、急にお腹が空いてきた。
私は一ついただき、アラン様も一つ取った。薄い皮が崩れて皿へ落ちると、彼は取り繕わずに小さく笑った。
母たちが、伯母の新しい花壇を見に席を外した。
エミーが少し離れたところで茶器を片づける中、私とアラン様は、しばらく黙ってお茶を飲んだ。
今度は、話すことがないのではなかった。何から言えばよいのか、わからなかった。
「先ほど、今度は最初に、とおっしゃいましたよね」
彼が、私を見た。
「また、お会いしてもよいという意味だと受け取ったら、都合がよすぎますか」
胸のあたりが、急に忙しくなった。
確かに言った。あのときは、そんなふうに確かめられるとは思っていなかった。
「……お嫌では、ありませんでしたか。私、ずいぶん大きな声を出しましたし」
「僕も出しました。僕のほうこそ、お恥ずかしいところを」
「鶏のことは、もう」
「いえ。あんなに立派なお返事を用意していたことです」
アラン様は、少しだけ肩を丸めた。
「落ち着いていて頼りになる人だと、伯母様が紹介してくださったそうですね。母から聞いて、それなら失敗はできないと……。何の本を読むかくらい、普通に答えればよかった」
私はカップを置いた。
「何をお読みになっていたんですか?」
「絵の多い旅行記です。とくに、食べ物の載っているものを。いつか行けたら、同じものを頼もうと思って」
それなら、私にも聞きたいことがたくさんあった。
いちばん食べてみたいものは何か。見た目で選ぶのか、文章を読むと食べたくなるのか。旅へ出るとしたら、どこへ行きたいのか。
私が一つ尋ねると、彼は答え、棚に並べた本の話までしてくれた。さっきよりずっと早口だった。
「……すみません。僕ばかり話してしまいました」
「まだ、どこへ行きたいかを伺っていません」
彼が笑った。
もっとその顔を見たいと思った。自分のことで精いっぱいの間は、気づかなかった顔だった。
「もう一度、お会いしたいです。今度は、私の読んだ本のお話も聞いてくださいますか。旅芸人が、とんでもない料理人になるんです」
「ぜひ。今の一言だけで、かなり気になっています」
私は、初めて自分から、お見合いの次の約束をした。
母に訊かれたら何と答えよう、と考えていたのに、実際に戻ってきた母を見たら、すぐに言えた。
「アラン様と、来週もお会いしたいです」
母は目を丸くして、それから嬉しそうに頷いた。
向かいでアラン様がほっとした顔をしたので、私まで嬉しくなった。
* * *
翌週、アラン様は私の家へ、約束の旅行記を持ってきた。
玄関で挨拶をすると、彼は私の薄青い服を見て、少し居住まいを正した。
「今日も、とてもお似合いです。綺麗です」
準備してきた言葉なのだろうとわかった。
けれど、胸が温かくなった。あの日、私が言ったことを覚えて、今日も緊張しながら言ってくれる。
「ありがとうございます。アラン様も、今日は上着が綺麗ですね」
そう答えてから、間違いに気づいた。
「違います。汚れていないという意味だけではなくて。よくお似合いで……」
彼がとうとう笑い、私も笑った。
家へ上げる前に失敗したのに、帰ってしまってほしいとは思わなかった。
それから、何度も会った。
旅行記を一緒に眺め、エミーに付き添ってもらって、市の見世物小屋へ入った。そこで、役者の歌が想像より下手だったと笑った。私は悪役が転ぶところで笑い、アラン様は、その前にせっせと罠を用意しているところが好きだった。
同じものを見ても、気づくところは違った。だから、見終わったあとも話したかった。
一度だけ、帰り道をどちらへ行くかで言い合いになった。
近道を知っていると言い張ったのは私で、彼は、橋が修理中だと聞いたと言った。私が昨日は渡れたと返すと、それならと一緒に来てくれた。
橋は、朝から通れなくなっていた。
私は柵の前で立ち止まり、アラン様を見た。ほら、言ったとおりだ、と言われる覚悟をした。
「ごめんなさい。私、昨日と同じだと思って」
「次は、僕の話ももう少し聞いてもらえると助かります。……それと、僕も早く言えばよかったのですが、靴ずれができてしまって。途中で休みませんか」
靴ずれと聞いて、私は彼の足元を見た。新しい靴だった。自分の行きたい道の話ばかりして、歩く速さが落ちていたことにも気づかなかった。
近くの店で休み、もう少し歩いて帰るか、馬車を頼むか、二人で決めた。
あとから、なぜ途中で言ってくださらなかったのかと訊くと、彼も初めて歩く通りが面白くて、休憩を後回しにしてしまったのだと言った。
「楽しくても、足は痛くなりますよ。次は、早めに教えてください」
「では、今お伝えします。次は馬車にしましょう」
私は笑って、次に行きたいところを話した。
彼を困らせずに一日を終えることより、困ったら教えてもらえることのほうが、だんだん大事になっていった。
会わない日にも、話したいことを覚えておくようになった。
喜劇の続きが出たこと。母の刺繍に、どう見ても犬ではない動物ができたこと。伯母の白い鶏が、またトマの後ろをついて歩いていたこと。
手紙へ書くこともあったけれど、顔を見て話したいことも残した。読んで返事をくれるのも嬉しい。でも、話の途中で彼が笑いそうになる顔を、先に見たかった。
お見合いから二か月ほど経った日、伯母がまた私たちをお茶に呼んだ。
両家の母たちも招かれていたが、まずは二人で話したいと、彼が申し出てくれた。
今度は、まず鶏の囲いを遠くから確認した。戸は閉まっていたし、留め金も下りていた。私もアラン様も、触らなかった。
花壇の向こうの椅子へ、二人で並んで座った。エミーは、屋敷に近い木陰にいる。
アラン様は、お茶を飲む前に私へ向き直った。
「リナ様。今日は、お願いしたいことがあります」
その改まった声に、胸が高鳴った。
私は膝の上へ手を重ねた。最初の日と同じ姿勢なのに、笑顔を作ろうとは思わなかった。
「あなたと、結婚したいと思っています」
彼が、息をついだ。
「最初の日、帰る前に、まだ話したいと思いました。それから会うたびに、もう少し一緒にいたいと思うようになりました。今は、次の約束をするより、同じ家へ帰れたらいいのにと考えています」
目が熱くなった。
私も、馬車の前で別れるのが寂しかった。家へ着く頃には、言い忘れたことが一つか二つ出てくる。また来週、と言えるだけで嬉しかったのに、最近は来週までが長かった。
「あなたが好きです。僕と、結婚していただけますか」
アラン様の指が、膝の上で少し曲がった。
鶏を前にしたときとは違う緊張だとわかった。私が何と答えるか、怖いのだ。
私は、自分の手を彼の手へ重ねた。
「はい。私も、あなたと結婚したいです」
彼の口元が、ゆっくり緩んだ。
それから、もう一度確かめるように私を見るので、今度は私から指を絡めた。
「アラン様が好きです。困っているときに助けてくださるのも、好きなものの話をすると早口になるのも。私が話し終わるのを待ちきれずに、笑ってしまうお顔も」
「それは……すみません。最後まで聞こうとはしているんです」
「そのお顔を見るのが、好きだと言っているんです」
彼が黙った。
耳まで赤くなり、私の手を握る指に力がこもった。そのまま視線を落とすので、私まで照れてしまった。
「よかった。……本当に、よかった」
小さな声だった。
私は彼の肩へ、自分の肩を寄せた。すぐそばで見る睫毛も、赤くなった耳も、好きだった。
格好をつけてほしい日も、きっとある。今日の上着を選んでくれたことも、髪を整えて来てくれたことも、嬉しい。けれど、失敗するたびに私へ見せるのを怖がってほしくはなかったし、私もそうしたくなかった。
「鶏のときは、私が近いほうを持ちますからね」
彼が顔を上げた。
「布ですか?」
「ええ。でも、裾を引っかけたら、また代わってください」
アラン様は笑って、それから真面目に頷いた。
「もちろん。今度は、破ける前に気づきたいですが」
「私もです。あのレース、お直しが大変だったんですよ」
話していると、彼の空いている手が、私の頬のそばまで来て止まった。
その先を待ちたくなくて、私は少し顔を寄せた。
彼も顔を寄せた。唇が触れたのは、ほんの短い間だった。離れてから、アラン様がひどく嬉しそうに笑った。私は、その顔を見てまた近づきたくなった。
屋敷のほうで、伯母が私たちを呼んだ。
アラン様は繋いだ手を見て、名残惜しそうに指を緩めた。私は、ほどける前に握り直した。
「一緒に、ご報告に行きましょう。私からも、お母様たちにお話ししたいです」
「ええ。お願いします」
立ち上がると、彼が私の裾をちらりと見た。枝には引っかかっていない。
私が笑うと、彼も笑い、今度はゆっくり、同じ速さで屋敷へ歩き出した。
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