第2話 自分から一歩
踊り終えた人が次々に飲み物の卓へ向かう。お祖父様も一息つきたそうだったので、私は近くの椅子へお連れした。
給仕に水を二つ頼み、一つをお祖父様にお渡しする。自分のグラスを受け取ったところで、マリウス様が近づいてきた。
「気は済んだか、アネット」
彼の後ろにはセリーヌ様がいた。先ほどほど嬉しそうではなく、閉じた扇を指先で持て余している。
私は水を一口飲み、グラスを卓へ置いた。
「当てつけのつもりなら、見苦しいぞ。別れを告げられたばかりの娘が、あんなにはしゃいで」
さっきまで、もう踊る相手もいないと言っていた人だった。相手を見つけて踊ったら、今度ははしゃぐなと言う。
好きになってほしくて彼の好みに合わせていた頃なら、また謝ったかもしれない。
けれど、今夜の一曲を、謝るようなことにはしたくなかった。
「傷つきましたよ。二年間頑張っても、育ちが違うから駄目だと言われたんですもの」
彼の顔から、責めるような笑みが消えた。
「そういう意味では――」
「私はあなたを好きでした。あなたと結婚するのだと思って、嫌われないようにしてきました。笑い方も、踊りも、何度も我慢しました」
言葉にすると、泣きたさよりも悔しさが強くなった。
誰かと結婚しても、家族と一曲踊るくらいはできると思っていた。あんなに細かなことまで、自分で取り上げなくてもよかったのに。
「でも、好きな踊りをやめても、私を好きにはなってくださらなかったでしょう。もう、やめておく理由がありません」
私は椅子のお祖父様へ目を向けた。お祖父様は水のグラスを持ったまま、私の言葉を待っている。
「お祖父様と踊れて、嬉しかったんです。あなたに見せるために、お誘いしたのではありません」
マリウス様はお祖父様を見た。
「二人の話ですので、少し席を外していただけませんか」
「お祖父様には、ここにいていただきたいです」
私はすぐに言った。少し強い声になったが、下を向かずに続けた。
「私はここでお休みいただくために、お連れしたんです。必要なお話でしたら、お母様と一緒に伺います」
お祖父様がグラスを置いた。
「そのように頼まれたので、私はここにいるよ。君の婚約の話を決めるのは、私ではないがね」
彼は言い返そうとして、やめた。私が泣いて戻ってくると思っていたのだろう。広間の隅で頭を下げていた私しか、知らなかったのかもしれない。
その背後で、セリーヌ様が口を開いた。
「マリウス様。私との踊りは、どうなったのでしょう」
「少し待ってくれ。今は話をしているんだ」
「ええ。ずっと待っております。あちらの曲にも誘ってくださいと申し上げたのに、アネット様のことばかりお話しになるから」
彼が、初めて彼女へ体ごと向き直った。
セリーヌ様も、あの踊りをしたかったらしい。それでも彼は、私が楽しそうにしているかを確かめる方に忙しかった。
私はもう、彼女の代わりに彼の機嫌を取り持つことまで考えなくてよかった。
「今夜のお話は、お母様へもお伝えしました。後は両家できちんと済ませましょう。失礼いたします」
私はお辞儀をして、お祖父様の隣の椅子に座った。
マリウス様はしばらく立っていたが、母がこちらへ来るのを見ると、セリーヌ様を伴って離れた。彼女が何かを話し、彼が答える声が遠ざかる。
私は追わずに、水をもう一口飲んだ。
* * *
「お父様には、今夜のことをそのままお伝えします。あなたからも、言いたいことを話しなさいね」
母はそう言い、預かっていた扇を返してくれた。
私はうなずいた。婚約を終える手続きは残っている。明日になったら、彼を好きだった気持ちがまた痛むかもしれない。
けれど、母に連れられて誰にも顔を見せず帰るしかないと思っていたときとは、もう違った。
楽団が最後の挨拶をしている。私たちも席を立つ前に、私はお祖父様へ向き直った。
「以前、お誘いを断ったことがありましたね。子供ではありませんから、なんて」
「ああ。婚約者と踊りたいのだろうと思っていたよ」
「本当は、あの頃も踊りたかったんです。ご一緒すると、私がはしゃいでしまうから、恥ずかしいと言われて……」
言ってから、私は膝の上の手を握った。
彼に言われたまま、お祖父様との時間を断った。それを今さら打ち明けて、お祖父様を傷つけたくはなかった。
「お祖父様に、嫌な言い方をしてしまいました。ごめんなさい」
お祖父様はすぐに返事をせず、少し考えた。
「もう私とは踊らないのかと思って、寂しかったよ」
胸が痛んだ。けれど、続いた声は、先ほど誘いを受けてくれたときと同じだった。
「だから、今夜はとても嬉しかった。おまえも踊りたかったのなら、これからまた一緒に楽しめるね」
私は何度もうなずいた。お祖父様の手に、自分の手を重ねる。
「また、お誘いしてもいいですか」
「もちろん。ただ、今夜はもう少し水を飲んでから帰りたい。一曲でこれだけ息が切れるとは、私も驚いた」
お祖父様が、真面目な顔でグラスを持ち上げた。
私は笑い、水がまだ残っているのを確かめた。楽しいからといって、いつまでも踊ってもらうわけにはいかない。
「では、次はうちで。休みたいときにすぐ座れるようにして、お昼に集まりませんか。お祖父様のお友達も、お誘いください」
「それはいいな。あの踊りを覚えている者が、まだ何人もいる」
もう誰を誘うか考えている顔だった。
母が隣で笑い、今度は自分も踊りたいと言った。私ばかり二人に相手をしてもらっていた子供の頃を思い出し、私は、ぜひ、と答えた。
帰りの馬車では、誰を招くかと、どの部屋なら広く使えるかを話した。家へ着く頃には、夜会で受けた言葉と同じくらい、お祖父様が誰の名前を挙げたかも覚えていた。
一週間後、両家の話し合いを経て、婚約は正式に解消された。
マリウス様は、一時の行き違いだったと説明したそうだ。けれど、他の女性を妻にしたいと告げた言葉は、母も聞いていた。
父は事情を確かめ、私の意思を聞いた。私は、マリウス様とは結婚したくありません、と答えた。
彼から届いた手紙には、以前のように静かに話したいとあった。復縁を望んでいるのだとしても、応じる気はなかった。必要な連絡は両家を通してほしいと返した。
二年前には、あの人の隣にいる未来を楽しみにしていた。そのことまで、なかったことにはできない。
けれど、今思い出すのは、踊りの列で私を待っていたお祖父様の笑顔でもある。自分のしたいことを口にして、喜んでもらえた夜を、私はちゃんと覚えていた。
約束した昼の集まりには、お祖父様が友人を二人連れてきた。
母は演奏を知り合いのご婦人にお願いして、踊りの列に加わる支度をしていた。椅子と飲み物はすぐそばにある。疲れたら休んで、お喋りだけしていてもいい。
お祖父様は私のところへ来ると、あの日と同じように丁寧にお辞儀をした。
「アネット。最初の一曲を、お願いできますか」
私は差し出された手を取り、顔を上げた。
「喜んで。今日は、間違えたところをおさらいしてきましたよ」
「それは頼もしい。私は昨日、友人と練習したら、違う踊りを覚え直してしまった」
横で聞いていた友人の一人が、それは君が教えたのだと抗議した。お祖父様が首をかしげ、母まで笑い出す。
私は声を抑えずに笑った。これから踊るのに、もうこんなに楽しかった。
最初の音が鳴る。お祖父様と顔を見合わせ、私は、自分から一歩を踏み出した。
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