第1話 私と一曲、踊っていただけますか
「アネット、君との婚約は破棄する。セリーヌ嬢を妻に迎えたい」
マリウス様の言葉を聞いたとき、私は楽団の方を見ていた。壁際に並んでいた奏者が立ち上がり、次の曲のために位置を変えている。
ロシュ伯爵家の秋の夜会は、最後に収穫祝いの組踊りをする。四組で列を作って、相手を替えながら回る、私の故郷でもおなじみの踊りだ。
今年も見ているだけのつもりだった。婚約者に、ああいう田舎臭い踊りには加わるなと言われていたから。
「……セリーヌ様と、ご結婚なさるのですか」
「ああ。彼女となら、穏やかな家庭が築けると思う」
彼の隣で、薄桃色のドレスを着たセリーヌ様が目を伏せた。袖には触れていない。それでも、私と話している間ずっと彼が彼女を気にかけているのは分かった。
さっき一緒に踊っていたのも、お付き合いの一曲ではなかったらしい。
「君には悪いが、どうしても合わないんだ。無理に取り繕っても、育った環境までは変えられないだろう」
扇の骨が手のひらに食い込んだ。
二年間、気をつけてきた。声を立てて笑わないこと。歩くときに急がないこと。嬉しいからといって、知り合いに大きく手を振らないこと。
彼が喜んでくれるならと、好きだった踊りにも加わらなくなった。何を変えても、最後には生まれ育った場所のせいになるのだ。
婚約したばかりの頃、王都の人の多さに戸惑う私を、彼は人垣の端で待ってくれた。そんなふうに、隣で歩く速さを合わせてくれる人だと思っていた。
「明日、君のお父上にも書面で申し入れる。それで構わないな」
彼の少し後ろに、私の母が立っていた。先ほどまで他の夫人と話していたのに、今は扇を閉じ、こちらを見ている。
目が合うと、母が近づいてきた。
「アネット。帰りましょうか」
声を荒らげないのは、私が大勢の前で泣くのを気にしているからだろう。領地にいる父へは、母からも知らせてくれるに違いない。
帰って、寝室で泣く。明日からは外へ出るのも嫌になるかもしれない。
そう思ったとき、弦を試しに鳴らす音がした。子供の頃から何度も聞いた、あの曲の出だしだった。
私は楽団を見た。踊りの列へ向かう人たちの足が、もう拍子を取っている。
「お母様。お父様には、私からも手紙を書かせてください。でも、今夜はまだ帰りたくありません」
母が私の顔を見た。
私はマリウス様へ向き直る。声は少し震えたが、言うことは決まっていた。
「婚約破棄は、お受けします。両家のお話はきちんと済ませてくださいませ。私は、これから踊ります」
「踊る?」
彼はあきれた顔をしたあと、私の周りを見回した。
今夜、彼以外とは一曲も踊っていない。他の方に声をかけられても、婚約者を待っていると言っていたのは私だ。
「もう踊る相手もいないな。今さら誰に頼むつもりだ?」
その言い方に、頬が熱くなった。私が彼の袖を引いて、撤回してくださいと頼むところでも見たいのだろうか。
けれど、踊りたい相手ならいた。
壁際の椅子に座っている、白髪のお祖父様。隣の卓には葡萄酒のグラスがあり、磨いた靴の先が、床を小さく叩いていた。
両膝にそろえて置いた手の指も、拍子に合わせて動いている。
私は母に扇を預け、お祖父様の前へ歩いた。マリウス様が、すぐ後ろで私の名を呼んだ。
「お祖父様。私と一曲、踊っていただけますか」
拍子を取っていた指が止まった。
お祖父様は私の顔を見て、それから踊りの列を見た。驚いた顔がゆっくりとほころび、目尻の皺が深くなった。
「私を誘ってくれるのかい」
「はい。あの踊りを、ご一緒したいんです」
言い終わらないうちに、胸が詰まってしまった。
自分が好きなことを、好きな人に一緒にしてほしいと頼む。それだけの言葉が、こんなに言いづらくなっていた。
お祖父様は立ち上がり、少しもおかしそうにせず、私へ手を差し出した。
「それは嬉しいな。今夜は靴を磨いてきた甲斐があった」
白い手袋に包まれた手を取った。
子供の頃は、両手を伸ばさなければ届かなかった腕だ。今は同じ高さで顔を見られる。お祖父様がこんなに嬉しそうなのを見るのは、久しぶりだった。
「アネット。本気で、その踊りに出るのか」
マリウス様が言った。お祖父様の足元まで見て、眉を寄せる。
「ご老人を引っ張り出してまで、意地を張らなくてもいいだろう」
「私が踊りたくて、お誘いしたんです」
まだ泣きそうだった。だからこそ、そこだけは間違えてほしくなかった。
お祖父様は私の手を離さず、彼を見た。
「私も踊りたいのでね。失礼するよ」
短い返事だった。マリウス様の方を振り返って、許しを待つ必要はなかった。
母が私にうなずいた。その向こうで、主催のロシュ伯爵夫人が踊りの列を整えている。若い男女も、ご夫婦もいた。夫人自身は姪御さんと手をつないでいる。
私はお祖父様の腕を取り、そちらへ向かった。
* * *
「ベルニエ様、こちらがあと一組ですわ。アネットさんも、どうぞ」
伯爵夫人に迎えられ、私たちは空いていた場所に入った。
子供の頃、お祖父様は家の大広間でこの踊りを教えてくれた。私が手順を間違えると、鍵盤楽器を弾いていた母が最初へ戻る。何度もやり直して、終わる頃には三人ともくたくたになった。
王都へ移ってからも、お祖父様とは一緒に夜会へ来ていた。それなのに、婚約してからは一度もお相手をしていない。
誘ってくださったとき、私は、もう子供ではありませんから、と言ってしまった。
「ずいぶん久しぶりですね。間違えたら、教えてくださいませ」
「もちろん。私が間違えたら、アネットが教えておくれ」
お祖父様は真面目に頼んだ。踊りが始まる直前、私の手が固くなっているのに気づいて、そっと握り直す。
「途中で帰りたくなったら、そう言いなさい。一曲全部、頑張る必要はないからね」
先ほどの話は、椅子から聞こえていたのだ。
聞こえたうえで、私の望みを確かめて、踊りの相手になってくれた。
「ありがとうございます。でも、最後まで踊りたいです」
「うん。では、そうしよう」
弓が弦を滑った。
お辞儀をして、向かいの組と場所を替わる。四つ数えて、戻ってくる。頭で考えるより先に足が動き、スカートの裾がふわりと広がった。
こんなに軽く動ける靴だっただろうか。いつもは背筋を伸ばし、一歩を小さくすることばかり考えていた。
お祖父様の肩越しに母が見えた。預けた扇を胸に当てて、こちらを見ていた。
次は列の内側へ向かうところで、私は右へ出てしまった。
お祖父様もつられて、私についてくる。向かいの夫婦と四人で、同じ隅へ集まってしまった。
いけない、と思った瞬間、奥様が肩を揺らした。
「まあ、ここはずいぶん混みますこと」
「申し訳ない。私たちは向こうでしたな」
お祖父様が空いた場所を示す。奥様のご主人が大きくうなずき、わざと丁寧なお辞儀で道を譲ってくれた。
失敗して恥ずかしいはずなのに、笑いがこみ上げた。私は口を閉じようとして、できなかった。
「私が先に間違えたんです。お祖父様まで連れてきてしまって」
「そうだったか。私はついていけば大丈夫と思っていたよ」
今度こそ、声を立てて笑った。
お祖父様も笑っている。近くの人は眉をひそめるどころか、戻った私たちへ次の順番を教えてくれた。
音楽に合わせて、列がほどけ、またつながる。間違えた場所を通り過ぎると、お祖父様が得意そうに片方の眉を上げた。それがおかしくて、また笑ってしまった。
笑うたびに、喉の奥の痛みが少しずつほどけていく。
手を取り合い、ゆっくり回るところで、私はお祖父様の顔を見た。
額には汗が浮かんでいた。それでも足取りは確かで、口元にはずっと笑みがある。
私に合わせて、仕方なく出てきたのではない。今、一緒にこの曲を楽しんでいる。
嬉しかった。私がしたいと言ったことを、こんな顔で喜んでもらえるのが、ただ嬉しかった。
「お祖父様、ここから速くなりますよ」
「知っているとも。昔、教えたのは誰だったかな」
私はうなずき、次の拍子で足を踏み出した。
相手を替え、また戻って、お祖父様の手を取る。最後のお辞儀までたどり着くと、胸が弾んで、息がうまく整わなかった。
楽団への拍手が広間を満たした。私も力いっぱい手を叩き、隣のお祖父様へ向き直った。
「楽しかったです。本当に、楽しかった」
二度言うと、涙が出た。
悲しかったはずの夜に、こんなふうに楽しい時間があっていい。それを誰かに許してもらいたくて、私はずっと、自分で断っていたのだ。
お祖父様は胸のポケットから清潔なハンカチを出し、私に渡した。
「私もだよ。誘ってくれて、ありがとう」
私はそれを受け取り、目元を押さえた。
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