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第十一話 生き残った者の罪

明治二十九年、八月。


藤堂朔が篠塚宗一郎のもとを去って、二十三日が過ぎた。


その間、宗一郎は一度も朔を訪ねなかった。

訪ねられなかったのではない。訪ねないことが、初めて自分にできる誠実さだと思ったからだ。


診療所の机には、あの日の調査記録が残されている。

宗一郎はそれを封筒に収め、鍵のかかる引き出しへしまった。


患者の過去を知ることと、その過去に踏み込む権利を持つことは違う。


医師になって十年近く、そんな当たり前のことを、彼はようやく理解した。


「先生、また昼食を抜かれましたね」


白石澄が呆れたように告げる。


「食欲がなくて」


「藤堂さんなら、きっと怒りますよ」


宗一郎は苦笑した。


「……ええ。ひどい言葉で」


その声を、もう一度聞きたかった。


*


同じ頃、朔は《花霞》の片隅で酒を飲んでいた。


「今日はお一人ですか」


八重が尋ねる。


「見りゃわかるだろ」


「そうですね。いつもより、ずいぶん寂しそうですもの」


「……ここの女将は客を追い払いたいのか」


八重は笑い、燗酒を置いた。


「篠塚先生も、このところいらっしゃいませんね」


朔の指が止まる。


「……知らねえよ」


「ええ。存じております」


八重はそれ以上、何も言わなかった。

その沈黙が、かえって朔には堪えた。


宗一郎は優しい男だった。

優しすぎて、他人の痛みを自分の責任にしてしまう。


あの男に抱かれた夜、朔は初めて、自分の身体を憎まずに眠れた。

それがどれほど救いだったか。


だからこそ、勝手に過去を調べられたことが許せなかった。

自分が渡したかったのは、傷のある身体であって、傷を負った理由ではなかったのだ。


「……馬鹿な医者」


朔は呟き、盃を置いた。


会いたかった。


それが腹立たしかった。


*


三日後、宗一郎の診療所に朔が現れた。


「……診察じゃない」


開口一番、そう告げた。

宗一郎は立ち上がりかけ、思い直して椅子に座り直した。


「わかりました」


「聞きたいことがある」


「はい」


「久世少尉のこと、どこまで知ってる」


宗一郎は息を呑んだ。

朔は杖を握り締めたまま、窓際に立っている。


「俺が話す。だから、途中で勝手に調べたりするな」


「……約束します」


「今度破ったら、二度と会わねえ」


宗一郎は静かに頷いた。


*


明治二十八年、二月。


朔の記憶に残る戦地は、雪ではなく泥に覆われていた。

輸送隊は予定された経路を外れ、負傷兵を乗せた荷車が立ち往生していた。


「藤堂、動けるか」


久世千景少尉は、血の滲む額を袖で拭いながら笑った。


「……少尉こそ、顔色が悪いですよ」


「生まれつきだ」


「嘘つけ」


「上官に向かって失礼だな」


こんな状況でも、千景は冗談を忘れなかった。

だが、その瞳は笑っていなかった。


「命令が変わった。負傷者は別経路で後送する」


「少尉は?」


「俺は確認することがある」


千景は一枚の書類を朔に押しつけた。

軍需品の数量と、実際の輸送記録が一致していない。


「……これ、何です」


「見なかったことにしてくれ」


「だったら、何で俺に渡すんですか」


千景は困ったように笑った。


「お前なら、捨てずに持っていてくれると思ったから」


その直後、遠くで銃声が響いた。

朔が振り向いた瞬間、荷車の馬が暴れ、車輪が深い溝へ落ちた。


「藤堂!」


千景が飛び込んできた。

押し倒された朔の右脚に、荷車の重みがかかった。


骨の砕ける音を、朔は今も覚えている。


「……少尉、逃げて」


「黙れ。まだ動くな」


千景は必死に荷を退けた。

朔の脚から血が流れ、泥を赤く染める。


「俺を置いていけば、あんたは逃げられる!」


千景は一瞬だけ顔を上げた。


「藤堂」


その声は、不思議なほど穏やかだった。


「俺は、誰かを置いていくために軍服を着たんじゃない」


千景は朔を背負い、後送隊のいる場所まで運んだ。

そこで朔の意識は途切れかけた。


最後に見たのは、千景が軍服の袖章を外す姿だった。


「これを持っていろ」


「……何で」


「俺が誰だったか、忘れないために」


千景は笑った。


「お前は生きろ。俺のことは、誰にも言うな」


それが、朔の覚えている最後の言葉だった。


*


「……俺は、あの人を置いてきた」


語り終えた朔は、唇を噛んだ。


「助けてもらって、逃げて、何も言わなかった」


宗一郎は黙っていた。


「その後、久世少尉がどうなったのか、俺は知らない。死んだのか、生きてたのかも」


朔の声が震えた。


「なのに、俺だけ生きてる」


宗一郎は立ち上がった。

けれど、触れなかった。


「……朔」


「何だよ」


「君は、彼を置いてきたのではありません」


朔が顔を上げる。


「彼が、君を生かしたんです」


「同じことだろ!」


「違います」


宗一郎は初めて、強い声で答えた。


「君が生き残ったことを、彼の死の理由にしてはいけない」


朔の瞳から、涙が落ちた。


「……じゃあ、俺はどうすればよかった」


「わかりません」


宗一郎は正直に答えた。


「私にも、正しい答えはありません」


朔は俯いた。


「……あんた、本当に役に立たねえ医者だな」


「ええ」


「……でも」


朔は震える手を伸ばした。


「今だけ、触ってくれ」


宗一郎はその手を取った。

強く握り返すと、朔は堰を切ったように泣き始めた。


宗一郎は何も言わず、彼を抱き締めた。


許すとも、救うとも言わなかった。

ただ、朔が泣き終えるまで、そこにいた。


*


夕暮れ、朔は帰り支度を始めた。


「……なあ、宗一郎」


「はい」


「俺は、まだあんたを許してない」


「わかっています」


「でも、嫌いにもなれねえ」


宗一郎は微笑まなかった。


「……私も、君が好きです」


朔は目を伏せた。


「知ってる」


その耳が、少し赤かった。

扉の前で朔が振り返る。


「……次は、俺が来る」


宗一郎は頷いた。


「待っています」


朔は小さく笑った。


「今度は、勝手に迎えに来るなよ」


「ええ」


扉が閉まる。

宗一郎はしばらくその場に立っていた。


やがて机の引き出しを開け、封筒を取り出す。

中には千景の死亡記録に関する写しがあった。


そして、朔が語った輸送隊の経路と、記録に記された経路は一致していなかった。


宗一郎はその違いを見つめ、静かに封筒を閉じた。


今はまだ、調べない。

ただ、朔が自分の意思で次の言葉を選ぶ日を待つ。


それが、彼にできる最初の償いだった。


生き残ったことは罪ではない。


けれど、生き残った者がその言葉を信じられるまでには、長い時間が必要だった。


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