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第十二話 君の傷と生きていく

明治三十三年、四月。


篠塚宗一郎が藤堂朔に求婚したのは、桜の散る午後だった。

もっとも、本人には求婚した自覚がなかった。


「……一緒に暮らしませんか」


診療所の窓辺で、宗一郎は包帯を巻きながら、ごく自然にそう告げた。


朔は飲みかけの茶を盛大に噴いた。


「……は?」


「ですから、私の家に」


「聞こえてる! 何で包帯巻きながら言うんだよ!」


「手を止めると、君が逃げそうなので」


「逃げるわ!」


宗一郎は困ったように笑った。


四年前なら、その笑顔を見ただけで腹が立った。

今は違う。


腹が立つのは、こんなにも大切なことを平然と言える男が、自分の返事ひとつでどれほど傷つくか、少しも考えていないように見えるからだった。


「……あんた、本当に馬鹿だな」


朔は俯いた。


「俺は、あんたの荷物になるぞ」


「荷物なら、私の書斎に山ほどあります」


「茶化すな」


宗一郎は包帯を留め、ようやく顔を上げた。


「茶化していません」


その眼差しは、ひどく真剣だった。


「君の脚が痛む日も、機嫌が悪い日も、私を嫌いになる日もあるでしょう。それでも、帰ってくる場所を同じにしたい」


朔は唇を噛んだ。


「……俺は、治らないぞ」


「知っています」


「昔のことだって、忘れられない」


「ええ」


「それでも?」


宗一郎は微笑んだ。


「それでも、君と生きたい」


朔は顔を背けた。


「……ずるい男」


その声が震えていた。


*


二人が再び恋人になったのは、四年前の夏だった。

あの日、朔は自分の意思で宗一郎の診療所を訪れた。


「……今日は、泊まっていいか」


宗一郎は驚いた顔をしたが、理由を尋ねなかった。

ただ、静かに頷いた。


その夜、朔は自分から宗一郎に口づけた。


「……もう、勝手に俺の過去を調べるな」


「約束します」


「俺が話したら、聞け」


「はい」


「……それから」


朔は宗一郎の胸元を掴んだ。


「俺を、可哀想な男にするな」


宗一郎はその手に唇を寄せた。


「君は、私が愛している男です」


朔は泣きそうに笑った。

その夜、宗一郎は朔の傷痕に触れた。


治療のためではなく、そこに生きている彼を愛おしむために。


朔は彼の首に腕を回し、何度も名前を呼んだ。

失ったものを数えるのではなく、今ここにある温もりを確かめるように。


朝になっても、朔は宗一郎の腕の中にいた。

それが、二人の新しい始まりだった。


*


それから四年。


朔の脚は、以前と同じには戻らなかった。


雨の日には疼き、長く歩けば腫れた。夜中に痛みで目を覚ますこともあった。


それでも朔は、少しずつ自分の生活を取り戻していた。


診療所の壊れた棚を直し、薬棚を整理し、ときには患者の荷物を運ぶ。


宗一郎が止めようとすると、決まって怒った。


「俺の仕事を奪うな」


その言葉を聞くたび、宗一郎は思い出す。


愛することは、相手から苦しみを取り除くことではない。

その苦しみを抱えたまま生きる相手の、隣にいることなのだと。


*


同居を決めた夜、二人は《花霞》を訪れた。

八重は何も聞かず、祝いの小鉢を二つ並べた。


「……何でわかるんだよ」


朔が眉をひそめる。


「女将ですもの」


「理由になってねえ」


宗一郎が笑った。


八重は二人を眺め、ふと表情を和らげた。


「よかったですね、篠塚先生」


「……はい」


「久世さんも、きっと喜ばれますよ」


その名に、朔の指が止まった。

宗一郎も、静かに盃を置く。


四年前なら、二人ともその名前を避けただろう。

けれど今は違った。


「……あの人なら、きっと笑う」


朔が呟いた。


「『お前、あの軍医と一緒になったのか』って」


宗一郎は微笑んだ。


「そして、君にからかわれるのでしょうね」


「絶対にな」


朔は笑った。

久世千景の名を口にして、初めて、泣かずに笑えた。


*


帰り道、朔は宗一郎の袖を掴んだ。


「……なあ」


「はい」


「俺、まだ話してないことがある」


宗一郎は足を止めた。


「久世少尉のことか」


「ああ」


朔は夜空を見上げた。


「俺が助けられたあの日、あの人は確かに生きていた」


宗一郎は黙って聞いた。


「でも、戦死したって記録された。その記録に、あんたの名前があると思ってた」


宗一郎の表情が変わった。


「……私の?」


「軍医が死亡を確認したって、そう聞かされた」


宗一郎はゆっくり首を振った。


「私は、久世少尉の遺体を診ていません」


朔が振り向く。


「……本当か」


「ええ」


宗一郎は静かに続けた。


「私が記したのは、身元不詳の負傷者に関する照会だけです。久世少尉の死亡診断書に、私の署名はありません」


朔の顔から血の気が引いた。


「……じゃあ、誰が」


宗一郎は答えなかった。

答えられなかった。

ただ、四年前に見た記録を思い出していた。


明治二十八年二月十八日。

身元不詳の負傷者一名。

後送記録なし。


そして、その前日に戦死したとされた久世千景少尉。


「……宗一郎」


朔が震える声で呼んだ。


「俺たち、何を見落としてたんだ」


宗一郎は彼の手を握った。


「わかりません」


そして、今度は逃げずに続けた。


「ですが、君が望むなら、一緒に確かめましょう」


朔は長い沈黙のあと、頷いた。


「……ああ」


*


翌朝。

榊原清継のもとに、一通の手紙が届いた。


差出人は篠塚宗一郎。

清継は封を切り、便箋を広げた。


そこには、簡潔な文章が記されていた。


『久世千景少尉の死亡記録について、確認したいことがございます』


そして、最後に。


『私は、彼の死亡を確認しておりません』


清継は、しばらく動かなかった。

窓の外では、桜が散っている。


あれから五年。

春が来るたび、清継は千景の名を思い出していた。


けれど、今度の春は違う。

清継は静かに立ち上がった。


机の引き出しには、あの日届いた手紙がある。


『どうか、俺を探さないでください』


清継はそれを取り出し、もう一度だけ読んだ。


「……千景」


声は、少しも震えなかった。


「お前の嘘は、まだ終わっていないらしいな」


そして、軍帽を手に取った。


――第二部・完。


傷は消えない。けれど、その傷を抱えたまま、誰かと生きていくことはできる。


それを知った二人が、今度は死者の残した沈黙に手を伸ばそうとしていた。

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