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第十話 愛しているとは、治すことではない

明治二十九年、七月。


篠塚宗一郎は、人の傷に触れることを恐れたことがなかった。

傷口を洗い、膿を除き、必要ならば肉を切る。

痛みを取り除くための行為なら、どれほど残酷に見えようと躊躇わない。それが医師の務めだと信じていた。


だから、藤堂朔の手を握ることに、これほど勇気がいるとは思わなかった。


「……何だよ」


診察を終えた朔が、宗一郎の指先を見下ろす。


「脈でも測る気か」


「いいえ」


「じゃあ、離せ」


「嫌です」


朔が目を見開いた。


「……は?」


宗一郎は困ったように笑った。


「医者としては、あまり褒められた返答ではありませんね」


「医者として?」


「今は、一人の男としてです」


夕暮れの診察室に、蝉の声が満ちていた。

朔は視線を逸らしたが、手を引かなかった。


「……あんた、案外たちが悪いな」


「よく言われます」


「嘘つけ」


その唇が、ほんの少し笑った。

宗一郎は初めて、診察室の外でも彼に触れたいと思った。


*


その夜、二人は《花霞》で酒を飲んだ。


「今日は酒なんだな」


「約束しましたから」


「律儀な男」


朔は盃を傾け、宗一郎を横目で見た。


「……俺に構って、何が楽しい」


「楽しいことばかりではありませんよ」


「正直すぎるだろ」


「君はすぐ怒りますし、薬は嫌がるし、診察中に私を罵ります」


「帰るぞ」


「ですが」


宗一郎は盃を置いた。


「君が笑うと、嬉しい」


朔の指が止まった。


女将の八重は二人の様子を一瞥すると、何も言わず奥へ引っ込んだ。

朔は長い沈黙のあと、低く呟いた。


「……俺は、まともな男じゃない」


「知っています」


「おい」


「それでも、好きですよ」


あまりにも静かな告白だった。

朔は笑おうとして、失敗した。


「……馬鹿な医者」


声が震えていた。


*


朔の部屋に着く頃には、雨が降り始めていた。


「泊まっていけ」


朔は背を向けたまま言った。


「雨、強くなる」


宗一郎は頷き、濡れた上着を脱いだ。


狭い部屋には、布団が一組しかない。

朔はそれを見て、わざとらしく溜息をついた。


「……医者なら、床でも寝られるだろ」


「君が寒くなければ」


「そういう意味じゃねえよ」


宗一郎が笑うと、朔はその胸倉を掴んだ。


「……笑うな」


「朔」


初めて名前を呼んだ。

朔の瞳が揺れる。


「……何だよ」


「口づけても?」


返事の代わりに、朔が宗一郎を引き寄せた。

触れた唇は、思っていたより熱かった。


宗一郎がそっと腰に腕を回すと、朔は一瞬だけ身を強張らせる。宗一郎はすぐに手を緩めた。


「痛みますか」


「……違う」


朔は額を寄せた。


「こんなふうに触られるの、久しぶりなんだ」


宗一郎は答えず、その背を撫でた。

朔が自分から腕を回してくるまで、待った。


やがて重なった口づけは深くなり、朔の指が宗一郎のシャツを掴む。


「……宗一郎」


その呼び方に、胸が痛んだ。


「はい」


「今夜だけは、医者になるな」


宗一郎は彼を抱き締めた。


「……わかりました」


灯りを落とした部屋で、二人は互いの体温を確かめ合った。


朔の傷痕に触れるとき、宗一郎は治療のための手つきを捨てた。

ただ、そこに生きている男を愛おしむように、静かに口づけた。


朔は目を閉じ、宗一郎の髪に指を絡めた。


「……そこ、痛くない」


「ええ」


「だから……離れるな」


その夜、朔は初めて、自分の傷を隠さずに眠った。


*


翌朝、宗一郎は朔の寝顔を見つめていた。

薄い夏掛けから覗く肩には、古い傷痕がある。


昨夜、そこに触れたとき、朔は泣きそうな顔で笑った。

宗一郎はその表情を忘れられなかった。


――君の傷を治したい。


そう思うことが、いつから愛情と同じ意味になってしまったのだろう。

朔が目を開けた。


「……何見てる」


「綺麗だと思いまして」


「頭でも打ったか」


「いいえ」


朔は赤くなった顔を隠すように布団を被った。

宗一郎は笑い、その髪を撫でた。


幸せだった。


だからこそ、恐ろしかった。


*


数日後、宗一郎は軍医時代の知人を訪ねた。


久世千景の死亡報告に関する記録。

藤堂朔の搬送経路。


そして、二月十八日に姿を消した身元不詳の負傷者。


三つの記録には、同じ地名が残されていた。


「……この件は調べない方がいい」


知人は低い声で告げた。


「黒田殿の名前が出てくる」


宗一郎は黙っていた。


「篠塚。お前はもう戦地にいない。余計なことに関わるな」


それでも宗一郎は、記録の写しを持ち帰った。


朔が夜ごと悪夢に魘される理由を知りたかった。

彼を苦しめる過去を、取り除きたかった。


その願いが、朔自身の意思を置き去りにしていることに気づかないまま。


*


夕刻、朔が宗一郎の部屋を訪れた。


「……何だ、これ」


机上の書類を見つけた朔の声が変わった。

宗一郎は立ち上がった。


「朔、聞いてください」


「俺の記録じゃねえか」


「君のために調べていたんです」


朔の顔から血の気が引いた。


「……俺のため?」


「君が抱えているものを、少しでも軽くできればと」


「誰が頼んだ」


静かな声だった。

宗一郎は言葉を失った。


「俺は、話したくなったら話すと言った。あんたも待つと言っただろ」


「……はい」


「なのに、何で勝手に掘り返す」


朔は書類を握り締めた。


「俺の傷は、あんたの仕事じゃない」


宗一郎が一歩近づくと、朔は後ずさった。


「触るな」


その一言が、刃のように胸を裂いた。


「……朔」


「昨夜、俺があんたに触らせたのは」


朔は唇を噛んだ。


「治してほしかったからじゃない」


宗一郎は動けなかった。

朔の瞳には、怒りよりも深い悲しみがあった。


「……好きだったからだよ」


初めて聞く愛の言葉は、別れの形をしていた。

朔は書類を机に戻し、杖を取った。


「もう来るな」


扉が閉まる。


宗一郎は追いかけなかった。

追いかける資格がないと、ようやく理解したからだ。


机上には、朔の名前が記された記録が残っていた。

宗一郎はそれを見つめ、震える手で閉じた。


人の傷を治すことと、人を愛すること。

その二つが同じだと信じた瞬間、自分は朔から、最も大切なものを奪ってしまった。


――傷を見せてくれたことは、その過去まで差し出すという意味ではなかった。


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